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第六章

五 呪縛


「父親は戦死と言ったが」
 戦死ということ自体はロイエンタールも知っていたが、状況は当然知らない。元帥が戦死だというのだから余程のことが起きたに違いないが、当時の事を知っている者と言えば……
 レオンの乗艦、つまり艦隊旗艦は消滅していたしその乗員も同盟側に投降したと思われていた。事実レオンは死ぬ間際に最愛の娘だけでなく最期まで自分に付き従ってくれた部下の命の保証もビュコックに取り付けている。つまり帝国に帰還しレオンの死を報告したのは、彼を謀殺するべく裏切った人間ばかりであるということだ。そして、真実を知る者は帝国には存在しないということにもなる。
「戦死じゃないわ、殺されたの」
 この時点で、ロイエンタールは恐らく帝国でレオン・ルーイヒ・フォン=ブラウシュタット元帥の死の真相を知る最初の人間となった。そして、同時にヘネラリーフェのルーツでもある人間をも知ることになったのである。
 僅か一〇歳で父親の死を看取った。しかも尋常の死に方ではない。最終的には自爆だが、それでもそれをヘネラリーフェは目を逸らすことなく見守った。そしてその時の記憶、炎の中に消えていく父親の姿に夜毎うなされた。あまりに酷な話である。どんな気持ちで父親は娘に己の死を看取らせたのか? さしものロイエンタールも考えずにはいられなかった。
 不意にダグラスが今際の際に呟いた言葉が甦る。
『生きろ! こんなつまらない戦闘で命を散らせるな』
 それは顔も知らない筈のヘネラリーフェの父親の心を受け取ったからこその言葉だったのではないのだろうか。いや、それだけではない。レオン・ルーイヒの死を看取ったダグラスにとっての実父、アレクサンドル=ビュコックのものとあわせて二人の父親の心そのものだった筈だ。そしてダグラス自身のヘネラリーフェへの想い。
 トリスタンで出逢ってからこれまで実はロイエンタールはいつかヘネラリーフェが自害しようとするのではないかという危惧を絶えず抱いてきていた。自分がその原因を作っているのだが、反面その兆候が全くではないものの見られないことが不思議でもあった。だがようやくわかった。死なないのではない、死ねないのだ。
 彼女は今のヘネラリーフェを培ってきた者達からの深い愛情を裏切れないのだろう。ロイエンタールにとっては、それこそここ数ヶ月しか知らない存在だがそれでもわかる。ヘネラリーフェという人間が他人の情を無視できない性格なのだということが。自分への優しさもそれに付随するものなのだろう。自分にはない、培われなかった感覚である。
(よりによって憎い筈の男に温情を見せるとは)
 ロイエンタールにとっては信じられない行為。だがヘネラリーフェにとっては至極当然の優しさ。すでに度量が違っていた。
「俺は両親に愛されなかった、それどころか疎まれ続けた存在だ」
 気が付くとロイエンタールは誰にも明かしたことのない心の闇と生い立ちを言葉として紡ぎ始めていた。
 この世で知っているのは僚友であり親友であるミッターマイヤーだけ。それも話そうとして話したわけでなく、カプチェランカのあの凄惨な戦闘の後、血と酒に酔った故の暴露である。
 しかし今は違った。自分の意志で、しかも出逢って間もない所有物としか見ていない筈の女に向かってである。心の動きが信じられなかった。同時に、自分にはない心を持つヘネラリーフェに聞いてもらいたいと心底願った結果でもある。何かがロイエンタールの中で変わろうとしているのかもしれなかった。
「俺の目、不思議だろう? 俗にオッドアイとも呼ばれる左右色違いの目。だがこれのおかげで俺は生後間もないうちに実の母親に目を抉り取られる所だった。母親の目に映っていたのは俺ではなく、俺の右目と同じ色の瞳を持つ愛人の姿だ」
 母レオノラは泣き叫ぶ赤ん坊に半狂乱になってナイフを突き立てようとした。夫に知られれば……そんな想いだけに突き動かされていたのだろう。
 豪奢な屋敷と調度品、それにレオノラの為に建てられた別宅。豪華な衣装と宝飾品の数々、夜毎繰り広げられる舞踏会に晩餐会、オペラ鑑賞、そして若い愛人。それらの全ては夫あってこその虚飾でしかない。自分は没落貴族の娘、実家には彼女の欲望と自尊心を満たす程の財力はないのだ。それに気付いた時、レオノラは無一文で屋敷を追い出される恐怖におののいた。
 夫はレオノラの男遊びにも寛大だった。しかし子供まで成したと知ったらどうだろう? 名誉と身分の為に手に入れた伯爵家出身の花嫁、だが手に入れた名誉を汚すような女をこのまま何事もなかったかのように傍に留めておくことなど余程のお人好しでない限りはしないだろう。
(私の三食昼寝付きが!)
 そう思ったかどうかはわからないが、すっかり冷静な判断力をなくした彼女は腹を痛めて産んだ我が子に刃を向けた。間一髪メイドの発見によって赤ん坊の目は無事だったが、公になる前に我が子の目をとの思惑は外れ、逆に夫に子供の金銀妖瞳が知れる結果となってしまう。本来なら自殺するような性格ではなかったのだろうが、正常な精神を失っていたであろうレオノラはその後自ら命を絶った。
 問題はその後である。父親はねじ曲がった憎しみを浮気したかもしれない妻にではなく幼い我が子に向けたのだ。
「お前など産まれてこなければよかった……そんな呪詛を聞きながら俺は育てられた」
 実の母親に目を抉り出されようとしただけでなく、父親にまで半ば死んでしまえともとれる言葉を投げつけられ続ける。幼い子供にとって両親が世界の全てである。それを存在自体が罪とばかりに拒絶されればどうなるか。情をかけられず愛も知らない子供は、成長してもどこか壊れかけた心を持て余す男になっていった。
 誰も信じられず、生きることに執着もない。他人との関わりを避け、放たれる言葉は淡泊で他人を突き放すような冷たいものばかり。その容姿に誘われて女性関係には不自由することはなかったが、彼女たちが見ているのが自分の容姿、特に珍しい金銀妖瞳であるということがかえって彼を苛立たせた。
 その目こそ彼が最も疎ましいと思っている要因なのだ。そしてそれだけではないが、彼はどこか女性を信じられなかった。いや、信じられないだけではない。憎んでいたと言っても遜色ないだろう。それ故の漁色。彼は無意識に自分を捨てた母親=女を汚そうとしていたのだ。同時に母の温もりを求めていたことは恐らく本人さえも気付いていないだろう。
 母親が自分の目にナイフを突き立てようとした悪鬼の如き所業と恐ろしい形相を覚えているわけではない。彼はあの時まだ目の開かない赤ん坊だったのだ。だが、それはリアルにロイエンタールに襲いかかった。悪夢として……刺さったわけではないナイフの鋭い刃の感触と灼熱の炎に焼かれるかのような激痛が、確かにロイエンタールを追い詰めていたのだ。
 だが不思議なことにそれは戦闘に従事するようになってパタリと消えた。命ギリギリの所で生きていれば悪夢は夢などでなく明らかに現実であり、そして日常茶飯事だからだろうか。
 今夜久しぶりに悪夢にうなされたのは、恐らく封印した筈のあの部屋に偶然にもヘネラリーフェが入り込んでしまったことで、過去の記憶が溢れ出したことが理由だろう。そしてヘネラリーフェを連れ帰ってから生死をわける戦場から遠ざかっているということもあったのかもしれない。
 とにかく戦場は彼を高揚させた。死と隣り合わせだからこそ生きていると実感できた。ロイエンタールは自分の存在理由を確かめる為だけに最前線に出撃していたのだ。そして、同時に死に場所を求める旅人のようでもあった。
 その彼が死の現実を知ったのはやはりあのカプチェランカだろう。死が恐ろしいとは今でも思わない。だが哀しいということは理解できた。大切な者、愛しい者と永遠に引き裂かれる辛さ……だが、ロイエンタールには引き離されるべき大切な者は存在しない。それが益々彼を孤独にし、そして危うげで自虐的で刹那的な生き方を強いらせるのだ。
 もっとも本人にしてみれば人生を分かち合えるようなパートナーなどいらぬと豪語するであろうが。だがそれは彼を縛り付ける呪縛がそれだけ根深いということでもあった。
(少し似ているかも。死に場所を私も探していたわ)
 ロイエンタールの生い立ちを聞きながら、ヘネラリーフェはそう思った。生い立ちは百八十度かけ離れている。ヘネラリーフェは早くに亡くしたとはいえ両親に愛されて育ったし、それは同盟でも同じだった。ビュコック夫妻は彼等の実の息子と同じ、いやそれ以上に彼女を慈しんでくれた。
 そしてダグラス……彼も惜しみない愛情をヘネラリーフェに注いだ。彼亡き後も、ヘネラリーフェは多くの友人に囲まれ情をかけられ生きてきたといえる。その中で最も彼女に恩恵を与えたのは恐らく第十三艦隊の面々だろう。ヤンも然り、アッテンボローは勿論、そしてシェーンコップ……ヘネラリーフェの危うさや脆さを包み込み、死からの誘惑を断ち切ってくれたのは間違いなく彼等だった。
(この人は私が彼等にもらったものをまだ手に入れていないんだわ)
 可愛そうな人だと思った。でもそれが不幸だとは思わない。まだまだいくらでもそれを与えてくれる人に出逢えるチャンスはあるのだ。未来は果てしない。ひょっとしたらもう出逢っているのかもしれないではないか。と、こんな前向きなことを考えること自体が彼等の影響だろう。ただしこんな言葉をロイエンタールに伝えるかどうかは別問題だった。
(幼い頃のトラウマに捕らわれているなんて結構可愛いところあるじゃない。だからってこの男が良い奴だなんて思えないし、手なずけられると思ったら大間違いなんだけど)
 ヤン艦隊の面々がかなり底意地の悪い問題児集団であることは有名な事実である。そのあたりもちゃっかり影響を受けているのがヘネラリーフェのヘネラリーフェたる所以であった。(逆に影響を与えたという声もあるが)
 それでもさすがにロイエンタールの心の傷をわざと広げるような真似をする気にはならない。報復するなら真正面から、それがヘネラリーフェの持論だった。戦闘中ならいざしらず、心の問題に謀略や詭計は必要ないだろう。
 あのオルゴールのあった部屋のことも朧気に理解できた。恐らくあれは自殺した母親のものだ。当時のまま誰にも触らせずにそのままにしてあったのは大切だからではない。むしろその逆だろう。思い出したくない記憶なのだ。だからあの部屋に入ることは勿論のこと処分することすらできない。
 同時にやはり理性では説明できない、そうどこか心の奥底の自分でも気付かないところで母親に対しての執着もあるのだと思う。憎いならさっさと忘れてしまえば良いのだ。
 ロイエンタールはロイエンタール、いつまでも親の影に縛られるより自分の人生を自分で歩むべきだろう。だがそれができないのは、どこかに母親への吹っ切れない想いを抱いているからだ。
 わからなくはない。どんな人間だったとしても産んでくれた母親である。その手の温もりを感じたかっただろうに……あの封印された母親の部屋はロイエンタールの閉ざされた心そのものなのだ。
 今夜の所はこのままゆっくり眠るのが良さそうだと彼女は判断した。今何か言っても恐らくロイエンタールはどんな言葉も受け入れないだろう。本当の辛さや哀しみは自分自身で昇華するしか術はないのだ。他人が何を言っても所詮詭弁でしかない。
「目は大丈夫そうね」
 そう言うとロイエンタールに横になるように促した。どうも母性がくすぐられてしまったようだ。ロイエンタールがまた何か嫌味を言うかなと思ったが意外にもそれはなかった。彼自身生い立ちを吐露したことに些か戸惑っていたというのもあるだろうし、総てを吐き出して強ばりが消えたと思えなくもない。
 だがヘネラリーフェにはわかっていた。これは夜の闇の魔法だと……闇の安寧に抱かれるとき、人は総ての枷や柵から放たれるのだ。宇宙を間近に感じるからだと言う者もいる。そして日が昇ると同時に魔法は解けてしまうのだ。
 蒼い闇だからこそ素直な本来の自分に立ち戻れるのだろうか。だが安寧をくれる筈の宙で戦闘をしているのだから人間とはまったく救いようがない。
考えながらヘネラリーフェはクスリと笑った。自分とロイエンタールもその蒼い漆黒の闇の中で闘っていたのだ。それを思うと嫌いな男とはいっても今こうしてここに一緒にいることが不思議でもある。
「おやすみなさい」
 そう囁くと、ヘネラリーフェは柔らかな口唇をロイエンタールの右目に寄せそっと口付けた。瞬間、刻が止まったかのようにロイエンタールは動けなくなった。
「なんのつもりだ」
 返された言葉は突っ慳貪で淡泊なものだったが、極力冷静にと言い聞かせながら苦労して紡がれたものである。
「安眠のおまじない」
 それだけ言うと、ヘネラリーフェは就寝タイムを逃したとばかりにさっさとベッドに潜り込みアッという間にスヤスヤと安らかな寝息をたてはじめた。
 ロイエンタールに向けられたヘネラリーフェの背に彼はそっと触れた。初めて感じた温もり……そう形容するのが一番相応しいだろう。背に触れた手をそのまま口元を覆うように持っていく。どうすればいいのかわからない……動揺する心に呼応するかのようにロイエンタールの鼓動が早鐘のように打ちつけた。
(何故自分を滅茶苦茶にした男にそこまで優しくできるんだ?)
 そんな人間がいることが信じられなかった。
 いや、他人の為に一生懸命になる男なら知っている。すぐ身近に明るい容姿に相応しい心を持った友が存在している。だが、ヘネラリーフェはそういう関係ではなく、明らかに自分が征服したいわば被害者だ。それを……
 所有物への征服欲、それが生んだどこか落ち着かない心と苛つき。それを、ヘネラリーフェにぶつけることによって彼は己の精神を安定させてきた。だが違ったのだ。 
 冷静になれないのも苛ついたのも捉え方が違っていた所為。
 淡い闇の中、もしヘネラリーフェが目を覚ましていたら恐らく我が目を疑っただろう。ロイエンタールの頬に薄く朱がはしっていた。
「落ち着け」
 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど落ち着きをなくしていく。彼にはまだ総てが理解できたわけではなかった。この動揺が何からくるものなのか、そしてどうすればそれを解決できるのか。ただ奇妙なことにヘネラリーフェへの一種残虐とも思える気持ちは綺麗サッパリ消え失せていた。
 そうじゃない、そうしたいんじゃない。だったら何を? 愛情、恋情……そういった優しさを知らない男は、未だ落ち着かない鼓動と心を持て余すだけであった。
 それでもヘネラリーフェのくれた安眠のおまじないは効果覿面だったようで、暫く後ロイエンタールは安らかな眠りに堕ちていった。傍らに優しい温もりを感じながら……無論翌朝そんな自分に驚愕し苦笑する羽目になるのだが。
彼が本当に自分の欲しいものに気付くまでにはもう少し時間がかかりそうである。

 

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