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第十章

五 SCNSITIVE


 同盟兵が脱出し、トリスタンの司令官室にはロイエンタールと彼にナイフを突き付けたままのヘネラリーフェ、そして殺気立つ帝国兵達だけが残っていた。
 兵達はこの先ヘネラリーフェをどう料理してやろうかといきり立っていたのだが、人質である筈の当のロイエンタールはあまりに冷静だった。そもそもロイエンタールにとって自分が人質になったなどということはどうでも良いことなのだろう。
 それにヘネラリーフェを押さえ込むことなど彼には容易いことの筈だった。無論その辺りはヘネラリーフェ自身が一番自覚していることでもあるのだが。それよりも何よりもヘネラリーフェが僚友と一緒に脱出しなかったことの方が今のロイエンタールにとっては重大なことだったのだ。
「全員持ち場に戻れ」
 ロイエンタールの落ち着いた声がその場に流れる。
「し、しかし閣下」
 いくら上官命令とは言え、その上官にナイフを突き付けたままの女をこのまま放置して持ち場に戻るわけにはいかない。
「戻れっ!」
 再度冷静な、だが拒否を許さない響きを伴った命令が下される。兵達は渋々ながらも立ち去らざるを得なかった。
「ずっと俺にナイフを突き付けたままでいるつもりか? いっそのこと殺したらどうだ?」
 ふたりきりになった空間にロイエンタールの声が低く響く。女になど殺されるつもりはなかったが、これがヘネラリーフェとなれば話は別だ。もっともヘネラリーフェにその気があればの話しだが……
 その言葉に、ヘネラリーフェはナイフをロイエンタールの頸から離すと脱力したように座り込んだ。そしてそれがロイエンタールの言葉への答えでもあった。
「それはこっちの言う台詞よ。いくらなんでも司令官を人質にした女を放っておくわけにもいかないでしょ? さっさと私を殺したら?」
 ヘネラリーフェが呟くように言った。
「お前は俺の所有物だ。俺の物を俺がどう扱おうと勝手というもの。部下に口は挟ません」
 こういう言い方をするところがロイエンタールの素直でないところだろう。かと言って、これまで通り好きだの愛しているだの言えばヘネラリーフェが頑なな心を開いてくれるのかと言えばそうでもない。拗れるだけ拗れている二人の関係が言葉のひとつやふたつで変わるとも思えなかった。
 突然、ロイエンタールがヘネラリーフェの顎に指を掛け上向かせる。そのままねじ伏せるかとも思えるような強引な口付けを施した。柔らかな口唇を割り、舌を絡め、息も出来ぬほど強く深く口唇を合わせる。
 成すがままのヘネラリーフェの腕を引いて立ち上がらせると、その細い躰を今度は荒々しくベッドに突き倒して組み敷いた。
「何よ、さっきの続きでもするの?」
 気の強さを覗かせる言葉の割にはロイエンタールから顔を背け、開いてはいるものの力のない青緑色の双眸ボンヤリと一所を見つめているだけだ。
抵抗さえ見られなかった。完全にされるがままになるつもりだということがロイエンタールにはわかる。
「お前は俺の腕の中で自滅するつもりか!?」
 苛つきが言葉として放たれた。このまま心を、そして自らをも捨て、ロイエンタールの人形に成り果てるつもりなのか……だがその言葉にヘネラリーフェは反応した。咄嗟にロイエンタールを見やる。
「あんた、わざと……」
 あの時ロイエンタールが動かなかったのは、わざと自分をシェーンコップ達と行かせるつもりだったのか!? そして、更に自分の思惑などどうやらお見通しらしいということにも気付いた。敵司令官を人質にとるという無茶をしてのけたのだ。気付くなという方が無理な話しでもあるだろう。
 シェーンコップ達は無事脱出してくれた。自分は僅かなりにもヤンの役に立てたと思う。そして無事を知らせることもできた。あくまでも現時点では、というだけだが。遠からずヤン達はイゼルローンを放棄してハイネセンに向かうだろう。労せず要塞が手に入れられるのだから、ロイエンタールも追撃はしない筈。そんなことをしなくてもいずれランテマリオかバーミリオンで激突することになるのだ。
 そしてそれ以上は、いかにヘネラリーフェといえども予測不可能だった。布石は敷いた。あとはヤン達の手腕と運だけだ。だから、自分はもうどうなっても構わないのである。ロイエンタールの部下に無茶苦茶にされるのも由、このままロイエンタールに飼い殺しにされるのも由。イゼルローンのことも、そしてロイエンタールのことも……考えれば考えるほど自分がわからなくなる。何も見えなくなるのだ。
「何故だ……何故行かなかった?」
 心では引き留めたのは自分自身であると気付きながら、それでも尚静かな問いかけがヘネラリーフェに向けられる。
「…………」
 答えようがなかった。シェーンコップ達の足手まといになりなくなかったのは確かだ。だが、それだけではないことを自分自身が知っている。あの縋り付くような金銀妖瞳に心が揺れ動いたという誤魔化しようのない事実がそこにある。だが、それを認めるわけにはいかなかった。
 ヘネラリーフェは顔を背けたまま口唇をギュッと噛みしめただけで、ついに口を開こうとはしなかった。もう何も考えたくなかった。

 

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