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第四章

三 STREAM


 ヤンのもとに同盟政府から首都への召喚命令が届いたのは宇宙歴七九八年三月九日のことである。
「査問会? そんなもん同盟憲章にも同盟軍基本法にも規定なんてなかったと思うけど」
 有能な司令官であり記憶力もそこそこのヘネラリーフェであるが、少なくとも彼女は同盟憲章と同盟軍基本法をすべて諳んじているわけではない。これはヤンの副官であり士官学校で彼女の一期上であるフレデリカからの受け売りである。そもそもヤン艦隊にフレデリカ=グリーンヒルがいれば記憶と名のつくものに関しては彼女に任せておけば万事間違いなしと言われているのだ。
 とにもかくにも、周りがゴチャゴチャ異論を唱えようがヤンへの査問会への出頭命令がなくなるわけでもなし、政府の恣意的な思惑を感じながらもイゼルローンの面々は渋々ながらも結局ヤンを送り出すことになったのである。
「こんな時に敵さんが攻めてきたら政府の無能者達はどう責任とってくれるんでしょうね」
 元々の性格とイゼルローン組に洗脳された結果である厳しい悪態を誰ともなしについたヘネラリーフェだったが、まさかそれが予言になろうとは言った本人さえも思ってもみないことだったに違いない。
 異変が起きたのは四月一〇日のことであった。
「空間にひずみです。何かがワープアウトしてきます!」
 哨戒に出ていた艦からの報告にイゼルローンはこれまでにないほどの緊張に包まれようとしていた。
「質量は概算四〇兆トン以上? つまり要塞ってことね。よくもまあ」
「そんなものをわざわざ友好親善で送って来るとも思えんな。まったく見上げた努力だ」
 それぞれの感想を熱のない口調で賞賛する。ヤンの不在が彼等を見えざる不安の波間に放りだしていた。ヤンさえ戻ってくれば……それまでの四週間この要塞を守り切らねばならないという責任が留守番部隊に重くのしかかる。
 要塞対要塞の戦いの第一幕は熾烈な主砲発射の応酬であった。だがそれも互いが撃ち合えば敵を倒す以前に双方共倒れの心中という嬉しくもない結果に行き当たることに気付き、敵味方どちらもそれ以上要塞主砲を発射することに怯みを覚える。そうなれば次に相手がどんな策に出てくくるのかが問題になってきた。
 大技の次は小技、そして艦隊戦。だがそれ以後の戦闘が決定的な優劣の差を生み出すことはなく、半ば膠着状態のうちに時は回廊を歩み去り四月は終わりかけていた。
 ヤンの帰宅時間が近付いたのである。
 現在イゼルローン要塞は、周辺の宙域に充満する電磁波と妨害電波により、通信は勿論のこと索敵も光学的なものに頼るしかない状況に陥っていた。つまり、援軍が近付いてきていたとしてもそれを確認する術がないのである。
 そんなときに帝国軍が急速に撤退をはじめヤン艦隊の面々は判断に迷った。撤退といっても依然六〇万キロ先にはガイエスブルグが立ちはだかり、いつでも砲撃に応じる構えを示している。この状況を果たしてどうとるのか? シェーンコップはユリアンに意見を求めた。
「両方だと思います」
 少年の意見に耳を傾け、メルカッツは敵の策に乗るフリをする作戦を立案すると出撃を決意した。ユリアンはヒューベリオンに同乗することを求められ、アッテンボロー、ヘネラリーフェ、フィッシャーらはそれぞれの旗艦へと向かう。膠着していた事態が動き出そうとしていた。
「リーフェ」
 メインポートに向かうヘネラリーフェを背後から追ってきたのだろう、シェーンコップが呼び止めた。
「お前さんも出撃か?」
「ええ」
 出撃する度に繰り返される光景。だが今日はいつものそれとは少々違っていた。
「必ず無事に帰って来い」
 シェーンコップがヘネラリーフェを送り出すとき、こんな殊勝な文句を口にしたことは過去一度たりともなかった。彼がどんな想いを抱きながらこれまでヘネラリーフェを見送っていたかはわからない。だが、この不敵な男が不安を口に出すなどわざわざするとも思えないし、それとは別にヘネラリーフェの運と才能を誰よりも信じていたのは彼だったのかもしれない。
 そんな自信満々な彼が今日に限って『帰って来い』と言い出したことにヘネラリーフェは何かを感じたのだろうか。シェーンコップの正面に立つと彼の肩に手をかけそっと背伸びをした。
 軽く掠めるようなキス。シェーンコップの目が驚愕に見開かれるのがわかった。
「どうした? めずらしいな、お前の方からキスしてくれるとは」
 勿論この二人の口付けは恋人同士のそれではなく、挨拶のようなものだ。だが、それでもヘネラリーフェの方からそうすることは滅多になかったのである。
「戦闘を前に高揚しちゃっているのよ、きっと」
 軽く舌を出しながらヘネラリーフェが戯けたように笑う。シェーンコップの手がそんなヘネラリーフェの頬に触れた。弾かれたようにヘネラリーフェが顔をあげると、彼女を見下ろすグレーかかったブラウンの瞳と青緑色の双眸が真正面からぶつかる。
「本当に無事に帰って来いよ」
 それだけ言うと、今度はシェーンコップの方がヘネラリーフェの躰に腕をまわし抱き寄せる。そして、ヘネラリーフェが贈った掠めるようなものではなく、むしろ正反対な口付けでシェーンコップは彼女の唇を塞いだ。いい知れない不安を押し殺すかのように無言の時が暫し流れる。
「じゃ、行ってきます」
 そういって軽く手を振りながら出撃していくヘネラリーフェの後ろ姿を、シェーンコップは忘れることができなかった。不安と共に送り出したそれこそが、彼がヘネラリーフェの姿を見た最期となったのである。
 救援に駆けつけたヤンの部隊と要塞駐留艦隊のコンビネーションは絶妙且つ賞賛に値するものであった。その中でもヘネラリーフェの動きは目覚ましいものがある。
 味方は勿論のこと敵でさえもその流麗な艦隊運用に息をのんだ。ミュラーなどは艦の識別までさせ相手があの『ニュクス』だとわかるや否や、さすがに言葉を呑んだというほどである。
 その後、同盟軍からの艦砲射撃によってガイエスブルグの通常航行用エンジンは破壊され、巨大な要塞は大量の友軍を道連れに宇宙の塵と消えていった。だがまだ戦いが終わったわけではない。深追いを強く戒めていたにも関わらず、グエン少将とアラルコン少将の部隊、合計五〇〇〇隻以上が敗走する敵艦隊を追って急進していったのだ。
「すぐに連れ戻さないと。敵の援軍もこちらに向かっている」
 この時点でもっとも早く動きがとれる艦隊はヘネラリーフェの部隊であった。陣形を立て直させたらすぐに追うからと伝え、ヤンはヘネラリーフェに追撃部隊の連れ戻しを依頼した。
 ヘネラリーフェが追撃していった艦隊に追いつき、敵の援軍が到達する以前にヤン達が更に救援に追いつく……十分に間に合うはずだった。相手が双璧と呼ばれる帝国軍の至宝でなければ。

 

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