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           泣く人は 孤独でない
       ねがわくば なみだよ 乾かぬように
         悲しみこそは 心みたすもの
        幸せは けっして 心みたさぬもの

      『泣く人は 孤独でない……』カストロ

 

第十章

一 異邦人


「明日出撃する」
「そう……」
 出撃する……今、銀河帝国が戦っている相手は自由惑星同盟。つまり、ヘネラリーフェの同胞達を討ちにいく為の出撃だ。だが、ヘネラリーフェはロイエンタールのその言葉に冷淡に返事をしただけでそれ以上何も言おうとはせず、一瞬燃えるような眼差しでロイエンタールに一瞥をくれただけだった。

 帝国歴四八九年 宇宙歴七九八年一一月、ごく一部の人間しか知らないところで事態は導火線の上を巨大な発火点へ向けて加速していた。
 作戦名「神々の黄昏」、ローエングラム公ラインハルトによるこの壮大な作戦遂行に向け、帝国軍は連日、実戦形式の演習、各種のシュミレーション、物資の集積、部隊の再配置、艦艇の整備、兵器の点検など、未曾有の遠征に向けて準備を進めていたのだ。
 一一月八日になってラインハルトより作戦における最終的な人事が発表され、ロイエンタールはイゼルローン方面への侵攻部隊の総司令官に任命された。
 基本的には陽動であるが、状況によってはイゼルローン回廊を突破して同盟領へ乱入し、フェザーン方面から侵攻する味方と合流して同盟領を分断するという壮大で戦略上重要な任務を負うことになる。統率力、大スケールの用兵能力、冷徹な状況判断力を要求されるこの大任を任せられるのはロイエンタール以外考えられないとのラインハルトの判断だった。
 それより前、一一月四日にロイエンタールを査閲総監として三万隻規模の大演習がおこなわれていた。そして帰還したロイエンタールを迎えたヘネラリーフェへの第一声があれである。
 が、演習で何日も留守にしていた時から、ヘネラリーフェは今日のロイエンタールの言葉を予測していた。戦闘でもないのに一週間単位で家を空けるのは演習以外に考えられないのだ。近々大規模な出兵があるだろうことは、軍人であるヘネラリーフェにとって容易に想像可能だろう。
 ただ、わかっていたことだから驚かなかったわけでもないし、冷淡な返事をしたわけでもない。心が平静な筈がなかった。むしろ動揺を抑えるのにかなりの精神力と労力を必要とした程だ。ただただ憎い男に感情を見せるのが嫌だっただけ……それだけの為にヘネラリーフェの理性は感情に勝ったのだ。 
 が、押し殺した筈の感情は胸の中で確実に燻っている。
(憎い、あの男が……必ず殺してやる……なのに、この苦しさは何だろう……)
 胸の痛みを確かに覚えながらも、だがヘネラリーフェはそれを自分自身で気付けないように、更に心の奥底へと閉じ込めようと躍起になる。まるで理性と感情の追いかけっこだった。 
 そんなヘネラリーフェに感情を乱されていたのは恐らくロイエンタールの方だろう。自分でも思いも寄らぬ言葉が彼の端麗な口元から紡がれた。
「どうして……どうしてお前はそうなのだ」
 何故罵倒しないのか、何故憎しみを正面からぶつけてこないのか……それどころかロイエンタールへの接し方をこれまでと微塵も変えようとしないヘネラリーフェにロイエンタールは苛立ちさえ覚えていた。
 何も変えない、なのに彼を見る眼差しはこれまで以上に冷ややかで哀しくて。それでいて時折燃えるような目でロイエンタールを射抜くのだ。
 ヘネラリーフェがロイエンタールに言ったことといえば、ダグラス=ビュコックの死は自分が招いたことだと知れたあの日のあの一言だけ……あんたが彼の変わりに死ねば良かった……ただそれだけだった。それ以来、彼女は何も言わない。言ってくれないのだ。だが、冷ややかで何の感情も表さないより、泣き叫んで半狂乱になって罵倒し大切な者を奪われた怒りをぶつけてくれる方がまだマシだ。
 憎い、殺してやりたい、そう言ってくれる方がどれほど……何も言ってくれないことの方が逆に苦しいのだ。
「何故罵らない!? 俺が憎いだろ? お前の最愛の男を奪った俺を殺そうとは思わんのか!?」
 そうだ、殺してくれれば良いのだ。元々産まれてこなければ良かった命。ヘネラリーフェに殺されるならいっそ本望だというものだろう。突然ロイエンタールを甘美な死の誘惑が襲った。
「殺せ、今ここで俺を……」
 そうしなければ、自分は命じられるままにイゼルローンに進軍し、そして再びヘネラリーフェの大切な者達を奪うだろう。そうなる前に全てを終わらせれば良いのだ。
「イゼルローンに行くのね」
 返答はJaでもNineでもなく、まったく別のものだった。出撃に関する情報を伝えた訳でもないのにその内容をヘネラリーフェ言い当てられ、一瞬ロイエンタールに狼狽が走ったが、だがそれをヘネラリーフェ相手に隠し通せるものとも思えない。
 そして、恐らくヘネラリーフェのことだから、今度の作戦の全貌をほぼ把握しているのだろう。ラインハルトがまずフェザーン回廊を征圧し、その上で同盟領に、ハイネセンに、一気に雪崩れ込む気でいるということを……
 ヘネラリーフェが気付いていることをヤンが気付いていないとは到底思えない。
(陽動が陽動でなくなる可能性が出てきたな。だがここで俺が死ねば、後のことなど知らぬこと)
 今は完全に死の誘惑の方が勝っていた。
「そうだ。俺はイゼルローンへ行く。そしてやるからには手は抜かない」
 つまりそれが最愛のヘネラリーフェにとって大切な者だったとしても、迷うことなく命を絶つということだ。
「だから……今すぐ俺を殺せ」
 ヘネラリーフェは何も言わない。焦れたロイエンタールが強硬手段に出た。
「だったら自分でやるまでだっ!!」
 それだけ言うと、咄嗟に近くにあったサイドボードの扉の硝子を素手で殴りつけ、割れた破片をいきなり己の身体に突き立てた。
「なっ、何するのよ!?」
 ロイエンタールの腕から鮮血が溢れ出す。ヘネラリーフェは咄嗟に硝子を握り締めたロイエンタールの手を掴んで止めた。指の間からも鮮血が滴っている。
「何考えているのよっ!?」
 自分で自分の身を傷付けるなんて……小さく叫びながら両手でロイエンタールの腕を掴み、彼をキツイ眼差しで見上げる。だがそれでロイエンタールが思い留まったわけではなかった。
「何故止める」
 小さな呟きが漏れたと思った瞬間、今度はヘネラリーフェの細い頸にロイエンタールの血に濡れた優美な長い指が絡みついた。
「それなら殺したくなるようにしてやる」
 冷ややかに言い放つなり、少しずつだが確実にヘネラリーフェの頸を締め付けていく。それは正気を失っているとしか思えない行動であり、金銀妖瞳が明らかに狂気の色に揺れていた。
 壁に凭れるようにして己の躰を支えながら、だがヘネラリーフェが抵抗を示すことはなく、そして深く澄んだ青緑色の双眸がロイエンタールから逸らされることもなかった。不思議に恐怖も何も感じなかったのだ。息苦しささえ感じることができず、ヘネラリーフェはそんな己自身に苦笑した。ロイエンタールに負けず劣らず自分もいかれてきているらしい……殺されようとしているのに何も感じないとは。
 そういえばシェーンコップに殺されかかった時もこんな風だった。ただ、あの時は人間らしい感覚を失っていたというよりは己自身で封じ込めていたと言った方が良いだろう。だが今は……
 目の前のロイエンタールの顔が霞み出す。
「どうしてそんな哀しい顔をする……」
(顔が違っているぞ、お嬢ちゃん)
 微かな囁きがふたつ重なってヘネラリーフェの耳元に流れ込んだ。と思ったと同時に急に息が楽になる。ロイエンタールの指がヘネラリーフェの頸から離れたのだ。
 血にまみれた手がヘネラリーフェの頬に触れる。口唇に冷たい感触……口付けは血の味がした。触れられた瞬間、ロイエンタールの心が流れ込んでくる。
「あなた自分を消したいのね……」
 囁くように言った次の瞬間、彼女の躰から力が失われ膝から崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。その華奢な躰を咄嗟に支えようとして、つられたようにロイエンタールも座り込む。だが、それは脱力と言えなくもない様子であった。
「ここまでされて、何故俺を殺さない? 何故あんな哀しい顔をする?」
 放心したような声でロイエンタールがヘネラリーフェに問い掛ける。その姿はどこか弱々しく、双璧と呼ばれる帝国軍随一の智将の面影など皆無だった。
 荒い息を整えながら、だがヘネラリーフェのその言葉に対しての返事はなかった。イゼルローンでもそうだったように、自分がその時どんな顔をしていたのかわからなかったこともある。だがそれよりも今は何も考えられなかったのだ。ただロイエンタールの気持ちだけは痛いほどわかった。
 破壊衝動……自分自身を傷付けることで精神の安定を図るその行動はヘネラリーフェ自身にも覚えがあったのだ。死ぬことを望むが故に苛烈な戦場に身を置き、だがそこで生を実感する正に二律背反。 絶えず周りに友と呼べる者がいながら、だがどこか自分が別の世界にいるような……そうまるで異邦人のような……己の周りにだけ見えない透明なガラスが張り巡らされているような感覚。
 ガラスの向こうに行きたいのに行けないもどかしさと、永遠にこのまま孤独に彷徨っていれば良いという諦めにも似た気持ち。どうとでもなれ……そんな投げ遣りな人生。生きることの意味さえ見付けられない、それは生きた屍だった。
「貴方は人に期待することが恐いだけ。どうせ離れていってしまうのならばと、自ら全てを壊してしまおうとする。そしてそうやって自分自身でさえ壊そうとする」
 臆病なだけなのだ。だから他人の手を借りて自分を消そうとする。自分自身で命を絶つこともできないから……でも自分もそうだ。今気付いた。ロイエンタールに頸を絞められながら、ヘネラリーフェはこのまま逝けたらと確かに考えてはいなかったか? ロイエンタール以上に死の甘美な誘惑に惑わされていたのだ。
 ヘネラリーフェはそれを振り払うかのように頭を振ると淡々と言葉を紡いだ。
「貴方が憎いわ。でも殺さない。だって貴方死にたがっているもの。そんな人間を殺したって復讐にならないじゃない。今の貴方は私が手を掛ける値打ちもないわ。殺されたかったら生きることに執着する男になってくれなくちゃ」
 本当に? その時ヘネラリーフェは自分自身にそう問い掛けた。自分はまだそんなことを考えるだけの精神力があるのだろうか? 多分違う……殺さないのではなく殺せないのだ。情が移ったとかそういう次元ではなくて……何も考えられず、考えたくなかった。
 憎いのに……殺したいほど憎い筈なのに……でも、ロイエンタールに抱かれるのは気持ち良い。そのことに気付かされてしまったのだ。だから先刻、ロイエンタールに抗おうとしなかった。あの強い腕に躰を預けることの心地良さをを知ってしまったから。そうだ……死の誘惑ではない。従属することが、服従することが、例えようもなく甘美に思える自分が確かにそこにいたのだ。
「ではいつか俺を殺してくれるのだな。だったら俺と一緒に来い」
 ロイエンタールの声がヘネラリーフェの耳元に流れ込む。
(駄目よ……そんなことをすれば……)
 頭の片隅で警鐘がなる。ロイエンタールと共にイゼルローンに行くことイコール同胞を裏切ることではない。だが、戦闘中は何が起きるかわからない。
 白兵戦にでも縺れ込めばイゼルローンの面々と、もっと細かく言えばシェーンコップと顔を合わせることもあるかもしれない。今更、どんな顔をして逢えば良いというのだろう? ここまで堕ちてしまった今の自分を見られたくなどなかった。
 ボンヤリと考える俯いたままのヘネラリーフェをロイエンタールがそっと抱き寄せる。力強い腕に抱き竦められたその瞬間、最後の足掻きは消えた。もう何も考えたくない……もうどうなってもいい……何もかも忘れてしまいたい。そう思う自分が恐くて、でもそれに抗うこともできなくて。いっそのこと、心のない人形になれたら……
「来いと命じるなら行くわ……」
 口唇からはそんな返事が零れ落ちる。己の心を放棄した姿がそこにはあった。

 

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