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第八章

六 COMBINATION


 必死の思いで辿り着いた階上は既に火の海だった。手近にあったカーテンを力任せに引っ張って引きちぎると、ヘネラリーフェはロイエンタールの身体を覆うようにそれを被せた。
 お前は? との無言の問いかけにヘネラリーフェは苦笑しながら首を振る。邪魔になるだけと判断したのだ。だがロイエンタールは自分に被されたカーテンを身体から一部分だけはぎ取ると強引にヘネラリーフェに被せようとする。結局一枚の布を二人で仲良く分けあって被るという状態に落ち着いた。
 出口はどっちなのだろう? 目隠しをされて連れてこられた為ヘネラリーフェは出口の方向がわからない。個人の持ち物とは言ってもさすがに伯爵家の屋敷である。地下室から昇りきった場所から長い廊下が何本か伸びており、一体どちらに向かえば良いのか皆目見当もつかないのだ。
 出口を探して彷徨わせた眼の端に何かが過ぎった。それが何であるのかを確認するより早く辺りに怒声が響き渡る。人質の脱走を知らせるその声でリートベルクの部下達が屋敷を取り囲みはじめたのが気配でわかった。
「なんだって火を放った場所にこんなに人が残っているのよ!!」
 思わず愚痴と悪態を零しながら、ヘネラリーフェとロイエンタールは手っ取り早く窓から逃げるべく一番近い場所にあった部屋に飛び込んだ。瀟洒なフランス窓をイスで叩き割る。焔に追われるようにして外に出た。
 あっちだぁ! だの、こっちだぁ! だのと叫ぶ声があちこちで聞かれる。本当はこっちだよ~~ん、とはさすがに言える状況でなく、ヘネラリーフェは相変わらずロイエンタールを支えながら闇に沈む伯爵家別邸の庭に潜んでいた。
 危険な状況に変わりはないが、まだ二人がここにいることには気付かれていない。なにせ広大な庭なのだ。隅から隅まで探そうとしたら恐らく夜明けまでかかるだろう。滅多に使わない別宅に無駄な物を作らせてと思ったが、でも今回はそのおかげで隠れることができたのだ。感謝くらいしなければならないかもしれない。
 今のところ至近に追っ手の気配は感じられないことにロイエンタールが安堵の溜息を洩らした。これでヘネラリーフェを少しだけでも休ませてやることができる。
 ロイエンタールの傷も酷いが、だが彼は屈強で慣らした軍人である。まだ意識もはっきりしていたし、ここまで他人の手を借りながらとは言え自力で動いたことで、不思議なものでこの後は自力でなんとかできそうであった。精神が緊張を取り戻し戦闘中のような高揚感さえ感じられるようにっている。
 では先程までは気が緩んでいたのかと言われると答えに窮するだろう。だが確かにヘネラリーフェの無事な姿を見て少々気持ちが緩んでいたことは否めない。それに撃たれたショックもある。ロイエンタールほどの男でこうなのだ。彼は傍らのヘネラリーフェを見やった。
 疲れ果てたように座り込み、これまでとは逆にロイエンタールの肩に躰を預けるようにして荒い息をついている。顔を俯かせ眼を閉じているため表情は伺い知れないが、苦しそうな息遣いとやけに白い頬が気になった。出血が酷いのだ。ロイエンタールの施した止血帯が最初の色を留めないくらいに真っ赤に染めあげられ、さらに流れ続ける鮮血でベッタリと濡れているのが見て取れた。
 そっと躰を抱き寄せる。拒絶するかと思ったが、そんな気力も体力も既に奪われているのだろうか……彼女はされるがままにグッタリと彼の腕に躰を委ねてきた。時間にして十数分だろうか。グッタリと躰を預けていたヘネラリーフェが顔を上げた。近付いてくる人間の気配に気付いたのだろう。薬物によって感覚が麻痺している筈なのに、やはり鍛えられた鋭敏なそれはおいそれとは失われないのだろうか。
「ごめんなさい」
 もう大丈夫とばかりに、ヘネラリーフェは躰を預けていたロイエンタールの腕から身を起こした。何気なく空を見ると満点の星。深淵の宇宙がそこにある。一瞬宇宙空間で戦闘しているような、そんな錯覚にとらわれそうになった。
 物陰から覗くと当然のごとく追っ手だった。どうやらひとりで行動しているようで他には誰も見当たらないし気配も感じられない。銃を奪うチャンスだった。だがヘネラリーフェに不安が過ぎる。今の自分に果たして戦うことができるのだろうかと……ロイエンタールの手を借りたくなかった。癪だということもあるし、右腕右足を負傷している男にそう負担をかけるわけにもいかない。
 どちらの方が重傷なのかと問われると、だが明らかにヘネラリーフェの方がそうだといえるのだが、彼女は自分のことには無頓着なのだ。
 左腕は負傷の為に使えない。右腕はまだ動き方がぎごちなく力も少々入りにくい状態だ。ヘネラリーフェは右手の指を動かしたり掌を開いたり閉じたりしてみた。全く動かないわけでもないし力も加わらないわけではない。
 決意した。そっと物陰から伺いながら相手の隙を狙う。ヘネラリーフェが銃を奪う気だということにロイエンタールも気付いた。
「無謀だな」
 短く、だが引き留める言葉を吐く。
「じゃあ、このまま隠れているわけ?」
「そうは言っていない。何もお前だけが危険な任務をかってでることはないと言っているんだ」
 少しは俺を信用しろ……ロイエンタールはヘネラリーフェの耳にそっと何事かを囁いた。
 花壇の方で何か物音がしたように感じ追っ手の男は足を向けた。ひとりで動くところが既にこの手のエキスパートとは思えない迂闊さだが、ヘネラリーフェ達にとっては正に好都合だった。
 身を低くして潜んでいたヘネラリーフェが彼の足を瞬間で薙ぎ払った。男の身体は咄嗟に支えるものを失い倒れ込む。倒れ込んだ男に今度はロイエンタールが男の首に腕を回して締め上げると同時に首筋に手刀を確実にヒットさせる。追っ手の男は声も無く昏倒した。
 見事なコンビネーションだった。ヘネラリーフェが倒れた男の手から銃とカートリッジを奪い取る。なんとか一丁は銃を確保することができた。
 だがいつまでも敷地内に留まっているよりは敷地外に逃げた方が得策だろう。ロイエンタールは記憶を頼りに歩き出したが幸運はあまり長くは保たなかった。
 いたぞ!! という声と共に追っ手に追いつかれた。屋敷は既に焔に包まれ今更二人を捕らえてあの地下室に連れ戻すことはできなくなっている。ということは答えはひとつ……この場で殺すつもりなのだろう。もの凄い殺気だった。
 咄嗟に傍の大木の影に身を潜めた。と同時にエネルギー弾の嵐が二人がつい今し方いた場所に雨霰と降りかかる。
「うわ~~ かなりマジになっているわね」
「何人だ?」
「う~~ん、一〇人、いや、一二人ってところかな」
 銃一丁のエネルギー弾で充分倒せる人数である。だが一発の無駄玉も撃てない。そして今のヘネラリーフェにもロイエンタールにも果たしてそれが可能なことなのか、この場合当の二人にもわからなかった。かなりの確率で無茶だと言えたが…… 
「躊躇していても始まらない」
 当たらないかもしれないから応戦しないのでは、そもそも最初から助かることを放棄しているようなものだ。最初から諦めるくらいなら今ここで自らの命を絶った方がマシである。僅かなりとも生きる気があるのなら最後の最後まで足掻くべきだ。負けを確信しながらも苛烈に戦ったヘネラリーフェのように。
 ヘネラリーフェは銃の安全装置を外すと構えた。衛星が雲に隠れすべてが闇の中に溶け込み、何も見えなくなる。
(動くなよ)
 ヘネラリーフェの脳裏にシェーンコップの言葉が浮かびあがった。
 相手が見えないのなら動くな。相手が動くまでお前は獣のように息を殺し相手の息遣いを読みとるんだ。例えどれほど長い時間そうしていなくてはならないとしても、だが焦れて動いた方が負ける。
 何かにつけてローゼンリッターの訓練にヘネラリーフェを引きずり込んだ彼は、だがことあるごとに彼女に白兵戦のノウハウを叩き込んでいった。どういうつもりでシェーンコップがそうしたのかわからない。だがそれを人を殺す為の技としてではなく自らを守る為の技として教え込んだことだけは間違いないだろう。 
 ヘネラリーフェの息遣いが変わったのがロイエンタールにもわかった。荒く辛そうな浅い息遣いが深呼吸をするような静かでゆっくりとしたものに変化していく。そしてヘネラリーフェの気配が消えた。そう、文字通り消えたのだ。目の前にヘネラリーフェの姿が確かにあるのに……
 物憂げだった青緑色の瞳に鋭利な光が宿り、出血と薬物投与で意志通りに動いてくれなかった華奢な躰が冷ややかで凛とした緊張に包まれる。ロイエンタールはヘネラリーフェの変貌に眼を見張った。 
 感覚を研ぎ澄まし獲物の命を確実に一発で仕留める。ヘネラリーフェの姿はまさに獣のように美しいハンターそのものであった。
 深淵の宇宙のような静寂に一瞬辺りは包まれた。ヘネラリーフェもロイエンタールも戦いにおいてはエキスパートである。そして敵はそうではない。それが明暗を分けた。
 闇を引き裂くように銃声が何度も響き渡る。衛星が再び顔を出したそのとき、静寂は取り戻された。

 

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