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夜雨
 

 ヴィジホンの画面には、天敵とも言える男の不適な嘲笑の笑み。
 ロイエンタールの気分が冴えないのは、だが同盟軍中将ワルター・フォン=シェーンコップの存在からもたらされるものではなかった。
 帝都フェザーンに鎮座する元帥府内に構えられた執務室の重厚なデスクの上には、A4サイズの書類が十数枚広げられている。
「約束のもの、確かに送り届けたぞ」
 そう言い残して画面は暗くなり、その数分後窓外から轟音が響き渡ってくる。
 フェザーン軍港から、同盟軍総旗艦ヒューベリオンが飛び立ったのだ。
「確かに受け取った」
 暗くなった画面にロイエンタールは呟いたが、表情は幾分暗い。
『約束のもの』は、今執務室の隣室に設えられた仮眠室にいる。
 ここに届けられてすぐに無理矢理ベッドの中に放り込んだのだ。
 最愛の存在の温もりが漸く手を伸ばせばすぐに届く所に戻ってきた喜びとは相反して、眼前の書類はその最愛の存在の確かな危機を知らしめるものである。
 それは、同盟主都ハイネセンからもたらされたヘネラリーフェの治療記録と経過観察記録、そして処方箋だった。

***

 広間を抜け出したヘネラリーフェは、ギリシャ寝殿を模した噴水の前まで来ると安堵の溜息を吐いた。
 背後から、管弦の音や人々の喧噪が追い掛けてくるようである。
「全く、こう連日パーティーでは身が保たないわ」
 よくもまあ飽きもせず……
 ロイエンタールの元に戻ってきて以来、彼女は彼のパートナーとして獅子の泉宮で行われる様々な公式行事に出席を余儀なくされていた。
 大病後の体調は万全ではなく、押し留める医師や同盟軍の僚友の換言を振り切って半ば強引にフェザーンにやって来た直後と言う事もあって、実は肉体的にも精神的にも疲労度はピークに達している。
 ハイネセンでの療養中に、落ちる所まで落ちてしまった筋力・体力・気力が平常レベルにまで戻るには今少し時間が掛かりそうで、本来ならこういった仰々しくて賑々しい場への列席は見合わせたい所なのだが、ヘネラリーフェがフェザーンへ戻ってきた事を知った皇帝ラインハルトから是非出席をとの親書をあからさまに無視する事も出来ず、また何よりロイエンタールに恥を掻かせる訳にはいかなかった。
 帝国の将帥や上級士官は未婚者の方が多かったから、公式の場には男女同伴でというマナーは在って無しの如きだが、ロイエンタールにとっての己の存在意義が帝国側に広く知れ渡っている以上、また同盟軍将帥としての責任感や矜持からしても、とても辞退出来るものではなかった。
 だが、現実問題ヘネラリーフェの体力・筋力は、階段を二階まで登るだけでも激しい息切れを起こしてしまう程にまで落ちている。
 故にこうして公式行事に出席後は疲労で寝込む事も多くなりがちなのだが、かと言って休んでばかりいては戻るものも戻らないのも事実。
 ロイエンタールの屋敷で、ハイネセンからバトンタッチされた当家の主治医の指示に従ってゆっくりと体力回復を図るのが恐らく自分自身の躰の為には一番の近道だと頭では理解しているのだが、結果的に周囲の情勢に振り回されたまま悪循環が続いている状態だ。
 また、この皇宮での催し物はお世辞にも居心地が良いものではなく、いやむしろ周囲は極一部を除けばヘネラリーフェに対しての敵意を隠そうともせずに罵詈雑言でもって平然と罵ってくる。言わば針のむしろ状態だ。
 同盟領土内でなら売られた喧嘩は丁重に買い取り、100倍返しさせて頂く所だが、ここではそうもいかない。
 結局それらをやり過ごすうちに疲労と共にストレスも過剰に溜め込んでしまう羽目になり、ここが皇宮でなければヒステリックに大声で愚痴を叫びたい所であった。
「苛々するぅーーー!!!」
 辺りに誰もいない事を見計らって、ヘネラリーフェは獅子を象った彫刻が置かれている大理石の台座を思い切り蹴り飛ばした。
 その瞬間大きな水音が響き渡る。
 獅子が勢いよく噴水の中に飛び込んだのだ。
「ぎょぎょっ!!」
 なんたること!?
 てっきり台座と彫刻はひとつの石から彫り上げられた物だと思っていたヘネラリーフェはビックリ仰天して淑女とは思えない声を上げたが、後の祭りだ。
 そもそも、今の自分は力が衰えているから蹴った位では…… と軽く考える以前に、良識在る同盟軍中将の取る行動ではない。
 ヘネラリーフェは、この壮大過ぎる悪戯がバレないうちになんとか隠蔽しようと、噴水の中に転がる獅子に手を伸ばした。
 とっとと元に戻してしまおうと考えたのだ。が……
「重っ」
 トマホークを束にした以上の重さがある大理石製の彫刻は例え健常時であったとしても、とてもじゃないが彼女の華奢な腕で持ち上げられるような代物ではない。
「マズイ、どうしよう……」
 この際だからトンズラしてしまおうか……
 幸い誰にも見咎められていないようだし……
 と思い詰めた所に、聞き覚えのある声が背中に浴びせ掛けられた。
「お手伝い致しましょうか? フロイライン」
 突然の声に驚いて飛び上がりながら振り返ると、華麗な軍服の礼装にブラックケープ姿のロイエンタールが端麗な口元に苦笑を浮かべながら立っている。
 惚れ惚れする程の美丈夫ぶりだが、生憎今は見惚れている場合ではない。
「脅かさないでよ」
 文句を言いながらも、実は文句を言える立場ではない事は敢えて黙殺した。
 ロイエンタールはクスクスと笑いながら近付くと、幾分項垂れ気味のヘネラリーフェの琥珀に揺らめく髪をクシャリと掻き乱す。
「威勢の良い事だな」
「ごめんなさい、つい……」
 つい…… と言う割には、しでかした事はかなり大きい。
 何せ、天下の皇宮に傷を付けたのだから。
 旧王朝時代なら、死罪を賜ってもおかしくない程の大事だ。
 が、ロイエンタールはヘネラリーフェを叱るでもなく責めるでもなく、彼女が見守る中易々と獅子を台座へと戻した。
「隠蔽成功。これで同罪だな」
 喉の奥で笑うロイエンタールとは対照的に、ヘネラリーフェは些かバツの悪い表情を見せたが、その時ふと疑問が湧き出した。
「そう言えば、どうしてここに貴方がいるの?」
 適当に広間から消えた人間が言う言葉ではないが、どうやらヘネラリーフェはロイエンタールが不意に消えた彼女の身を案じて探しに来たのだとは思っていないようだった。
 帝国元帥が皇帝夫妻が臨席する広間から抜け出して来ると言う考えに至らないのだろうが、ロイエンタールはヘネラリーフェの自覚の無さに呆れ顔だ。
「そろそろ時間だ」
「あ……」
 ロイエンタールの腕時計は21時を指している。
 ヘネラリーフェは慌てて広間へ引き返そうと踵を返したが、ロイエンタールはそんな彼女の腕を掴んで引き戻し華奢な躰を背後から抱き竦めた。
「なに?」
 振り仰ぐと、希有な色違いの一対が真摯な色を宿して見降ろしてくる。
「ロイエンタール、何かあった?」
 揺れる二色の双眸から敏感にロイエンタールの心の揺らぎを感じ取ったヘネラリーフェは可憐な口元に微笑を浮かべながら、穏やかな口調で問い掛けた。
 その姿がロイエンタールにはヤケにいじらしく映り、同時に自分への苛付きが増す。
 彼にはヘネラリーフェが広間を抜け出した心情が手に取るように分かっていた。
 これまでも散々同じような事が起きているのだ。
 その度に、原因が分かっているのにどうしてやる事も出来ないでいる自分に対して吐き気を催す程の嫌悪感を抱くのだが、ヘネラリーフェはそんなロイエンタールの置かれた立場や心情を思いやり、今のところ一言もそれらしい事を口にはしていない。
 ここが皇宮でなければ、例え皇帝夫妻臨席の場であっても公式の行事でなければ恐らく、いや確実にロイエンタールはヘネラリーフェを蔑み攻撃する輩をのさばらせはしなかっただろう。
 ロイエンタールは他人に対して酷く冷淡で容赦のない男だ。
 彼は自分自身と自らが敬愛し信じる者に直接厄災が降り掛からなければ、相手を視野に入れず興味さえ抱かず冷酷に無視を決め込める男であった。
 例え厄災が降り掛かったとしても、極めて冷徹に対処出来る怜悧で理知的な男でもあった。
 感情で動くなど、これまでの彼には全く考えられない行為だった。
 だがヘネラリーフェと言う自らの命より重い存在を得た今、彼は彼女に対してだけは無感情ではいられなくなっていた。
 自分が蔑まれ憎まれ敵視され悪口雑言を浴びせ掛けられる事には頓着しないが、それがヘネラリーフェに向けられるとなると感情のコントロールが出来ないのだ。
 そして、剥き出しの感情を向ける事こそが、ロイエンタールのヘネラリーフェへの不器用な愛情表現でもあった。
「済まない……」
 何をおいても守り抜くべき存在と温もりを漸く腕の中取り戻したと言うのに、なんという不甲斐なさか……
「な~に謝っているのよ」
 だがヘネラリーフェは宥めるかのように自分を抱き竦める屈強でありながらもしなやかなロイエンタールの腕をペチンと軽く叩きながら、彼の重く沈み込む心情を引き上げ為に明るく謝罪の言葉を笑い飛ばした。
「らしくもなく、殊勝な事言ってんじゃないわよ」
 ほら、行くわよ!!
 ヘネラリーフェがロイエンタールの腕を掴んだまま勢いよく歩き出し、つられて彼も歩き出す。
 その姿は、まるで彼女に引き摺られている少年のようだった。

***

 広間に戻り給仕から水の入ったグラスを受け取ると、ヘネラリーフェは一人クロークへと向かい預けてあったバッグを受け取る。
 公式の席に相応しく、今夜のヘネラリーフェの衣装は白を基調としたローブデコルテ。
 白地に銀糸で総刺繍を施した錦織地とアイボリーのシルクシャンタン地と秋の草花を降りだした西陣織りの帯をシンメトリーにアレンジしたデザインで、バッグはドレスに使用した同柄の帯地で作られている。
 そのバッグの中には、青い小瓶が入っていた。
 瓶の蓋を開け無造作に中の錠剤を掌に受け一息に口中へ煽ろうとしたその瞬間、冷酷で非友好的な気配を背後から叩き付けられ、一瞬ビクリと震えたヘネラリーフェの手から錠剤と小瓶が同時に離れる。
 大理石の床に叩き付けられた小瓶は粉々に割れ、錠剤と共に辺り一面に散らばるのをヘネラリーフェは半ば呆然と見やった。
「おや、これは大変だ」
 大切なお薬が大変な事になってしまった……
 軍靴の音が近付き、だがその靴が散らばった薬を強く踏み付けるのが見て取れる。
 ヘネラリーフェの背筋に悪寒が走った。
 怒りと、そしてもう抱いた別の感情は、虐げられ蔑まされ尊厳を踏みにじられる事への恐怖だ。
 その恐怖が身を竦ませるが、だが持ち前の自尊心の高さが頭を擡げヘネラリーフェを気丈に振る舞わせる。
 氷塊の割れ目に見える海の如く澄んだ青緑色の双眸で正面から冷ややかに見据えると一瞬バイエルラインは怯んだが、たかが女と侮っているのか侮蔑の眼差しと嘲笑の声を送り返してきた。
「急いで拾い集めては如何か?」
 その言葉は、気高いヘネラリーフェに対して無様に床に跪く姿を見せ付けろとでも言っているかのようである。
 徹底的にヘネラリーフェの精神をいたぶりたいと言う彼の悪意の塊を、だがヘネラリーフェは受け流した。
 こんな陰湿な行為を一々真っ向から受けとって反応していたのでは、こちらの身が保たないと極めて冷静に判断していたからだ。
 もう何回目だろう? 
 フェザーンに戻って以来、同様の嫌がらせは連日のように発生していて既に数え切れなくなっている。
 大の大人の、しかも国家や軍上層部の人間とも思えない程の低レベルなやり口にほとほと呆れ果てていたヘネラリーフェは、最前線に立つ時の如くに感情を抑え込み、彼女を敵対視する人間には意図的に冷然とした態度で臨む術を既に身に付けいた。
 故に、今夜のバイエルラインのこうした態度も意に介さず、それどころかまるで彼の姿も声も視界に入っていないかのような完全無視の状態で、表情も変えずに無言のままクロークから広間へ戻ろうと踵を返す。
 だがバイエルラインには、その冷静な態度が逆に馬鹿にされているとでも受け取れたようだ。
「待てよ、無視はないだろ!?」
 声を荒げると、ヘネラリーフェの華奢な腕を掴み乱暴に引き戻そうとした。
 急に腕を掴まれた彼女はバランスを崩し咄嗟に壁を背にして体勢を整えるも、固い壁に勢い良くぶつかった所為でかなりの衝撃を受ける。
「痛ッ」
 躰を貫く鈍痛に思わず呻いたが、その反応がバイエルラインには堪らないらしく、嘲笑の口元から忍び笑いが零れ落ちた。
「侯爵令嬢だか、同盟軍中将閣下だか知らないが、一体何様のつもりだ?」
 捕虜上がりの淫売婦が大きな顔をして帝都にのさばるなど……
「敗軍の将のくせに」
 本来なら捕虜になったあの時に去勢区に送り込まれ、拷問のフルコースの上に今頃は公開死刑になっていてもおかしくない身の上なのに……
「ロイエンタール元帥の気紛れな寵愛を良いように利用して、厚顔無恥とはお前の事だ」
 ここに至っても尚、無反応で通すヘネラリーフェに余程苛付くのか、バイエルラインの罵倒は激しさを増していく一方だ。
 捕虜のくせにロイエンタールの寵愛を一身に受ける事も、元帥号を与えてまで皇帝ラインハルトが欲したその才能と人間性も、何より彼が尤も敬愛するミッターマイヤーの信頼をも得ている事、それらの全てが許せなかった。
 もしかすると、バイエルラインは他の誰よりもヘネラリーフェの輝きを眩しく感じていたのかもしれない。
 眩しい光の裏では、陰は一層濃くなる。
 バイエルラインは、この時この陰に捕らわれるあまり真実が見えない、いや、敢えて見ないようにしていたのかもしれなかった。
 無視無視無視無視無視……
 バイエルラインの罵倒を聞き流す為に心の中で呪文を唱えながらヘネラリーフェは嵐が過ぎ去るのをひたすら待つものの、厄介な事に酒が入っている男の感情は益々昂ぶりつつあるようだ。
 どの位の時間をそうして凌いでいるのかの感覚も薄れ始めた頃、本当に唐突にヘネラリーフェの中で何かがプツリと音を立てて切れた。
 記憶は定かではないが、恐らくバイエルラインの罵倒がヘネラリーフェ本人に留まらずロイエンタールにまで及んだ事が原因だろう。
「ロイエンタール元帥も酔狂な事だ」
 さすが叛逆者だけあって、何をやらせても大胆であらせられる……
「……………した……?」
「なんだと?」
 低いアルトの声音が耳に響いた事が一瞬信じられず、聞き間違いかと思い俯いたままのヘネラリーフェの表情を窺うように覗き込んだバイエルラインの度肝を抜いたのは、冷ややかながらも苛烈な毒舌だ。
「それがどうした?」
 大宇宙での不敗の名将は、舌戦においても名将である。
 ヤンファミリー直伝の毒舌だからその威力はかなり強力であり、それこそ闇のニュクスと渾名される由縁でもあるのだ。
「いい加減にしやがれ、この青二才が」
 いつまでジメジメと人を罵倒すれば気が済むのか。まるで女の腐ったような女々しい男だ。いや、こう言っては女性に失礼に当たる。
「それで大将閣下とは笑わせる。もしや、ただのお山の大将か?」
 青緑色の双眸と可憐な口元に最大限の嘲笑と侮蔑の笑みを浮かべながらも、だが彼女の頭の中には警鐘が響き渡っていた。
 これ以上は駄目……
 これ以上は危険だ……
 ロイエンタールに恥を掻かせる事になる……
 だがヘネラリーフェには珍しい事ながらも、一度爆発した感情という化け物は留まる所を知らないかのように暴れまくる。
「このアマ、ふざけやがって!!」
 唖然としていたバイエルラインの怒りが臨界に到達する方がヘネラリーフェが口を噤むより早かったのは、むしろ彼女には幸運だった。
 バイエルラインの指がヘネラリーフェの細い頸に掛けられ、ギリギリと締め付けてくる。
 おかげで感情は静穏さを取り戻す事がかなったが、いかんせん……
 今度は確実に命の危険が身に迫っている事を否応なく感じ取り、ヘネラリーフェの背中を冷たいものが伝った。
「何をしている!?」
 聞き知った、いや、バイエルラインには神にも等しい存在の怒声が響き渡り、彼は咄嗟にヘネラリーフェの頸から手を離したが、時既に遅し。
 滅多に荒れる事のない湖水のようなブルーグレーの双眸に揺らめく青白い焔を目の当たりにした彼は、為す術もなく項垂れたが次の瞬間何を思ったのかその場から逃げ出した。
 特に静止の声を掛けなかったのは、後からでも処分は十二分に与えられると判断したからだろうが、今は目の前の女性の身の方が大切だった事の方が理由としては大きい。
「リーフェ、大丈夫か?」
 壁に寄り掛かりながら激しく咳き込むヘネラリーフェに近付こうとしたミッターマイヤーは、床に散らばる青い硝子片と錠剤を見て息を呑んだ。
「……済まない……」
 言い掛けて、だがミッターマイヤーは突然片膝を折って床に跪いた。
「我が手の者の無礼、彼者に成り代わりお詫び申し上げます」
 フロイライン・ブラウシュタットにおかれましては、友好関係を結んだ自由惑星同盟からの賓客と心得ております。
 その賓客に対してのこのような悪逆な仕打ちと非礼の数々は国家間の問題にも発展しかねず、その罪は万死に値するもの。
「この責は必ず追わせます故、何卒御容赦の程……」
 心からの真摯な気持ちをミッターマイヤーは必死の面持ちで紡ぎ続ける。
 こうでもしなければ気が治まらなかったのだ。
 一重に自分自身の管理能力のなさから発生した事であると疑わず、何より当事者であるヘネラリーフェには勿論、親友ロイエンタールにも申し訳がたたなかった。
 ミッターマイヤー麾下の部下の中で尤も若いバイエルラインは清廉過ぎるきらいがあるが、その誠実さと優れた能力はミッターマイヤーには好ましく映り部下の中でも特に可愛いがってきた。
 だが、反面甘やかし過ぎたかと思う事もしばしばある。
 その顕著な例がロイエンタールへの度重なる非礼行為である。
 清廉過ぎる故に、そしてミッターマイヤーを敬愛し過ぎる故に、ロイエンタールを敵視する感情を抑え切れないのだろう。
 だが、親友ロイエンタールは幸か不幸か他人に対して容赦がない割に冷淡で、バイエルラインの態度に不快感を示すミッターマイヤーを逆に宥める側に回っていた程だ。
 放っておけ……
 この一言でこれまでバイエルラインの行為を殊更に責めた事はなかったが、今日と言う今日は許す気持ちは皆無だった。
「貴方に謝って頂く必要はない」
 漸く息を整えたヘネラリーフェが振り返る。
 お世辞にも幸せとは言えない人生を送るうちに厭世的な男となったロイエンタールをも包み込む慈愛の女性であれ、このような屈辱的な被害にあって平静でいられる筈などなく、自らの手で八つ裂きにしなければ気が済まないを言い出されるのを覚悟でミッターマイヤーはヘネラリーフェを仰ぎ見たが、ぶつかった澄み切った青緑色の眼差しは意外にも深く多揺るだけで、怒りや哀しみや憂いと言った負の感情は窺えない。
「このような事で人を罰していてはキリガありますまい」
 当方は構いませぬ故、何卒穏便にお計らい下さい。
「薬は自宅に戻ればいくらでもございますし」
 わざわざ大事にする必要もない故、彼者への処罰も必要ございません。
「何卒、今夜の事は御内聞にてお願い致します」
 一言で言えば、結局ヘネラリーフェが我慢すれば済むだけの事なのだ。
 事を荒立てれば、同盟に敵意を持つ他の人間の感情を逆撫でる事にもなろう。
 その時に煽りを喰らうのは、ロイエンタールなのだ。
 それだけは避けたかった。
 それに、今夜の事がロイエンタールの耳に入れば彼がバイエルラインに対してどういう行為に出るか予測できない怖さがある。
 他者の感情よりむしろそちらの方の危惧が強く、決してロイエンタールの耳に入らぬよう配慮が必要で、その為にヘネラリーフェは内密でと釘を刺したのだ。
 帝国には頼る人間がロイエンタール以外にいないヘネラリーフェにとっては、今は唯一友人関係にあるミッターマイヤーにそれを求めるしか手立てが見付けられなかった。
「ミッターマイヤー元帥、私は私の存在がロイエンタールにとってどういうモノであるか自覚しているつもりです」
 何よりも…… 己の命よりも大切な至上の存在。
 何をおいても守るべき最愛な存在。
 何者にも傷付けられる訳にはいかない絶対的な存在。
「何故なら、私にとってのロイエンタールもそういう存在だからです」
 ロイエンタールの身に危険が及ぶなら、私はこの身を惜しまず投げ出すでしょう。
 例え相手が皇帝ラインハルトでも容赦はしない……
「貴方が相手だったとしても同じです、ミッターマイヤー元帥」
 ロイエンタールを傷付ける者は、誰であろうと許さない
 そして、そのロイエンタールの為には、自分が傷付く訳にもいかない。
「御内聞に願いたいとの意味、お分かり頂けますね?」
 ヘネラリーフェはそれだけ言い残してその場から立ち去ったが、ミッターマイヤーは釈然としない表情でそれを見送り、気を落ち着けるかのように床に散らばった薬と硝子の欠片を拾い集め出した。
「何をしている?」
 じっと考え込みながら作業していた為、背後の気配に気付けなかったのはミッターマイヤーらしからぬ失態である。
 慌てて振り向くと同時に幾分険しい色を揺らめかせる金銀妖瞳に射抜かれ言葉を失ったミッタマイヤーは、状況を説明するまでもなく恐らくロイエンタールは事の次第を全て察しているのだと、その冷ややかな眼差しを見て悟った。
「バイエルラインは?」
「広間に戻ったと思うが……」
 無言で踵を返すロイエンタールを、だがミッターマイヤーは押し留めようとした。
「ロイエンタール、卿の気持ちは分かるが、頼むから今夜の事は俺に任せてくれ!!」
 バイエルラインには、俺が厳重に注意をする。
 今度こそ、見て見ぬ振りをするなど愚行は犯さぬ。
「ヘネラリーフェを撃った事と言い、敵視する事と言い、今まで俺が甘すぎた」
 今回の事は俺の責任だ。
 俺の管理能力不足だ。
「俺だってこの場で奴を殴り倒してやりたい位だった」
 だが、事を公にしたくない……
 大事にしてロイエンタールに迷惑を掛けたくない……
 ロイエンタールに火の粉が降りかかるようなうな事があってはならない……
 そんなヘネラリーフェの心情も分かりすぎる程分かったから、敢えて御内聞にと言う言葉に反論出来なかったのだ。
「ミッターマイヤー、何を勘違いしている?」
 激しく言い募るミッターマイヤーを、ロイエンタールの苦笑を含んだ声音が遮る。
「え? だってお前怒り心頭でバイエルラインの奴を八つ裂きにしに行くつもりだったんじゃないのか?」
 間の抜けた親友の問い掛けに、ロイエンタールは口の端を上げて笑った。
「青二才が広間ならリーフェは広間にいない。それを確認したまでだ」
 俺とて愚か者ではない。
 腑が煮えくりかえる想いは抑えようもないが、ヘネラリーフェの心情は理解出来るし、彼女の配慮を無駄にする気も更々ない。
「だが現実問題として、早く薬を呑ませなければならないからな」
 青二才など、これからどうとでも料理出来る。
 今尤も大切なのは、瀕死の心を持て余すヘネラリーフェの存在の確保だ。
「俺はリーフェを見付けたら帰る」
 すまぬが、皇帝ラインハルトには上手いこと取り繕っておいてくれ。
 事も無げに、だが難題をミッターマイヤーに押し付けて、ロイエンタールはケープ鮮やかにを翻しながら立ち去った。
「やれやれ」
 一分の隙もないその鮮やかな立ち居振る舞いを半ば夢心地で見送った後、押し付けられた難題をどうクリアするかに暫し頭を悩ましたミッターマイヤーは、だがヘネラリーフェを想う親友の冷静な態度にホッと安堵の溜息と苦笑を零したのだった。

***

 広間を覗くと、ロイエンタールはシャンパングラス片手に皇帝夫妻を始めとした僚友達と和やかに歓談中であった。
 あの場にはとても入れない……
 入りたくない……
 ヘネラリーフェは広間をグルリと取り囲む回廊沿いにコッソリと再び庭へ出た。
 少しでも広間から、さんざめく人々の気配から、煌びやかな灯りから遠離りたくて、早足で皇宮の庭園の奥へ奥へと一心不乱に足を速める。
 息切れで胸が苦しくなった所でやっと足を止めた時、周囲は漆黒の闇に包まれていた。
 庭園を抜けてはいない事は確かだったから、見えなくても周囲は深い森だと言う事は分かった。
 静寂の中で聞こえるのものは、小川らしきものの涼やかなせせらぎの音だけ。
 下草が生えている事を確認して、ヘネラリーフェは座り込んだ。
 吹き抜ける風は既に晩秋の気配を帯びており、ヘネラリーフェの白皙の肌を時折冷たく刺す。
 そう言えば、バッグもコートもクロークに預けっぱなしだ。せめてコートだけでも持ってくればまだ暖が取れただろうにと思うと、冷静でいたつもりでもあの時自分は冷静さを失い明らかにあの場から逃げて来たのだと思い知らされ、心が打ち拉がれる想いだ。
「今更、傷付くなど……」
 今更、他人の言動に振り回されるなど……
 もう十分に傷付いた。
 十分に泣いた。
 何も持たず、何にも期待しない筈だった。
 あとはただ、ロイエンタールを愛し抜くだけ。
 そう決意してのハイネセンからの旅路だった筈なのに、一人こうして暗闇の中にいると、その決意さえ滑稽でもの哀しく思えた。
「あの調子では、まだ当分帰れそうにないな」
 呟いて、広間のロイエンタールの姿を思い浮かべる。
 一刻も早くここから立ち去りたかったが、さすがに一人で勝手に帰る訳にもいかないだろう。
 そもそも、ロイエンタールのパートナーだと言うのに勝手に広間を抜け出してこんな所で油を売っている事でさえ、十分に主催者である皇帝夫妻への非礼に値する。
 今自分の取っている行動は、どう考えてもロイエンタールの重荷にしかなっていないとの自覚もある。
 だが、戻らなければ、ロイエンタールのパートナーとしての役目を果たさなくてはと思えば思うほど、躰は身動きが出来なくなっていくのだ。
「どうしたものか……」
 その時ふと鼻孔を水の薫りが擽った。
 小川からのものでなく、風だ。
 風が水の薫りを運んで来たのだ。
「雨か……」
 拙いなと思ったが、やはり動けない。
 そのまま下草の上にゴロリと仰向けで横たわり宙を見上げると、先程庭に出たときには輝いていた満天の星と青い銀光を柔らかく放つ月は掻き消すように無くなっている。
 重く垂れ込めた雨雲に隠されてしまったのだろう。
 ヘネラリーフェを包む夜の気配に、次第に湿気が含まれ出す。
 遠くで雷名の音が轟いた。
 まだそれほど近くはないが、程なくして嵐はこの皇宮を直撃するだろう事は明白だ。
 まさかその時になってずぶ濡れの姿で広間へ戻るのも、色々な意味で拙かろう。
「行かなくちゃ」
 自分にカツを入れるつもりで呟き、ノロノロと躰を起こそうとするもののやはり動けず、ヘネラリーフェは脱力したかのように目を閉る。
 肌に感じる湿気が急速に増したと感じたその時、音もなく雨が降り出した。
 ずぶ濡れ決定の瞬間である。
 さて、これからどうしたものかと考えるともなく考え出したが、どうにも思考が纏まらない。
 雨足は一足飛びに激しくなっていき、ヘネラリーフェの髪と肌を容赦なく濡らしていく。
 不意に雨の当たる感触がなくなり躰が布地のような物に覆われたと同時に強く抱き締められたと気付いたのは、雷名が大きな音を立てて極至近で轟き思わずビクリと躰を竦めた時である。
 同時に、耳に馴染んだ甘いテノールが耳朶に吹き込まれた。
「帰ろう、リーフェ」
 ノロノロと瞳を開けると、正面に優しい色を湛えた二色の双眸があった。
 バツが悪すぎて思わず顔を背けようとしたが、ロイエンタールの指は彼女頤を掴みそれを阻む。
「ごめんなさい」
 不安と心配と苛立ちと不快感…… 色々な意味で烈火の如く怒り出すであろうロイエンタールの気勢を削ぐ為に先に素直な謝罪を述べたが、彼は怒り出すでもなく、愚痴を言う訳でもなく、ただ抱き起こしたヘネラリーフェの華奢な肢体を強く抱き竦めしっとりと濡れた髪を撫でている。
「薬、早く呑まなければな」
「うん……」
 ロイエンタールは穏やかな口調で優しく囁くと、礼装用ブラックケープで包み込んだヘネラリーフェの躰をそっと抱き上げ歩き出した。
 ロイエンタールの心の中に怒りの青白い焔が燃えさかっている事をヘネラリーフェは無言の内に察したが、そうとは思えぬ程の彼の穏やかさを見て安堵する。
 ミッターマイヤーが約束を守って沈黙を通したとしても、先程の騒ぎを功名に隠し通すなど無理な事くらいは最初から計算に入れていた事もあり彼の瞳に多揺る怒りの焔を見ても別段驚きもしないが、とりあえずバイエルラインが今夜殺される事はなかろう…… と。
 これが、帝国将帥達をも巻き込んだヘネラリーフェとバイエルラインの冷戦開始の決定的瞬間だった。
 いや、約2年前、ハイネセンでヘネラリーフェがバイエルラインに撃たれた時からこの戦いは既に始まっていたのかもしれない。

***

 漆黒の闇に堕ちた寝室の天蓋付きのベッド中で、ヘネラリーフェはふと目を開けた。
 何故深い眠りから突然引き戻されたのかすぐには分からなかったが、耳を澄ませばシンと静まり返った部屋の中に微かな雨音が忍び込んできている。
「雨か」
 雨足が激しいのだろうか…… 雨音が潮騒のように鼓膜に響いてくる。
 雨音に身を任せながらいつしか眠りに墜ちていくつもりで、暫くは瞳を閉じてそれを聞くともなしに聞いていたが、どうにも今夜は雨音が耳について眠りに墜ちる事が出来ない。
 数分後、今夜は睡魔ヒュプノスに完全に見放されたのだと悟ったヘネラリーフェは、諦めたかのように青緑色の双眸を開いて大きな溜息をひとつ吐くと隣で安らかな寝息を立てる愛しい男の穏やかな眠りを妨げぬようそっと寝返りを打ち仰向けに横たわった。
 一人で聞く雨音は、様々な記憶を甦らせる効果を持つようだ。
 哀しみ・寂しさ・優しさ…… 様々な記憶と感情が湧き上がって渦を描きヘネラリーフェの胸中を掻き乱す。
 そうこうするうちに、急に彼女を孤独感が包み込んだ。
 胸が締め付けられ、心臓が早鐘のように打ち付け、全身に冷たい汗が噴き出す。
 暗闇を凝視するうち、その深い闇に呑み込まれてしまうよな恐怖感を抱き、ヘネラリーフェはそれらを払拭するかのようにもう一度寝返りを打った。
 と、次の瞬間ベッドサイドのランプに灯りが灯され、辺りは柔らかなオレンジ色に彩られる。
「眠れないのか?」
 甘いテノールが鼓膜を震わせ、ヘネラリーフェはハッとしたようにロイエンタールを振り返った。
「ごめん、起こしちゃった?」
 ロイエンタールは応えずガウンを羽織りながらベッドから起き出し、ヘネラリーフェの枕辺へと腰を降ろすと、まるで眠れない子供をあやすかのように枕の上にさざ波のように広がる彼女の長い髪を撫で始めた。
 しなやかな指に絡まる琥珀色の柔らかな髪は、汗でしっとりと濡れている。
 まるで ”あの時”のようだと思い、ロイエンタールの胸に微かな痛みが走った。
「辛いなら、飲むか?」
 ロイエンタールが枕辺の茶色の小瓶を手に取ろうとする。
 その小瓶には、湿気に弱くその所為で古傷が痛み出すことも多々あるヘネラリーフェの為に痛み止めが常備薬として詰められていた。
「大丈夫よ、心配症なんだから」
 ヘネラリーフェは苦笑しながら頸を横に振ったが、ロイエンタールの表情は冴えない。
 過去の戦傷と病歴、ハイネセンでの闘病生活、フェザーンでの神経をすり減らす生活など、彼にとってはヘネラリーフェに対しての心配が尽きないのだ。
 更に、心労をロイエンタールに気取られまいと気丈に振る舞うヘネラリーフェに対しての後ろめたいような気持ちもある。
「済まない……」
「何が?」
 ヘネラリーフェがキョトンとした表情で彼をマジマジと見やる。
 その真摯な青緑色の視線を正面から受け止める事でさえ、今の彼には辛かった。
「俺は少しもお前を守ってやる事が出来ないでいる」
「何をたわけた事を言っている?」
 ロイエンタールの存在があるからこそ、自分は此処にいる。
 彼の存在があるからこそ、自分は立っていられる。
「お前がいなけりゃ、とっくの昔にフェザーンからトンズラこいてる」
 サバサバと笑い出すヘネラリーフェの笑顔がロイエンタールには眩しかった。
「思えば、随分と逞しくなったものだな、私も」
 クスクスと忍び笑いを零しながら、ヘネラリーフェはナイトテーブルの引き出しを開けた。
 その中には青い小瓶が入っている。
 正にそれは、”あの”皇宮での晩餐会の最中に落として割れた小瓶とそっくり同じものだ。
 中には、俗に『免疫抑制剤』と呼ばれている薬が詰められている。
 ロイエンタールから血液幹細胞の移植を受けた時から手放す事が不可能になった薬だ。
 HLV適合者からの移植とは言え、それはあくまでも他人のもの。
 必ずしもヘネラリーフェの躰に馴染むと言う確約がある訳でもなく、それでも馴染ませない訳にはいかず、結果的に『免疫抑制剤』が処方された。
 医師には、飲まなければ命を縮める事にもなると半ば本気で脅され、さしものヘネラリーフェも大人しく従って服用を始めた経緯を持つ。
 移植直後からフェザーンのロイエンタールの元に戻って来て暫くは、日に3度は必ず服薬していた。
 薬を飲まなければ命の危機に陥るのではないかと、本気で怯え薬瓶を手放せなかった日々もある。
 特にヘネラリーフェの身を預かるロイエンタールの想いは生半可なものではなかった。
 だが『免疫抑制剤』は、躰を健康にするものではなく、服用する事で逆にウイルス等の病原菌への抵抗力は低下する。
 彼女が咳一つしても敏感に反応して主治医の診察を受けさせる程にロイエンタールが彼女の健康維持に過敏になっていたのは、過保護なのではなくそういう背景があったればこそだ。
 皇宮で『免疫抑制剤』入りの小瓶を割った際、バイエルラインを八つ裂きにする以前にロイエンタールがヘネラリーフェを探し出し自宅へ連れ帰ったのも、全てがそこに行き着く。
 勿論、心的ストレスとてヘネラリーフェの躰にとっては厄介なもの以外の何者でもなく、全てにおいてヘネラリーフェを守ると強く誓うロイエンタールにとっては、これまでにヘネラリーフェの身に降り掛かった何もかもが自分への不甲斐なさと受け取れるてしまうのだ。
 ヘネラリーフェは笑い飛ばしてくれるが、ロイエンタールがつい詫びを口にしてしまうのも彼にとっては道理なのである。
「今や日に1度……」
 その後投薬は日に2度になり、そして今やっと日に1度になった。
 勿論1度に一錠と言う訳にはいかないが、それでも随分な快癒ぶりである。
「会議出席は勿論のこと光速航行どころか、前線にも復帰」
 喧嘩はし放題の暴れ放題な上に、ヤンファミリー譲りで口も頗る悪い……
「お前には、別の意味でハラハラさせ通しだろうがな」
 ヘネラリーフェは青い小瓶を手に取って降った。
 服薬を止めた訳ではないので、中にはまだ白い錠剤が大量に詰め込まれているし、今も命綱である事には変わりはないが、これを処方された時のような悲壮感は既にない。
 体調が快方に向かうのと平行して、ヘネラリーフェを取り巻く帝国軍将帥の態度にも変化が現れ始め、ギクシャクしていた人間関係は双方の粘り強い努力をもって友好的なものへと変化し始めた。
 今では、帝国軍上層部はヘネラリーフェの良き飲み友達である。
 だからだろうか……
 ロイエンタールには、ヘネラリーフェの姿が眩しくて仕方ない。
 共同で艦隊運営にあたる同盟側の総司令官としての彼女も、誰彼となく毒舌を振りまいて喧嘩を売り買いする彼女も、平凡な女としての彼女も、全てが眩しい。
 そして何よりも愛しい。
 こんな己に、一点の曇りもない笑みを投げ掛けてくれる彼女の存在が。
 ロイエンタールを含め、全ての人間を魅了してやまない彼女の存在が。
 そして、時折自分に深い『陰』を感じ、孤独に打ち震えてしまうのだ。
「相変わらずだな、ロイエンタールは」
 ヘネラリーフェは頭を彼の膝の上に移動させると、大きくて優しい男の手をゆっくりと撫でながらクスリと笑った。
「光は、陰がなければ光とは分からないものだ」
 殊に『月光』は……
 陰が濃ければ濃いほど、月の光つまり『セレニオン』は鮮やかに輝くものなのだ。
 そもそも、夜の闇がなければ、朝日の清々しさも神々しさも分かりはしない。
 陽光がなければ、闇の深い安寧を感じ取る事も出来ない。
 闇がなければ、月は輝くことは適わない。
「私は、お前がいなければ何も出来ない無力で弱いだけの存在だ」
 前線に戻ったのも、ロイエンタールの存在があればこその決意だった。
 守られ庇護されるだけの自分に、価値が見い出せなくなっていたから……
 果たしてそんな自分がロイエンタールの目に眩しく映っているのか? そう思えてならなかったから。
「ロイエンタールがいるから、お前が支えていてくれるから、私は私でいられる」
 彼の存在があるから、こうして闇の安寧の中でも静穏でいられる……
 でなければ、とっくの昔に孤独にも己の立場にも耐えきれずに発狂していた事だろう。
 だから、詫びなど必要ない。
「詫びるなら私の方だな」
 最近の騒動は、大抵のものがヘネラリーフェが引き起こすか巻き込まれるかしているのだから。
「私こそ、お前の支えになっているか?」
 ロイエンタール抱え持つ孤独を、私は埋めてあげていられるのだろうか?
 私の存在が、逆にロイエンタールを孤独にさせてはいないだろうか?
「それこそ、愚問だな」
 ロイエンタールはヘネラリーフェの華奢な肢体を抱き寄せ寝乱れた柔らかな髪に顔を埋めると、項にそっと口付けた。
 甘やかな薫りが鼻孔を擽り、同時に愛しい温もりを感じる事で幸福感が湧き上がってくる。
「この世界で、俺ほど幸せな男はおるまい」
 でもまだ心は痛む。
 未だ、ヘネラリーフェに憎悪の眼差しを向ける輩は多い。
 彼女が謂われもない中傷誹謗で傷付けられる事も多々あるし、前線に出たら出たで命の危機にも晒される。
 その度に、ロイエンタールの心は深海の淵に引きずり込まれそうな恐怖に曝されるのだ。
 それでも、だからこそ2人でいる時の幸福感・安寧感・充足感は計り知れない。
 不意に腕の中のヘネラリーフェの躰が重くなった。
 見やると、ウトウトしかけているのが見て取れる。 
 思わず苦笑を零し、だが彼は眠りに誘うように彼女の琥珀の髪を柔らかく撫で続けた。
 窓外から聞こえてくる雨音は尚激しい。
 朝には上がるだろうか?
 湿気に弱いヘネラリーフェが穏やかな眠りと目覚めを迎えられるようにと祈りながら、ロイエンタールは彼女のベルベットのような薄紅色に色付く可憐な口唇にそっと口付け甘い吐息を貪る。
「おやすみ、レニ……」
 誰にも何者にも、お前の存在を否定させはしない。
 誰にも何者にも、お前の存在を脅かす事は出来ない。
 誰にも何者にも、お前を傷付けさせはしない。
 俺がお前を守るから……
 あの時そう誓ったのだ。
 恐らく、ある意味ロイエンタール以上にヘネラリーフェを愛おしむ宿敵シェーンコップが膨大なカルテ共々彼女を遙々送り届けてきたあの時、彼と己自身に。 

 相手が誰であろうと、俺は月の陰のように密やかにお前を傷付ける者を屠るだろう……

 

Fin

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*かいせつ*

 で、一体何が書きたかったのか……
 書いているうちにどんどん忘れてしまいまして、出来上がったらこんな風になっていました(O.O;)(o。o;)
やはりネタは書きたいと思った原因と要素を覚えているうちに、ササっと書き上げないと駄目ですね。
ネタは生物だと改めて危機感を抱きました。
このお話を書き始めた理由として覚えているのは、バイエルラインとやり合わせると言うか、バイエルラインに苛められるリーフェを書きたかったって事でしょうか。
何故バイエルラインにリーフェをこうまで敵視させるのかは、いずれヤンファミリーに彼を玩具にして貰いたいという野望があるから(^^ゞ
作中でリーフェがバイエルラインを青二才呼ばわりしていますが、もしかすると彼の方が年上!? か、同年代ですよね、多分。
でも、大将とは言え彼は『総』司令官ではなく、リーフェは中将とは言え『同盟軍外周艦隊総司令官』。
かつては、敗戦して捕虜になったとは言え、司令官として双璧と互角にやりあったリーフェですし、結果的にロイと結ばれて、その後は皇帝以下帝国軍人や関係者をその魅力で虜にしてブンブンと振り回している訳ですし(^^ゞ
そういう器&人間の魅力・器量的(?)な面から行っても、彼はまだまだ青二才でオッケーかなと判断しました。
バイエルファンの皆様には、誠に申し訳ありませんm(__)m
背景は、最終章だけが現在で、その前はリーフェが病気を治してフェザーンに戻ってきた直後(銀河狂想曲・本編直後)辺りのつもりです。
タイトルの【夜雨】は『よさめ』と読みます。
自分への覚え書きもあって、敢えて解説として残させて頂きました。

 

2008/06/17 かくてる♪ていすと 蒼乃拝

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