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         今はもう世界は私のためには花咲かない
         風も鳥の鳴き声も私には呼びかけない
         私の道は狭くなった
         私は行き過ぎる
         ひとりの友も私の道づれにならない

           『転機』ヘルマン・ヘッセ

 

第一章

一 転機


 過去、帝国軍元帥の戦死と同時に一人の少女がオーディンから忽然と姿を消した。
 少女の名は『ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン=ブラウシュタット』。戦死した元帥、ブラウシュタット侯爵レオン・ルーイヒの一人娘で当時十歳。
 そのニュースは当時、貴族・平民、果ては皇族を問わずおよそすべての帝国人を震撼させた。捜査の手はありとあらゆる方向へ伸びばされたが、結局発見することは出来ぬまま打ち切られる。
 そしてその事件は年月をおうごとに少しずつ忘れ去られていった。
 今その事件を覚えているのは恐らく、レオン・ルーイヒという人間に果てしない憧憬、もしくは疑念を抱いていたであろう一握りの軍および皇宮関係者だけである。

「何か言いたそうですね、先輩」
「言われるようなことをお前がやったんだろうが」
 同盟軍統合作戦本部ビルのラウンジで、士官学校を卒業したばかりのヘネラリーフェと一応士官学校の先輩にあたるダスティ・アッテンボローの会話は周りを気にしてか幾分声が潜められていた。ちなみにアッテンボローは現役の軍人であり階級は中佐である。
 アッテンボローの先輩という肩書きに『一応』が付くのは、ヘネラリーフェにとって彼は先輩である以前に婚約者の同僚であるというところからきている。
 年齢差六歳とあっては、士官学校で二人が机を並べたことなどある筈もない。二人が知己なのは間にダグラス=ビュコックというひとりの人間を挟んでの結果であった。
「言いたいことがあるならハッキリ言って下さい。気持ち悪い」
「じゃあ言わせて貰うが、その髪はどーした!?」
ヘネラリーフェの琥珀色の髪。陽光にキラキラと映えるそれは、光のあたり具合によっては黄金色にも茶色にも見え、金茶という形容の方がより相応しくも思える。
 肩まである柔らかなその髪は、だがつい昨日までは長く腰まで垂らしていたものであった。
「それはなんなんだ?」
「見てわからない? 切ったのよ」 
 これが何か問題なのか? とでも言いたげにサラリと言いのけられた言葉にアッテンボローは思わず脱力した。
「そんなこたぁわかっている。どうしてそうなったのかと聞いているんだ!」
「イメチェン」
 単純明快すぎる返答に頭痛がした。元来ヘネラリーフェという人間は自分の分が悪くなるとスルリスルリとはぐらかし、挙げ句の果てに話を混ぜっ返して更にややこしくするか逆に有耶無耶にするという才能に異常に長けているのだ。
 そのことに思い当たったアッテンボローは、結局それ以上問い詰めることを諦めざるを得なかった。これ以上問い詰めたところで、ヘネラリーフェの性格なら逆に頑なに口を噤むことが簡単に想像できたのだ。
 女が髪を切るからにはそれ相応の理由があるのだということはわかる。そしてそのことについてもアッテンボローには思い当たることがありすぎた。
「他に何か聞くことは?」
 ほとんど嫌味と取れるその言葉にアッテンボローは深々と溜息をついた。
 黙っていれば清冽で優美で静穏な印象を受ける。そして人並み以上の美貌も他人の目を惹き付ける要因になっていた。
 光に透ける琥珀色の髪に翡翠を思わせる深い青緑色の双眸。整った柳眉、すっきり通った鼻梁、端麗で可憐な口元、白皙の肌。どちらかと言えば年齢より幼く見られがちな可愛らしい顔立ちである。ただしあくまでも黙っていればだ。
 大抵の男はこの外見でコロリと騙される。恥ずかしながらアッテンボローもそのうちの一人であった。もっとも彼が騙されたのはもうかれこれ十年近くも前の話であり、騙されるというのも最近増産される被害者とは少々意味合いが違っているのだが。
 そして決定的に違うのはアッテンボローが騙されたままではなかったということ。
 髪が長かろうが短かかろうが、淑やかだろうがお転婆だろうが、ヘネラリーフェという女を知れば知るほど、アッテンボローが惹き付けられることには違いなかった。
 勿論外見だけに惹かれているわけではない。念のため。
「じゃ、私はこれで」 
「どこか行くのか?」
 立ち上がったヘネラリーフェの姿にアッテンボローは軽く違和感を覚えた。
(何故軍服なんだ?)
 ヘネラリーフェの今日の服装は軍服。士官学校を卒業した者がほぼ全員そうであるように襟元に少尉の階級章がつけられている。それ自体は特に不思議なわけではない。
 士官学校に入ったその瞬間から学生は単なる学生ではなくあくまでも軍人と見なされる。そしてそれはヘネラリーフェとて例外ではなかった。
 だが、士官学校の卒業式を終わらせ配属先が決まるまでの数週間は休暇同然であるのだ。何も軍服でいる必要はない。
 しかも同年代のブランド狂いの娘達に比べればヘネラリーフェはそれほど服装にこだわる方ではないととれるものの、世間一般的に見れば並以上には服装に気を使う女であった。
「ダグに会ってくるの」
 言葉を言葉通りに受けとれば、それは単にデートをほのめかすものでしかない。しかしアッテンボローは表情を引き締めた。
「俺も行く」
 事情を知らない者が聞けばただの出歯亀かお邪魔虫と思われる言葉であったが、当人にとっては真面目な問題であった。

「それにしても早いもんだな、もう卒業なんて」
 ハンドルを握りながらアッテンボローが呟いた。士官学校は四年制である。入学したときヘネラリーフェは十六歳だったが、十歳くらいの頃から彼女を見てきたアッテンボローにしてみれば、まだまだ子供だと思っていただけに成人したと聞いてもどこか信じられない想いがある。
 聞けば成績は首席だったという。天性の才能なのか血筋なのか……特に用兵・戦略関係の授業は次席を大きく引き離しての首席であったらしい。教官もこぞって絶賛したと聞いている。
 確かに学校でのシュミレートと実戦では違うだろう。だが、彼女のそれは明らかに実戦に絶えうるものであった。それ程の才能ならば間違いなく艦隊司令官クラスにまで上り詰めるであろうヘネラリーフェを、だがアッテンボローは素直に祝福する気にはなれなかった。
 それはヘネラリーフェの恋人ダグラスも同じ考えの筈である。いや、この場合あったと言うべきなのかもしれない。
 ダグラス=ビュコック、同盟軍第五艦隊司令官アレクサンドル=ビュコック中将の一人息子でありヘネラリーフェの婚約者である彼は、だがこの世界には既に存在しない人物であった。
 アッテンボローの士官学校の同僚でもある彼は、二年前カプチェランカでの陸戦で命を落とした。最愛の女性と両親を残して。今ヘネラリーフェとアッテンボローが向かっているのは戦没者の墓所である。彼女が軍服を着ていたのも、墓前への卒業と従軍の報告の為であった。
 最愛の恋人を亡くしたことで自暴自棄になって軍人への道を選ぶ。三流ドラマにはありがちなシナリオであるが、多くの人間の予想を裏切ってヘネラリーフェの軍人志願は恋人を亡くす前からの希望であった。
 恋人ダグラス=ビュコックの戦死が宇宙歴七九三年、ヘネラリーフェの士官学校入学はそれ以前の七九一年だったということからもそれが伺い知れる。が、世の中は美談を欲しているのだ。一々他人に説明する義務も忍耐もないため、事情を知るごく一部の人間以外はヘネラリーフェの入隊の理由は恋人の死亡にあるとされていた。
 単純に考えても年齢が合わないと気付いても良さそうなものなのだが、そんなことは美談を欲している人間にとってはどうでもよいことであるし、アカの他人が年齢のことまで知っているとも思えない。
 まあ、政府高官や軍上層部の人間ならばその辺りの情報に陰で手を加えられそうでもあるし、当の本人はそんなことに構ってられないという考えを貫くつもりらしいので、トドのつまりヘネラリーフェや彼女に近しい人間にとっては文字通り『どうでもいい』話であった。
 だが、考えようによっては妙な話である。士官学校を卒業したばかりのたかだか一介の少尉の情報に何故政府高官や軍上層部が絡んでくるのか。それは彼女の生い立ちに原因があった。
 ヘネラリーフェ・セレニオンという名の下に付くはずの姓、これに対して無心ではいられない人間が民主主義を謳うこの国には多く存在するのである。
 今でこそ同盟軍第五艦隊司令官ビュコック中将の養女という立場を確立したヘネラリーフェであるが、彼女の本名は『ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン=ブラウシュタット』という。正真正銘の帝国貴族、それも侯爵家のお姫様であった。
 しかし、親が亡命したのかと問われれば否という答えを返すしかない。彼女が今ここにいるのは親の希望でもましてや本人の意思でもなく、ただ運命の悪戯故にであった。

「何も先輩まで来ることなかったのに」
「お邪魔だったか?」
 まさか……ヘネラリーフェは笑いながら、それでもアッテンボローの方に視線を向けることもなくさっさと車を降りて歩いて行く。明らかに他人を拒絶する気が背中に漂っていた。
 海からの冷ややかさを含んだ風が優しく吹き抜ける小径を歩いて行くと急に空間がひらけた。戦没者の墓所である。
 その向こうの眼下に広がるのは海。ロケーションは最高だが場所を考えると逆にもの哀しさが漂う。傾きかけた茜色の夕日がそれに拍車をかけていた。
 辺りに人影はなく閑散としている。ヘネラリーフェは亡き恋人の墓前に静かに立った。
(ダグ……私、無事卒業したから)
 心の中で報告をする。アッテンボローの方はそんなヘネラリーフェを背後から見守りつつ先に逝った僚友に毒づいていた。
(逝くのが早すぎるぞ。どう責任取るつもりなんだ?)
 アッテンボローはヘネラリーフェの従軍にあくまでも反対である。それはダグラスもそうであった。
 士官学校では授業料はかからない。つまりタダで勉強ができるのだ。が、そこに落とし穴がある。要するにタダで勉強させてもらうかわりに従軍しなければならないのである。 
 勿論強制ではない。が、その場合四年間の授業料を全額返済しなくてはならないのである。そしてそれは経済的にかなり負担になる金額でもあった。
 ダグラスが生きていれば奨学金などさっさと返済して彼女の従軍を止めただろうし、彼の父親でありヘネラリーフェの養父であるビュコックも十中八九同じ行動を起こしていただろう。いや、現にそうする用意はあったのだ。が、肝心の本人にその意志がまったくなく結局突っぱねられてしまった。
 アッテンボローも何度となく従軍を諦めるよう説得役に回ったものだが、ヘネラリーフェという人間は素直に他人の意見を聞き入れる性格ではなかったし、分がわるくなるとさっさと逃げ出してしまうのである。
 勿論わからず屋などではないし頑なな人間でもない。少々意地っ張りで強がりなところがあるのと質の悪い冗談が得意ではあるが、彼女は意見は意見として冷静に聞き入れることのできる人間であった。が、自分で考え決心したことを簡単には覆さない女性でもあるのだ。
 従軍することを彼女なりに考えに考えた結果である以上これを覆させるのはほぼ絶望に近いものであるのだが、このままいけば彼女が確実に最前線に立たされるであろうことを考えると、それでも反対せずにはいられないという想いがアッテンボローにはあった。
 死なせるわけにはいかないのだ。亡き友人の心に報いるためにも。そしてなによりも彼女の実の父親の最期を思えば……
「従軍する意志に変わりはないのか?」
「何を言い出すかと思えば。今更変更はきかないわ」
 そんな気は更々ないとでも言いたげに、ヘネラリーフェはアッテンボローの方を見ようともせず苦笑を含んだ声で突っぱねた。
「お前、まさかダグラスの奴の元に逝こうって考えているわけじゃないだろうな」
 もっとも危惧していた一言を散々迷いながらもアッテンボローは口にした。ただ本来ならダグラス以外にもうひとり付け加えたいところをグッと我慢して。
 もうひとりとは彼女の実の父親のことである。もっとも彼女の方にしてみれば、アッテンボローの言いたいことなど既にお見通しなのだろうが。
「当たらずとも遠からじ……かな」
「おい」
「冗談よ、そこまでお人好しじゃないわ。私が素直に殺されてあげるような人間だと思う? 何年付き合っているのよ、ダ・ス・ティ」
 微妙な光を帯びた深い青緑色の双眸がアッテンボローを振り返る。その瞳と思わせぶりな口調に思わず狼狽えそうになった。
「顔赤いわよ、先輩」
(こ、このやろ~~~)
 極上の微笑付きのからかうような口調で囁かれ、彼女特有の質の悪さがまた出たなと内心愚痴りながらアッテンボローは深々と溜息をついた。
(ダグラスの奴、どうせなら彼女のこの性格をなんとかしてから逝けばよかったのに)
 不謹慎だと認識はしているものの、内心そう思わずにはいられないアッテンボローであった。

 

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