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第十三章

三 虹の架け橋


 ヤンがヘネラリーフェに何を言ったのか、それを知る者はイゼルローンにはまだいない。シェーンコップでさえ、そして付き添っていたロイエンタールでさえも部屋から追い出されたのだ。
 ヘネラリーフェが生きることを放棄した影には義父ビュコックの命を救う為という名分があった。恐らく彼はヘネラリーフェ以上に己を責めていたことだろう。それを知ってか知らずか、ヤンは仮にも父親であるビュコックにさえも内容を洩らさなかった。
 これは司令官であるヤンとその部下であるヘネラリーフェの問題であり、そして、生きるも死ぬも結局最後に選び取るのはヘネラリーフェ自身なのだ。第三者に判断を狂わされるわけにはいかなかった。彼女自身にケリをつけさせるためにも……
 そして……その日から目に見えてヘネラリーフェの様態が快方へと向かいはじめたのは誰の目から見ても明らかであった。躰の方はさすがにかなり弱っていた為、暫くはベッドの上に起きあがることさえもままならなかったが、そのかわりに青緑色の双眸に生気がみなぎりはじめ、強くそれでいて優しい輝きを取り戻していった。
 ヘネラリーフェのそんな姿を一番喜んだのは恐らくビュコックだろう。ヤン=ウェンリーはどんな魔法を使ったのだろう? と。何度も見せつけられた魔術師ぶりを彼はこの時再度実感していたのかもしれない。
 そしてロイエンタール……自分にはできなかったことを易々とやり遂げたヤンに対して些かの羨望を抱かずにはいられなかったかもしれない。
 病の治療こそ体力の低下で手を付けられないままながらも、戦闘中の負傷に関しては順調に快復し、ヘネラリーフェは日を追うごとに元気を取り戻していく。そんな彼女にホッと安堵の息を洩らしながら、だがヤンは別の悩みで頭を抱えていた。
 まずひとつは、帝国との和約に伴い、このイゼルローン要塞を返還することになるだろうということで、片付けなければならない数々の事務上の処理について。これに関してはキャゼルヌに任せておけば間違いないだろうが、問題はもうひとつの方であった。
 戦乱は収まったが、ロイエンタールの叛逆事件からこれまでの混乱の所為で惑星ハイネセンなど旧同盟領内で暴動が頻発しているというのだ。暴動にかこつけて盗みや暴行、放火、そして殺人まで横行しているとあってはこのまま放っておくことはできない。
 ヤンは講和の会談の為にカイザーラインハルトに同行してフェザーンヘ行く。だが、混乱の渦中にあるハイネセンに静寂と秩序をもたらすことも即刻対処しなければならない問題であるのだ。
 それはもしかするとカイザーとの会見以上に重要であり、そして民主主義を掲げて戦ったイゼルローン共和政府にとっての責任でもあった。
 ヤンが決心したように言った。
「ハイネセンの混乱を収める為にも私が戻るまでの間、誰かに行ってもらった方が良さそうだな」
 そんなやり取りがなされる中央司令室のドアの外のすぐ脇に、部屋着の上にカーディガンを肩から軽く羽織っただけの装いで、壁に凭れるようにして中の会話を聞くヘネラリーフェの姿があった。
 そして、そんな彼女に歩み寄る人間がひとり……
「起きていて大丈夫なのか?」
「ロイエンタール、話があるんだけど、今ちょっと良い?」
 自分に歩み寄る人物の方を見ようともせず、ヘネラリーフェが言った。
「ハイネセンに行くつもりか?」
 ヘネラリーフェの問いには答えず、ロイエンタールは別の言葉を紡ぐ。その言葉にようやくヘネラリーフェは彼の方に顔を向けた。青緑色の双眸が決意を秘めて強く輝いている。
「まだ、私が必要なんだって」
「…………」
 俺も……そう言いかけて、だがロイエンタールはその言葉を呑み込んだ。束縛はできない。そう決心したのだ。フェザーンに連れ帰ったあの時、ヘネラリーフェの意志を尊重しようと……
 何も言わないロイエンタールにヘネラリーフェは尚も語り続けた。
「ヤン提督がね、まだ私にはやってもらうことがあるって……ヤン提督が、いいえ、十三艦隊が、そして同盟が私を必要としていてくれるなら、私はまだここにいるべきだと思う。たったひとりでも私を必要としてくれる人がいる間は、私は同盟の為に働くべきだと思う」
 俯きながら話していたヘネラリーフェがロイエンタールを振り仰いだ。二人の視線が絡み合う。
「全てが終わったら貴方の元に行くわ。今度は自分の意志で」
 思えばヘネラリーフェは、自分の意志でロイエンタールの傍にいたわけではなかった。最初は捕虜として、次は確かに心が結ばれた故の結果ではあったものの、だがロイエンタールからの命令として……
「自分の意志で貴方の前に立つの。病気を治して、元気になって、そしてもっとイイ女になってね」
「今でも充分イイ女だ」
「口が上手いんだから」
 苦笑を浮かべるヘネラリーフェの青緑色の双眸から涙が零れ落ちた。細い腕がロイエンタールの身体に絡みつく。
「ごめん……ごめんなさい」
「謝るな……」
 ロイエンタールもまた、ヘネラリーフェの華奢な肢体を力一杯抱き締めた。

 

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