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第九章

四 凍てつく心


「今日はピアスか……」
 昨日はネックレスだった。その前はブレスレットで更にその前はドレス、更に更にその前は宝石の散りばめられている髪飾りで、その前はブローチ、他にも靴に帽子に口紅、香水……ロイエンタールからの花束攻撃は、いつのまにか贈り物攻勢に取って代わろうとしていた。しかもすべてがデザイナーズブランドである。
 贈る品はロイエンタールが選んだだけのことはあり洗練された最高級品だったが、やり方としてはとても洗練されたとは言えないだろう。自覚した途端、あまりにストレートにヘネラリーフェに対しての自分の気持ちをぶつけるだなんて。おまけに……
「まずいことに嫌いじゃないのよね、こ~ゆ~の……」
 そうなのだ……ヘネラリーフェはブランド好きだった。と言っても、名前だけに惹かれて買い漁るのではなく、良いものに長く愛着を持つ為とでも言った方が良いだろうか。
 ま、どんなに言葉を取り繕ろおうが所詮ブランド好きという意味には違いないのだが。しかもそんなゴージャスな品が似合ってしまうゴージャスな見てくれだし……
「ダメダメ、こんなものにほだされちゃぁ!!」
 と、自らを叱咤するのだが、ロイエンタールの不器用さに笑みを誘われるのも事実だった。だからこそヘネラリーフェは思い悩んでいるのだ。
 ベッドサイドのナイトテーブルの引き出しからあの銀のロケットを取り出す。ヘネラリーフェがダグラスに贈った最後のプレゼント……そして息絶えるその瞬間まで彼が身に付けていたであろう正真正銘の遺品。
 それがどうしてここに、いや、どうしてロイエンタールが持っていたのか。考えられる可能性はたったひとつ……だがヘネラリーフェはどうしてもそれを問い質すことができないでいた。
 ダグラスを失ったことへの哀しみが薄れることはないだろう。ただあの時の哀しみや辛さはなくて、残ったものは彼への純粋な恋しさ……だがそれを想い出としてヘネラリーフェは自らのうちに取り込み哀しみを昇華させた。
 胸の痛みがないと言えば嘘になるが、だがもう終わったことなのだ。それに何を聞いたところで結局ダグラスは戦闘中に敵に殺された……それが真実であり変えようもない。なのに……
 多分恐いのだ。だが、何故恐いのだろう? 何が恐いのだろうか……答えは出そうになかった。
「気分はどうだ?」
 その日も帰宅したロイエンタールがヘネラリーフェの部屋に顔を覗かせた。ロイエンタールがヘネラリーフェのところにやってきて、それで彼が何かするわけではない。ただそこで暫く静かに刻を過ごして行くだけである。時にはそのまま夜が明けるまで一緒にということもあった。
 文字通り静かな刻を……そう、一言も口を利かないことさえあった。ただロイエンタールにとってはそれで充分満たされているのだろう。ただ何気なくヘネラリーフェの指がロイエンタールの額に落ちかかる前髪に触れただけで、彼は本当に幸せそうな安堵したような表情を見せるのだ。
 彼の生い立ちからすれば無理らしからぬ反応ではある。ヘネラリーフェが内心どう思っているにせよ、愛を知らないロイエンタールにとってそれは生まれて初めて接する確かな温もりなのだ。
(私って莫迦……)
 そう思いながら、だがロイエンタールを冷たく振り払うこともできない。彼女は知っていたから……ひとりぼっちがどんなに辛いのかということを。誰かがその暖かな手で触れてくれる……それは孤独ではないということ。
 ヘネラリーフェに触れられるのは気持ち良い……この瞬間『変』ではあるが、ロイエンタールは自分も確かに人間なのだと安堵する。それがわかるから……その気持ちがわかりすぎるほどわかるから、だからそんなロイエンタールにヘネラリーフェは冷たく接することも自分の気持ちをぶつけることもできないのだ。
 その夜、ロイエンタールはヘネラリーフェに促されるままベッドの中の彼女の横に滑り込んだ。不思議だった……そんな風に彼に接する自分の態度が。
 ぶっきらぼうで恐い人だとばかり思っていたロイエンタールがヘネラリーフェの温もりに包まれ、まるで幼子のように無防備な寝顔を晒け出している。その安らかな寝顔を見守りながら、結局今日も何も言い出せなかったとヘネラリーフェは複雑な想いを抱いたのだった。
 そんな日が何日も過ぎたある日、ヘネラリーフェは屋敷の廊下でミッターマイヤーと鉢合わせた。と書くと個人宅で一体どういう状況なのか? と妙に思えてしまうだろうが、そもそもロイエンタールの私邸は貴族以上に貴族らしい豪奢なものなのだ。それ故広さも生半可なものではない。
 下手をすれば同じ屋根の下に住む者同士が何日も顔を合わさずに生活することさえ可能だろう。つまり、どちらかというと部屋に閉じこもりがちなヘネラリーフェと頻繁に訪ねて来るとは言え屋敷の住人ではないミッターマイヤーが文字通り偶然鉢合わせたとしても何等不思議なことはないのである。
「フロイライン、もう歩きまわっても宜しいのですか?」
 心の底からヘネラリーフェの躰を気遣ってくれているのだとわかるミッターマイヤーの人柄溢れる言葉と態度を意地悪く突っぱねる理由もなく、彼女もまた微笑みながら言葉を返した。
「まだちょっと体調が悪いのですけれど、でもせっかく僅かなりとも自力で動けるようになったというのに、横になりっぱなしだとまた元の木阿弥になっちゃいそうで」
 少し戯けたように言うヘネラリーフェの言葉にミッターマイヤーも笑みを誘われた。そう言えば戦闘での負傷の方がやっとリハビリに漕ぎ着けたというところまで回復したというのに、リートベルク関連の一件のせいでまたもベッドの中に逆戻り状態になってしまったのだ。しかも負傷箇所が増えているときている。
 右腕が動かせるようになったと思ったら今度は左肩を撃ち抜かれてしまい、これまた腕を動かすにも暫く不自由を強いられることになるだろう。それこそ踏んだり蹴ったりである。ただ、事件前と決定的に違うのは、ヘネラリーフェが精神的負担なしに治療に専念できるということだろうか。
「あまり焦る必要はないのではありませんか?」
 それはヘネラリーフェも重々承知していた。動くことによって生ずる痛みへの恐怖もある。だが、別に以前ロイエンタールが言ったことを気にしている訳ではないにせよ、動かさなければ余計に動かなくなってしまうような焦燥感が確かに彼女の中にはあった。
「それに……せっかく貰ったドレスも寝たきりじゃ着られないし」
「何かおっしゃいましたか?」
 口の中で呟いた言葉はミッターマイヤーの耳には届かなかったようだ。毎日のように贈られるアクセサリーも洋装品も元気になったヘネラリーフェを想定してロイエンタールが選んだ品なのだろう。つまり早く良くなれというメッセージが込められた贈り物なのだ。
 別に着てやる義理はないが、着てやってもいいかな……なんてしおらしいことを考えていたのも事実だった。物に罪はないし……
「いえ、なんでも……」
 ミッターマイヤーの問い掛けをにこやかな鉄壁の微笑で完全に沈黙させると、ヘネラリーフェはそのまま歩き出そうとした。が、やはり無理は禁物である。怪我だけならともかく薬物投与の所為で未だに続く体調不良は侮れない。足を踏み出し掛けたところでヘネラリーフェの躰がグラリと揺れた。
「危ない!?」
 咄嗟にミッターマイヤーが支える。その瞬間ヘネラリーフェの華奢な躰はミッターマイヤーの腕の中にしっかりと抱きかかえられ、そして彼女は彼の胸の中に顔を埋めるような形になった。そして、そうなったことでミッターマイヤーの軍服の胸に付けられた勲章が彼女の視界に入ることになる。
「す、済みません」
 態勢を立て直そうと躰を起こしかけたヘネラリーフェは、気分の悪さも倒れかかったことで感じていた傷の痛みも忘れてそれに見入った。帝国軍の黒と銀の華麗な軍服の胸元で鈍い光を放っているいくつかの略章の中に少々変わったデザインのものがあったのだ。
 どの勲章がどの戦いで……などということに興味など抱きはしない。せいぜいミッターマイヤーが双璧と湛えられるだけのことはある有能な軍人であると再認識するくらいだ。
 ヘネラリーフェは帝国で授与される勲章の種類をある程度は把握している。戦いに勝つにはまず敵を知ること……役に立つかどうかは別として、彼女は半ば独学でそれを調べた時期があったのだ。そのヘネラリーフェにさえも見覚えのないもの。
「これ……この勲章は?」
 興味など抱きはしない。だが第六感というやつだろうか……ロイエンタールの軍服にもあったと記憶するそれがヤケに気になった。 
「ああ、これはカプチェランカの……」
 言いかけてミッターマイヤーは内心しまったと舌打ちをした。勿論そんな表情は微塵も表に出したりしないが、だがヘネラリーフェの最愛の人間だったダグラス=ビュコックの戦死した星がカプチェランカであることくらい彼女は把握しているだろう。
 同盟と帝国のカプチェランカでの戦闘は一度や二度ではない。ダグラスとミッターマイヤー、そしてロイエンタールが同じ時期に同じ星にいたとは限らないし、それを裏付ける確たる証拠は何もない。そうヘネラリーフェが考えてくれれば……彼女が平凡な一少女だったら……
 その時ヘネラリーフェは特に何かを言ったわけでもないし、顔色を変えたわけでもなかった。普段と別段変わることなく、むしろ逆に不安を誘うほどの落ち着きぶりを見せつけ、更にミッターマイヤーに対して危うく転倒するところを助けて貰った礼だけは言い私室に戻って行った。その胸の中に、ある確信にも似た疑惑を浮かび上がらせながら……
 その夜、ミッターマイヤーはロイエンタールと遅くまで居間でグラスを傾けていた。ヘネラリーフェの態度が気にならないわけでもなかったが、それよりもロイエンタールに聞いておきたいことと言っておきたいことがあったのだ。
 聞いておきたいこと……それはリートベルクのヘネラリーフェに対しての真の目的。大まかなことはヘネラリーフェの生家を訪ねた際に知らされたが、それでもそれ以外の細かな経緯も一応聞いておきたいと思ったのだ。
そしてそれは程なくロイエンタールの口から聞くことができた。
 言っておきたいこと。それは……
「そうか……彼女の生家へ行ったのか」
 あの時、元帥府に乗り込んで来るまでのヘネラリーフェの行動をようやく知り得たロイエンタールがしんみりとした口調で呟いた。
「どんな人だった? 彼女の両親は」
 外観だけならいくらでも説明できそうで、だがもっと奥深い何かがあの肖像画から漂っていた。優しくて厳しくて穏やかで強くて……それは一言ではとても言い表せそうにない。
「よく似ていたよ」
 そう、面立ちは母君に、そして持ってうまれた気質、素質は父君に。そしてあの絵を見つめていた彼女の眼差しをミッターマイヤーは生涯忘れられないだろうと思った。彼女の中の両親への全ての哀しみ、愛しさがあの深い深い青緑色の双眸に込められていたのだ。
「ロイエンタール……」
 ミッターマイヤーが意を決したように切り出した。ロイエンタールが彼を見る。
「答えは見つかったか?」
「……ああ……」
 淡々とした口調の中にも、これまでとは明らかに変化していたものがあった。自嘲を込めたたった一言の返答が、だが確かに穏やかな優しさに彩られていたのだ。
 自らを過酷な戦場に置き、それによって生きていることを実感しようとしていたあのロイエンタールが、戦場以外に自らの心の支えを見付けた。
 幼い頃のトラウマで人を愛することのできなくなっていたロイエンタール。人を信じられず、傷付くことを無意識に恐れ、他人と接することを極端に嫌がり孤高を守り通そうとする彼を、だがミッターマイヤーは切欠さえあれば変えられると信じていた。彼にはまだ心に響く何かがないだけなのだと……どんな人間でも心に体当たりでぶつかってきてくれる相手からは何かを感じる筈だと。そして彼はそんな人間に巡り逢った。
 それはミッターマイヤーにとっても悦ばしいことの筈で、だが彼の心に先程まで以上にカプチェランカのことが重くのし掛かってきていた。
「ダグラス=ビュコックのこと、彼女にどう話すつもりだ?」
 このまま黙ったままでは済まされないだろう。好きいう気持ちを自覚しようとしまいと、あの命の瀬戸際に託された彼のあの言葉を彼女に伝えないわけにはいかない。だが、それは想いを自覚してしまったからこそ、尚重いものに変化しようとしていた。
 ダグラスの言葉を伝えるということは、彼の死の真相も伝えることになる。そう……自分が殺したのだ。あの白く霞む極寒の世界で……
 何気なく胸元を探ったロイエンタールの顔色が変わったのをミッターマイヤーは見逃さなかった。いつも冷静で怜悧なロイエンタールらしからぬ動揺を湛えた表情にミッターマイヤーも心配になる。
「どうした?」
「無い……あのロケットが……」
 その声は掠れていた。 
「捜し物はこれかしら?」
 突如掛けられた冷ややかな声に二人はドアの方を振り返る。
「リーフェ……」
 気配にまったく気付かなかった迂闊さを呪うと共に、恐らくこれまでの会話が聞かれていたこと……それはつまり彼等がダグラス=ビュコックという男を知っているということ……を彼等は悟った。
 ヘネラリーフェがツカツカとロイエンタールの元に近付いてくる。逃げ出したくなる衝動をかろうじて押しとどめ、ロイエンタールは自分を見下ろす彼女の厳しさを湛えた青緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。逃げるわけにはいかないのだ。それが自分自身の気持ちに気付いてしまった彼なりの責任でもある。
「聞きたいことがある。これを、このロケットをどうして貴方が持っているの?」
 ロイエンタールの前で銀のロケットが揺れている。答えようとして、だが彼の舌は縫い止められたように動かなかった。もし真実を話したら……ヘネラリーフェが自分を憎むとわかっていてそれを話す勇気が今のロイエンタールにはなかったのだ。
 沈黙が空間を支配する。だが、その沈黙の中にこそヘネラリーフェの求めている答えがあった。
「貴方が……貴方が殺したの? ダグラスを殺したのは貴方なの!?」
 口調に激しさが込められ、ロイエンタールはこれ以上黙っていることはできないと観念した。
「……そうだと言ったら?」
 ヘネラリーフェの優しく穏やかな青緑色の双眸が一瞬の撃ちに蒼白い焔が揺らめく冷ややかで憎悪に満ちたものへと変化する。ロイエンタールの頬に平手が飛んだ。
「嘘つき、今の今まで私を騙して……あんたが……あんたがダグの変わりに死ねば良かったのよ!!」
 ヘネラリーフェが不自由な足を引きずるようにして居間を飛び出していく。後に残されたロイエンタールは追おうとして一瞬立ち上がりかけたが、そのまま脱力したようにソファーに座り込んだ。
「ロイエンタール!! なぜ本当の事を言わない!?」
 ミッターマイヤーの絶叫がロイエンタールの耳にボンヤリと響く。だが、何を言えというのだ? 部下が上官の身を気遣うあまりかけた言葉によってダグラスに隙ができたとでも言えば良いのだろうか? だが真実は変えられないではないか。ロイエンタールがダグラス=ビュコックを殺した張本人だという真実は……
 ヘネラリーフェの言葉はロイエンタールが五年前に聞く筈だった罵倒だったのかもしれない。
 自分の部屋に飛び込んだヘネラリーフェはベッドに身を投げ出し、声を殺して哭いていた。彼女にはわかっていた。誰を責めることもできないということが……
 これは戦争なのだ。ダグラス=ビュコックは謀略に填められたわけでもなく、暗殺でもない。戦闘中不幸にも敵の手によって倒された。ロイエンタールが悪いのではない。それを言うならダグラスだってヘネラリーフェだって夥しい数の帝国軍人の命を戦場に散らせてきたのだ。彼と彼女を恨んでいる人間などそれこそ百万単位で存在するだろう。悪いのは戦争……恨むのなら個人ではなく戦争自体なのだと理性では充分わかっている。だが、感情では……
 ロイエンタールがダグラスを殺した。ダグラスを死へと誘ったのは、皮肉にもヘネラリーフェの全てを奪い服従を強要し、そして自分を愛していると言ったあの男だった。
 涙が後から後から流れ落ちる。何が哀しいのかわからなかった。自分の幸せを奪われたから? 違う。ではダグラスを殺したのがロイエンタールだったから? 
(何で……何で涙が出てくるのよ……)
 わからない……自分が何に対して哀しんでいるのかが。ただ、憎しみ以外の何かが確かにヘネラリーフェの心の中にあった。だがそれを認めたくなくて……
「殺してやる……殺してやる……殺してやる……」
 嗚咽と共に吐き出された言葉……憎しみだけが崩れ落ちそうな心を支えていた。

 

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