一 慟哭
「殺してやる……お前ら全員殺してやる!!」
泣き叫ぶのでなく、ただただ静かな青白い炎のような怒り。だがそれは激情にまかせたそれよりもはるかに激しいものだった。
「済まない……フリュー……」
雨に煙る漆黒の闇の中にナイトハルト=ミュラーの押し殺した嗚咽だけが流れていく。
その腕の中には温もりを無くしかけた華奢な身体。そして握り締められた指輪のケース。
音もなく静かに桜の花びらが舞い散る薄紅色の闇の中、彼はいつまでもその場から動こうとしなかった。
そして刻は静かに流れる。そうとはわからない彼の静かすぎる怒りの炎を、穏やかで温厚と言われる心の奥底に水のように湛えながら……
§§§
「戦勝と昇進を祝って今夜は呑みに行かないか?」
リップシュタット戦役で門閥貴族軍を圧倒的な強さでもって(それは当然だろう。なにせ相手は血統で全てが動くと思っている無能な輩なのだ)うち破ったラインハルト・フォン=ローエングラム元帥直属の提督達は幾分精神を高揚させていた。
勿論戦争である以上圧倒的勝利と言っても犠牲が皆無だったわけではない。
貴族達のように部下を部品か所有物のように思うような狡猾で恥知らずな人間に成り下がってはいないと自負している彼らとしてみれば、両手を挙げて祝杯を挙げる気にはならない。
だが、陰惨な血の匂いを洗い流すには酒の力が必要であった。
僚友の誘いを、だがナイトハルト=ミュラー大将だけはやんわりと断った。
「申し訳ありませんが所用がありますので私はこれで失礼します」
普段穏やかで温厚と言われる彼だが、柔らかな微笑を湛えた表情でそう言われると、百戦錬磨で更にミュラーより年上である筈の諸提督達も何も言い返せなくなる。
隙が無いというのだろうか……人好きのする気質の中にも、どこか誰にも立ち入れさせない部分が確かに彼にはあった。
後にその粘り強い防戦から鉄壁ミュラーと称されるミュラーだが、それ以前に彼の最大の武器は鉄壁のポーカーフェイスではなかろうか?
しかもロイエンタールのような冷淡で不貞不貞しいものではなく、あくまでも温厚にである。
ともあれ、彼は誰にも異を唱えさせず、かと言って他人を不快にさせることもなくその場から退出したのだった。
付き合いが悪いわけではない。だが、ミュラーは僚友達と行動を共にするということが割と少なくもあった。それも決まって昇進の時に限って独りで行動するのだ。
あの若さで昇進に浮かれることもなく、そして戦いの無い、いわば休暇時に派手に遊び回ることもない。いったい彼はいつも何をしているのだろうか? などと軍内部でもミュラーは不思議がられていた。
別に品行方正が駄目だと言うわけではないが、若いと言っても既に二十代後半に差しかかろうという年齢である。それくらいの年の男が何もせずにいるということの方が非健康的ではないのだろうか?
結局こういう場合、あることないこと噂されるのが世の常であった。
故郷に恋人でもいるのではないのか? と言う者もいれば、どこから聞き込んできたのか、ミュラーが中尉時代に大失恋したらしいという尤もらしい噂話まで飛び出したりもする。
そんな噂話を軽々しく信じたりする者はさすがに将官の中にはいないが、それとは別にミュラーの一見穏やかな笑顔の下には実は押し殺した慟哭のようなものが隠されているのではないのかと推測することはできる。
そして、皮肉なことにそれは確信を突いていた。
二 幼き想い出
『ナイトハルトぉ~』
可愛らしい声が開け放した窓から風に乗って流れてきた。
二階から下を覗くと全速で駈けてきたのだろうか、日溜まりに包まれた麦藁のような淡い金色の髪と、春を思わせる若葉色の瞳を持つ少女が息を弾ませて立っている。
『フリュー! 待っててすぐに降りるから』
早足に階段を駈け降り少年は外に飛び出した。少女が早く早くと手招きしている。
無邪気な少年と少女は、花盛りの季節の薫る風の中を手を繋いで駈け出した。
『ねえナイトハルト、大きくなったらお嫁さんにしてくれる?』
『うん! 大好きだよフリュー』
それは十歳の少年と八歳の少女の淡く幼い恋。
緑の春風にのって明るい笑い声が青い空に響き渡っていく。
満開の桜の木の下で、二人は日が傾いて辺りが茜色に染まるまで跳ねまわっていた。
不意にミュラーの目の前にいる少女の姿が蜃気楼のようにユラユラと揺れぼやけだした。
『フリュー?』
咄嗟に彼女の手を掴もうとしたが、それは霞に触れるかのようにすり抜けてしまう。
「フリュー、フリュー!!」
己の発した声でミュラーはハッと目を覚ました。いつの間にかウトウトとしていたようだ。
オートドライブに設定したランドカーは既に目的地への到着を機械的な女性の音声で知らせている。元帥府から目的地までの距離を推し量ると、ウトウトしたのは僅か十数分だということになる。
疲れていないわけはない。何せ連戦のうえに連戦を重ねてようやく帝都に帰還したのだ。だが、これまでこんな風にうたた寝することなどなかった。
それにあの夢……緊張が途切れてうたた寝したと言うにはあまりにも残酷な夢だった。そう、あれは悪夢と呼ぶに相応しい。
ランドカーを降りるとゆっくりと歩き出す。いつもなら、急ぎ足で駈け抜けるその道のりを、まるで何かを恐れるかのようにワザと時間をかけて進んで行った。
今回もそうだが、ミュラーとて昇進が嬉しくないわけはない。僚友達の誘いを断るのには彼なりの理由がある。
彼には一緒に昇進を祝って欲しい人間が他にいた。そして、今その人は彼の傍にはいない……
「フリュー、暫く来られなくて済まなかったな」
囁くようなその声と言葉は、彼が屈強の軍人であることを忘れさせるに十分な程の優しさが込められたものだ。
「もう春か……」
蒼天を仰ぎ見ながら呟く。
数ヶ月前この場所で見た冬の弱々しい光は、いつしか柔らかく暖かく、そして生気溢れるものへと変化を遂げていた。
宇宙に長く出ているとこういう季節の移り変わりに疎くなってしまうものらしい。ミュラーはひとり苦笑した。
風薫る花の季節がまたやってきたのだ。
「桜が綺麗だよ、フリュー」
緑の風に弄ばれ、薄紅色の可憐な花弁が舞い散る。まるで辺りがピンク色に染まってしまったかのようなそんな錯覚を覚えさせる……それはそんな情景だった。
「春は君の季節だね、フローラ……」
過去の幸福と悲劇がミュラーの脳裏に鮮やかに甦ろうとしていた。
三 奪われた花嫁
深紅のビロードで包まれた小さなケースがヤケに重く思え、全速力で走っているわけでもないのに鼓動が痛いほどに胸を打つ。
戦闘中に被弾し航行の自由が利かなくなった僚艦がミュラーの乗る艦に突っ込みかけ、それを茫然自失状態の艦長を押し退けてミュラーが操縦桿を握り僅差で避けた。
その功績を称えられ彼は任官して僅か一年足らずで中尉に昇進。
そして今日はその報告を兼ねて帰省することになっており、今まさに実家へと向かうべく路を急いでいるところであった。
しかし単に両親の待つ家に帰省すると言うには様子がおかしい。
彼は今日こそ! という強い決意を秘めて生家へと向かっていた。いや、正確には生家の隣に向かっていると言った方がいいだろう。
ビロードのケースの中にはダイヤのリング。贈る相手の華奢な指と可愛らしい雰囲気とそれに勝るとも劣らない内面に相応しいだろうと思ったことともうひとつ……昇進したとは言えたかだか中尉では財布の中身が心許ないという非常にシンプルな理由で選んだそれは、小粒だが可憐で清楚なデザインが施されている。
春の明るい日差しを受け眩しい輝きを放つダイヤはミュラーにとって最愛の女性フローラの誕生石でもある。これを渡して、幼いときからの約束を果たすのだ。
そう、この日ミュラーは人生で最大最高の告白、つまりプロポーズするべく逸る心を押さえて故郷に帰ってきたのだった。
折しも季節は春、そしてフローラの生まれた月でもある。
生家へ向かう路の両側は満開の桜並木。薄紅色に染まる風と可憐な花弁に包まれ、ミュラーは自分とフローラの幸福な未来を思い描いていた。それが永劫に続くと信じて疑わずに……
そんな彼の視線の先に見慣れた風景が広がる。と同時に、そのどこかほのぼのとした景色に不釣り合いな黒塗りの車がフローラの家の前に横付けにされていることに気付いた。
嫌な予感がした。警笛が頭の中でガンガンと打ち鳴らされる。歩調が自然と小走りになる。
あと少しで彼女の家というその時、門の内側から出撃中絶えず脳裏に思い描いていた女性の姿が現れた。
「嫌、離して!」
風に乗って聞こえてきたのは、忘れたこともない耳に馴染んだ、だがこれまで聞いたこともないような拒絶の言葉だった。
「フリュー!?」
声の限り叫んだその声に振り向いた彼女は、全身で助けを求めるが如く藻掻いている。その様子にミュラーは怒りに己の体温が上昇したことを確かに感じた。
フローラは独りではなかった。見たこともない、だが明らかに貴族だろうと思われる様相の男に羽交い締めにされていたのだ。
「彼女を離せ!」
そう叫びながら彼女に近付こうとするその前に貴族に付き従ってきたのであろう屈強のボディーガード達に殴り飛ばされた。
ミュラーとて軍人である。そして彼は頭脳明晰だけの戦艦乗りではなく、白兵戦になれば勇戦するだろう強さを持つ男であった。
だが、この時彼の意識はフローラのみに向けられており、つまりそれ以外の敵の存在に神経を注いでいなかったのだ。
しかも相手は貴族の飼い犬であり暴力のプロ……平民を人間とは思っていない輩に手加減を求める方が間違っていた。
何度も殴り飛ばされ、だがその都度立ち上がる。そんな合間にフローラは車に押し込まれてしまう。
数分後、ミュラーは地と泥にまみれて地に倒れ伏し、フローラは悲痛な声を残して連れ去られて行った。
「ナイトハルト!!」
最後に聞いたのはこの言葉だった。
四 純潔の代償
今でも思い出すのは、刻が止まったかのような薄紅色の闇の中でフローラの身体から静かに溢れ出る鮮血だ。
錯乱しそうになる己の精神を意志の力で平静のレベルまで押し戻しながら必死で止血するものの、まるで命が零れ落ちていってしまうかのようにそれは流れ続ける。
いつしか、辺りは甘い芳香を漂わせる銀色の雨に包まれていた。銀糸は容赦なくミュラーを、そして傷ついたフローラを濡らしていく。
助けを求めることも忘れ、あの時ミュラーは彼女の身体を抱き締め続けていた。
フローラを連れ去った貴族の目的は、深く考えるまでもなくただの雄の淫欲だった。たまたま通りかかったあの場所で彼女を目にし、その日の伽をさせるつもりだったのだ。
彼等にとってフローラは、いや、平民は高貴な血を受け継いだ特権階級の人間の所有物であり、そんな自分達の命令を聞くことは至極当然だと考えていた。
それどころか領地に生息する動物とでも思っていたのかもしれない。それをどうしようが誰に文句を言われる筋合いなどないと本気で考えているのだ。そしてその生け贄にフローラはされてしまったのだ。
彼等の辞書に他人への人権などという言葉はないのだろう。人権とは、あくまでも貴族に対してだけ使われる言葉だった。だが、逆からすればこんな理不尽なことはない。
フローラは幼いときからミュラーの妻になることだけを夢見てきた。その夢を力ずくで奪われたら、いや、現に貴族の気まぐれのせいで彼女は腕づくで汚されようとしていたのだ。
渾身の力で抗う彼女を、まるで肉食獣が小動物をいたぶり弄ぶが如くに追い詰める貴族の男。そして割れたガラスの破片が彼女にある決意をさせた。
(このまま汚されるなら……どうせ生きていてもナイトハルトとは結ばれない)
悲愴な彼女の心と決意はガラスの破片を己が胸に突き立てさせ、更にそれは首筋へと移動し、そしてスッと横に薙いだ。
悲劇はまだ終わっていなかった。そうまでして身を守ろうとしたフローラに対して、貴族はなんの感慨も抱かなかった。それどころか、己の自尊心と征服欲と名誉を傷付けたとばかりに、まるで彼女を人形か何かのように捨てたのだ。
捨てた……文字通りの行為である。貴族は家臣に命じ、フローラを屋敷の外に捨てに行かせたのだ。しかも手当をすれば助かるかもしれない人間をである。
追いかけてきたものの屋敷に入ることもできずに立ちつくすしかなかったミュラーの目の前で彼女は捨てられた。
「許さない……あいつら全員殺してやる……」
渡せなかった婚約指輪を握り締めながら、彼は誓うように呟き続けた。
ミュラーの静かな怒り……最愛の姉を奪われたラインハルトのそれも確かに冷たい炎のような怒りだが、ミュラーのそれとはまた違っていた。
ラインハルトの怒りの炎は全てを……他人までも呑み込み焼き尽くすような激しいものである。
だがミュラーのそれは、他人に見せつけられることはなくただ静かに己の心の中で青白く燃え続けていたものだった。
哀しみを昇華させながら、それでも尚熱く燃える焔。それは考えようによってはラインハルトなど足下にお及ばぬほどの激情と言えなくもないだろう。
ミュラーとラインハルトの目的はどこか似通っていた。彼がラインハルトの麾下に入ることで、ラインハルトは優秀な僚友を得、そしてミュラーはラインハルトの下で思う存分采配を振るい、勝利の一端を担う。
利害関係の一致した、いや見方を変えれば己の貴族への恨みをラインハルトを利用して晴らしたと言えなくもない。
リップシュタット戦役が終結し、あの誓いは果たされた。だが、例えそうだとしてもあの幸福だった頃は戻らない。復讐を果たしたところで、結局心は何も満たされないのだ。
「あれからもう何度目の春だろう?」
四季はそれぞれに美しいが、やはりフローラにはミュラーだけが囁く愛称の如く春が相応しいと思う。
柔らかに靡く淡い金色の髪も初春の緑を思わせる若葉色の瞳も、確かに春にこそ一番輝いていたのだから。
五 凍り付いた刻
そして……今そこには、まるで人形のように虚ろなガラスの眼差しがあるだった。
ミュラーを見つめるその瞳には感情というものが込められてはいない。いや、彼を見ているのかどうかさえもわからないのだ。
命は取り留めた。だが、フローラは心を閉じてしまった。
あれから何度か春が巡り、花は咲きそして散っていく。だが、彼女はあの日から刻を止めたままだ。
中尉時代の大失恋……確かに失恋と言えなくもない。あの時からミュラーの刻も止まってしまっているのだから。守れなかった悔恨に今も彼は苛まされているのだ。
そっとフローラの手をとってみた。微動だにしないそれは、だが確かに暖かい。
「待っているから……」
手の甲に、そして華奢な指に口付けながら囁く。
医者は絶望的だと言った。心を病んだ人間がこの世に戻ってくる確率は低いと……
しかし、今こうして目の前で確かに生きている彼女を見れば、もしやと期待してしまうことを誰が止められるだろうか?
戦闘から帰還するたびに、今度は……今度こそはと期待することを誰が非難することができるだろう?
突然幸福を奪われた悲劇を許容できないのは人間なら当然の心理だろう。
現実を認め耐えるだけの強さを彼は自分自身で持っていないと思っていた。いや、そんな強さなど必要ない……脆くても弱くても構わないのだ。ただフローラを待っていたかった。
彼女の身体をそっと起こすと、自分の身体に凭れかけさせ後からそっと抱き締めた。柔らかな金髪が窓から入る春風にサラサラと弄ばれる。
心を失っている筈の彼女の表情がどこか楽しげに見えるのはミュラーの気のせいなのだろうか。
強く風が吹き、部屋の中に狂ったように薄紅色の花弁が舞い込み、それがフローラの髪や肩に舞い降りる。
そんな彼女の姿に、子供の頃散り際の桜の木の下で飽くことなく桜の花びらを手ですくい、それを舞い上げて遊んだことを思い出す。
幼いミュラーとフローラの身体は頭の先からつま先まで花弁の洗礼を受け薄紅色に染まったものだ。
頬に舞い降りた花弁を取り去ろうと、ミュラーはそっと彼女に手を伸ばした。指先が彼女の白いそれに触れる。その時その頬を伝い、一筋の銀色の雫が流れ落ちた。
「!?」
凍り付いていた刻が再び静かに動き出そうとしていた。
六 桜の樹の下で
銀河を二分する戦いが終わった。帝国と同盟は和親条約を締結し、手を携えて未来へと歩んでいくことになる。
そして再び季節が巡る……
「呑みに行かないか?」
旗艦から降り立った花盛りの宇宙港でミュラーは僚友に誘われた。毎回断っているわけではないが、そうすることが多いため善良な彼の良心が痛む。
一五〇年にもわたる戦闘に終止符が打たれ悦ばしくもあると思いなおし、ミュラーはその言葉に頷こうとした。
そんな彼の砂色の目の端に何かが映った。
宇宙港のロビーは出迎え目的と同盟との国交が開かれたことで両国を自由に行き来できることになった故の旅行目的の人々でごったかえしている。
そのザワザワとした喧噪の中、彼だけが一瞬のうちに静寂とセピア色の空間の中に迷い込んだ。
「…………」
言葉がうまく紡げない。セピア色の空間のその一角だけが鮮やかな色彩を帯びて浮かび上がる。
夢を見ているのかと立ち竦んだまま動けないミュラー。その夢の方が彼より先に動き、そして同時に刻が動きだした。
「ナイトハルト」
喧噪の向こうで、自分に向けられる若草色の微笑と柔らかな優しい声音。
「フリュー……フリュー!!」
自分がどう動いたのかミュラーは覚えていない。気が付いたとき、彼のその腕の中には奇跡の妖精がしっかりと抱き締められていた。
人目を憚ることなく彼女を抱き上げそしてターンするようにクルクルと回ると、その動きに合わせてフローラの淡い金色の髪とスカートがフワリフワリと靡く。
僚友達の不思議そうな視線も今は気にならない。この幸福を少しでも長く噛みしめていたかった。
悲劇がもたらされたのも春なら、幸福が舞い降りたのも春だった。
風が強いのだろうか……開け放されたロビーのドアから桜の可憐な花弁がヒラヒラと舞い込んでくる。
まるで祝福するかのように、それは抱き合う二人にいつまでも降り注いでいた。
ein gluckliches Ende
(今日こそ……)
鏡の前で表情を引き締めると、ミュラーは深紅のビロード張りのケースをポケットに納めたことを確認しながら、意を決したように勢い良く官舎の玄関のドアを開けた。
折しも季節は春。今年も薄紅色の可憐な花弁が舞い踊る季節になった。
ドアを開けた途端、爽やかな風と共にまるで吹雪のように舞い散る桜の花弁がミュラーに降りかかる。既視感がミュラーを襲った。
何年か前、やはりある決意を秘めて桜並木を早足に駆け抜けたあの時も、まるで雪のように舞う薄紅色の可憐な桜の花弁を全身に浴びたことが脳裏に鮮烈に甦る。
同時に感じた胸の痛みを頭を振って忘却の彼方に追いやると、ミュラーは歩き出した。
大切な温もりをその手に取り戻しても尚、あの辛く哀しい悲劇を忘れ去ることをミュラーはできないでいた。
幸せの絶頂でもぎ取られた恋……過去のこととなった今でも、あの時のことを思い出すと胸に鋭い痛みが走るのだ。
忘れられないのではなく、忘れないようにしているのかもしれない。最愛のフローラを守れなかった悔恨と、金輪際彼女を哀しませたりしないという強い決意を守る為に、あの悲劇を心の戒めとしておきたいのかもしれなかった。
あの時と同じように、逸る心をなんとか落ち着かせながらミュラーは桜並木を早足で抜けていく。この路の先にフローラが待っている筈だった。
並木道を抜けた先は小高い丘になっている。子供の頃遊んだあの場所を彷彿とさせるそんな場所だ。丘の上にはやはり狂ったように咲き乱れる桜の大木。
早足がやや小走りになる。丘の上に辿る着く頃にはミュラーは少々息を乱れさせていた。だがそこには誰もいない。
(早すぎたかな?)
彼は桜の幹にもたれ掛かり、乱れた息をおさめ落ち着こうとした。少年のように心が舞い上がっている自分自身についつい苦笑が零れてしまう。
深呼吸をするように息を深く吸う。ふと蒼天が目に入った。雲ひとつない抜けるように真っ青な空と輝く春の陽光……眩しさに目を閉じたミュラーの顔に薄紅色の可憐な花弁がヒラヒラと舞い落ちる。
それが俄に数を増し、まるで吹雪のように降り注ぎ始めたことにミュラーは不審気な表情で目を開け、その瞬間我が目を疑いながら固まった。
思わず上向けていた顔を正面に向けキョロキョロと辺りを見渡す。そして今見たことが気の所為でも幻でもなく、あくまでも自分は地面に立ち上を見上げていたんだと確認すると、再び上を見上げた。
クスクスという忍び笑いがミュラーに降りかかる。
「フ、フリュー!?」
そこにはミュラーを見下ろす悪戯っぽい光を湛えた若葉色の瞳があった。やっと気付いてくれたとでも言いたげに彼女は少し拗ねたように苦笑すると、呆然とするミュラーが我に返って止める間もなく、スクッと立ち上がった。
「フリュー、そんなところで立ち上がったらっ!!」
人の胴体くらいの太さがあるとは言え、木の枝の上なのだ。しかも自分の背丈よりも高いときている。
落ちでもしたら……そう考え、ミュラーは咄嗟に引きつったが、そんなこと気にもとめずフローラはそこからフワリと翔んだ。
「受け止めて、ナイトハルト!!」
考えている余裕はなかった。ミュラーは咄嗟に両腕を広げて落ちてくるフローラの華奢な身体を抱き留める。気が付いたときには、衝撃で彼女を抱き締めながら地面に尻餅を付いていた。
なんとか無事に抱き留められたことに思わず深く安堵の溜息をついたミュラーは、だが今度は少々怒りを感じて思わずフローラを怒鳴りつけた。
「危ないじゃないか、怪我でもしたらどうするつもりだっ!? だいたい君は昔っから……」
そこまで言って言葉を呑み込んだ。
昔から……そうだ、どうして忘れていたんだろう? あの悲劇でフローラが心を閉じてしまってからすっかり忘れていた。彼女本来の性格を……
昔、まだ二人が幼かった頃、フローラがこうしてよく木に登り、その度にミュラーが慌てふためいていたこと、いつもいつも彼女のお転婆ぶりに振り回されていたことを、どうして今の今まで忘れていたのか。
思えば、あの悲劇も彼女の気の強さ、いや、誇り高さ故に起きたことなのだ。
全身にフローラの温もりを感じながら、ミュラーは柔らかな草の生い茂る地面に仰向けに転がり微かな忍び笑いを洩らしていた。それはやがて堪えきれないとでも言うように大きな笑い声にと変化していく。
「ナイトハルト、どうしたの? ご免ね、ビックリさせようと思って……」
フローラがミュラーの身体に抱きつくようにして心配そうな声をあげるが、そのうちつられたように彼女もまた笑い出した。春の明るく眩しい空に二人の笑い声が重なり合うようにして響いていく。
笑いがおさまり落ち着いた頃、既に陽は傾き辺りは茜色に彩られつつあった。二人を静寂が包み込む。
ミュラーはそっと忍ばせて置いたビロードのケースを取り出すとフローラを振り返り……
「ナイトハルト、お願いがあるんだけど」
決死の覚悟で紡ごうとした言葉は、フローラの声によって呆気なく遮られ空中分解を起こした。
彼女の言葉に返事をする間もないままミュラーの耳元にフローラの声音が流れ込む。
何日、いや、何年も携えてきた決意があっさりと逆転した瞬間であった。
「私をナイトハルトのお嫁さんにしてくれない?」
そして、再び桜の舞い散る季節……
澄んだ鐘の音が響き渡る薄紅色の風の中に、純白のウェディングドレスに身を包んだフローラの姿。
そんな彼女の左手の薬指には、ミュラーがずっと持ち続けていたあの指輪が清楚な輝きを湛えておさまっていた。
Fin
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*かいせつ*
緑崎若菜さんからのリクエストは、「誰でもいいからノーマルカップルでハッピーエンド」というものでした。
目立っているのに謎の多い(笑)ミュラーさんを使って…… というのは割と早くから念頭にあったのですが、問題は内容。かなり悩みましたね~。
普段、ロイエンタール以外書いたことなかったですし(^^;;)
最初はいろいろ意外性のあるエピソードを考えたのですが、結局キングオブ定番! なストーリーに落ち着きました。実は同人仲間とのお花見の渦中に思い立ったネタです。ってなわけで背景はすっかり「桜」。原作の背景も季節もまったく無視状態です(爆)
ちなみにBGMは「カードキャプターさくら」のサウンドトラック(笑)
作成年月2000/6 蒼乃拝