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第六章

二 困惑


「いや……やめて……あ……」
 星明かりの淡い光が射し込む柔らかな闇の中、呻きとも喘きとも聞こえるどこか甘く濡れた吐息が切れ切れに散っていく。
「嫌なら絶対服従しろと言った筈だ。それを性懲りもなく」
 忍び笑いを洩らしながらヘネラリーフェの細くなめらかな白い肢体の上をロイエンタールのしなやかな指が、そして口唇が滑り降りていく。幾度となく躰を重ねる夜。心は抗いながらもその束縛から零れてロイエンタールの巧みな愛撫の前にヘネラリーフェは脆くも悦楽の深淵に堕ちていってしまう。
 愛撫に溺れる華奢な裸体が上気して桜色に染まる。飲み下しきれず口の端を滴る銀色の雫、濡れて艶やかさを増す可憐な口唇、しっとりと汗ばんだ肌、潤んだ青緑色の瞳、乱れて白いシーツの上に波のように流れる琥珀色の髪……そのどれもがやけに艶めかしく映る。
 ロイエンタールがヘネラリーフェを腕ずくで抱くのは彼女に対しての、ことあるごとに逆らうヘネラリーフェに対しての凄惨な罰。そして今ひとつ、所有物に対しての征服欲だけ……理性が感情に呑まれていた。
 そしてそんな日々が幾日も過ぎていく。

"カチャン"
 ヘネラリーフェはナイフとフォークを置いた。
「どうした、もう食べないのか?」
 こともなげに言うロイエンタールに恨めしげな一瞥をくれると、ヘネラリーフェは深々と溜息を吐きながら呟いた。
「一日中閉じこめられていれば食欲もわかないわ。それに……」
 右手をじっと見つめるヘネラリーフェを見やると、ロイエンタールはスッと立ち上がり彼女の傍らまでやってきた。
 ヘネラリーフェの傷も大分癒え、そろそろリハビリをと医師から告げられたこともあり比較的経過の良い腕の方からはじめることになった。しかし神経断裂とあってはリハビリと言ってもなかなか思うようには進まない。そもそも全く動かないところからはじめるのだからヘネラリーフェの苦痛もいかばかりであろうか。彼女は投げ遣りな性格ではないが、そんな彼女でも投げ出したくなるようなそれはそういうものであった。
「動かさなければ余計に動かなくなるぞ。俺を殴りたいのだろう?」
 勿論それがあるからこそ頑張っているのだ。しかし一方では、思うように動いてくれない腕に苛つくのも無理なかった。それに食欲のないのも事実である。
 ロイエンタールはヘネラリーフェに対してこと細かく規律を定めていた。食事もそのうちのひとつである。つまり夕食は必ず一緒にとれというのである。自分を嬲り者にする男と顔を付き合わせながら食事をして楽しいだろうか? 当然美味しくいただける筈などないのである。
「もう一度持ってみろ」
 ロイエンタールはヘネラリーフェにナイフとフォークを持つように言うと、珍しく(?)素直に従った彼女の右手にそっと自分の手を添えた。
「?」
「ゆっくりでいいから、根気よくやるんだ」
「夕食食べるのに明日の朝までかかってもいいならやるわよ」
 反抗を行動に出せばどうなるかわかっているので、手を出すかわりに口を出してみた。
「かまわん」
 ロイエンタールに嫌味が効いた様子もなく、すっかり気勢を削がれた形になってしまったヘネラリーフェは渋々食事を続けた。しかも彼の介助付きで。
「今夜は珍しく素直なんだな」
 素直に従うヘネラリーフェをロイエンタールはそう揶揄したが、散々人を玩具にしておきながらよく言うものである。大人しく従わなかった結果を躰に教え込まれた今、そうするしかヘネラリーフェには己の身を守る術はないのだ。
 それでもいつもとなんとなくロイエンタールが違って見えた。いや、そもそも徐々にではあるが意外とロイエンタールは情け深いところがあるのかもしれないと思うようになっていた。付け加えると女に関しても……こういう考え方もなんだがヘネラリーフェを抱くときの愛撫の巧みさから考えても、恐らく相当漁色に現を抜かしているのだろうと思える。
 それはともかくとして、今夜のように不自由な腕でリハビリを兼ねた夕食をとるヘネラリーフェに根気よく付き合うこと、そしてあろうことか介助までしてしまうことは勿論なのだが、それ以外でも、例えばロイエンタール家の使用人が一見冷徹で冷淡で厳しく見えるこの主人に対してお人好しとも思えるような暖かく明るい態度で尽くしていることは驚きの事実であった。
 逆に考えれば、ロイエンタールは案外他人に対して温情を持って接することができるということなのだろうか。でなければ使用人の給料が余程良いか……
「どうした?」
 無意識のうちに隣の男の顔をじっと見つめていたようだ。ロイエンタールがヘネラリーフェの視線に気付き彼女の青緑色の双眸に視線を移した。夜の闇と蒼天の色に彩られる金銀妖瞳に吸い込まれそうな感覚を覚え、ヘネラリーフェの胸が一瞬ドキリと高鳴った。
 黒に近いダークブラウンの髪に、秀でた額、スッキリ通った鼻梁に端麗な口元。そして、宙と天の色を持つ金銀妖瞳。嫌いどころか自分を滅茶苦茶にした憎むべき男であっても女性なら頬を染めるほどの美丈夫ぶりである。(自覚はないが、ひょっとしたらヘネラリーフェは面食いかも)
「べつに」
 素っ気なく言い放ち、咄嗟にロイエンタールから顔を背けると心の中でブンブンと頭を振った。なにやらすっかり手なずけられている感がある。
(冗談じゃないわ。飼い慣らされてたまるものですか)
「私、あんたなんて大嫌い」
 動揺が伝わらぬようヘネラリーフェは精一杯の虚勢をはった。
「奇遇だな、俺もだ」
 一見冷淡な、だが苦笑を含んだ返事がヘネラリーフェに返されたが、言った本人はヘネラリーフェ以上に動揺していた。
 氷河の深い割れ目に見えるような澄み切った青緑色の瞳。ダグラスのロケットで優しげに微笑む彼女の春の日差しに輝く深緑のような暖かい色合いとは異なる、見る者を凍り付かせそうな冷たい色を帯びたそれにロイエンタールはり引きずり込まれそうになった。
 ドキドキドキ……鼓動が早鐘のように打ちつける。表情を寸分も変えず何事もなかったかのように振る舞ったのはさすがロイエンタールといったところだろう。それでも冷静さを失わせるには充分だった。 
 もっとも彼にその動揺の意味が分かっていたかは疑問である。子供の頃に作り損ねた『情』と言う感情の欠落はロイエンタールに肝心なものを見損なわせていたのかもしれない。
「そろそろ休んだ方がいいな」
 動揺を個性もなにもない言葉に押し隠しロイエンタールはヘネラリーフェを抱き上げ寝室に向かうべく歩き出した。

 

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