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第六章

四 悪夢


「このオルゴールは俺の母のものだ」
 ポツリとロイエンタールが呟いた。
 母親の形見!? そんな大切な物を自分は落として壊してしまったのか。取り替えしのつかない失態にヘネラリーフェは内心舌打ちした。
「ごめんなさい、私ったらそんな大切なものを」
 詫びるヘネラリーフェを今度は手で制すると、ロイエンタールはポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「俺の母は貴族の……伯爵家の娘でな。伯爵家と言っても没落貴族でプライドの維持費を捻出するにも苦労するくらいになっていたらしいが。それに引きかえ父は下級貴族とはいえ事業に成功し、この屋敷を見ればわかると思うが貴族以上に貴族らしい豪奢な生活をしていた」
 手に入らないものはなかった。だが人間というものは財産と地位ができると今度は名誉と身分が欲しくなる。ご多分に漏れずロイエンタールの父親もそうであった。
「父はマールバッハ家の莫大な負債の肩代わりと、この先の貴族としての面目の維持費と引きかえに末娘を買ったのさ」
 毒のある口調でそれだけ言い放つと、ロイエンタールは二度と口を開かなかった。
 話してしまったことを後悔しているようにも見える。それを漠然と感じ取ったヘネラリーフェは続きを催促するのも躊躇われ、どうしたものかと思案するうちに夜は更けはじめ、結局なし崩しに二人は同じベッドを分けあいながら眠りに堕ちていくことになった。もっとも、いつものことだと言えばそう言えなくもないシチュエーションではある……
 深夜、ヘネラリーフェは微かな呻き声に眠りから引き戻された。
 誰かがうなされている? しかも極至近で……ヘネラリーフェはベッドサイドにある灯りをともすと辺りを見渡しす。意外にも呻き声の主はヘネラリーフェのすぐ隣、つまりロイエンタールの発したものであった。
 憎たらしいということも忘れてヘネラリーフェはロイエンタールを揺り起こそうとした。あまりに辛そうな表情に心を動かされたのだ。しかし起きる気配はない。そうするうち、ひときわ大きな声を放ちながらロイエンタールは飛び起きた。
「やめろっ、やめてくれっ!!」
「ちょっと、大丈夫?」
 己の身が冷や汗で濡れていることもそうだが、一瞬何が起こったかわからなかったようで、ロイエンタールは呆然とヘネラリーフェの顔を見つめた。
 それを言うならヘネラリーフェも同様である。いつも嫌味なくらいに冷徹で冷淡な、まるで氷のナイフのような男が目の前で夢にうなされているのだ。ざまあみろと思うより先に大丈夫かと気遣うのは何もヘネラリーフェがお人好しなのではなく『普通の神経』を持つ人間なら大抵は仰天してそうしてしまうことだろう。
 心底心配そうにロイエンタールの端正な顔を凝視するヘネラリーフェを、だがロイエンタールは一笑した。拙いところを見られたという気恥ずかしさがとらせたいわゆる虚勢というやつであるがそれでも半分は本心で、それをそのままヘネラリーフェにぶつけた。
「おかしな奴だなお前は。俺なら、嫌いな人間が不幸になったり哀しんだりするのを見るのは楽しいがな」
 言いながら、無意識に手を右目に持っていったのをヘネラリーフェは見逃さなかった。ロイエンタールは右目を押さえた手をまざまざと見つめ、そして小さく安堵の溜息を吐く。
「目が痛いの?」
 ハッとしたようにロイエンタールがヘネラリーフェを振り返った。ここ最近見ることのなかった悪夢とそれに付随する行動を無意識とはいえ捕虜である、つまりあくまでも所有物であり同等ではない、そんな女の前でとってしまったことにショックを受けていた。
 なんでもないとヘネラリーフェの視線と言葉を振り切る前にヘネラリーフェの細い指がロイエンタールの頬にかけられ、その手を振り払おうとしたロイエンタールは数瞬後唖然としたように動きを止めた。
「見せて」
 細く優美な指が、ロイエンタールの右目を優しく辿っていく。それが心地よく思われロイエンタールはされるがままになっていた。そんな自分に勿論驚愕していた。それでもヘネラリーフェの手を振り払うことができなくなっていたのだ。
「不思議な奴だな……さっきも言ったが、俺なら憎い男が苦しんでいれば放っておくがな」
 どちらかというと冷笑という表情でロイエンタールは嗤った。先刻の落としたオルゴールのことといい、どうして他人の、しかも嫌いな男に対してそこまで思いやることができるのか。
「私はあんたほど底意地悪くないの。もっともそうして欲しいというならざまあみろってせせら嗤ってあげるけど。私って結構性格悪いのよね。でも……夢にうなされるのって辛いから」
 最後の言葉はどこか自分に言い聞かせるような響きを帯びていた。ロイエンタールの顔から冷笑が消えた。揶揄したりあげ足を取ったりするべきことではないと思い直したのだ。そのくらいの分別はロイエンタールも持っているのである。
「それは覚えありか?」
 静かに問う言葉にヘネラリーフェはどこか明るささえ感じる声で応えた。
「うん……私も昔はよく見たのよ、父の最期をね。その度に義父やダグが抱き締めてくれて。誰かに触れられるとそれだけで安心できたのよ。ひとりじゃないってね」
 ダグという言葉にロイエンタールは内心ビクリと反応した。うわずった声が口から漏れ出る。
「ダグ?」
 自分自身見え透いているとも思う。同時に、ダグラスのことを話すヘネラリーフェの反応が見たかった。見たところでどうなるものでもないとはわかっている。だがヘネラリーフェは自分の知らないダグラスを知っている。
 そっか、名前出してもわからないわよね……ロイエンタールの穏やかでない心中など知りもしないで、ヘネラリーフェはさらに言葉を続けた。
「ダグ……ダグラス=ビュコック。私の義理の兄であり、そして恋人。もう何年も前に死んじゃったけどね」
「死んだ?」
 我ながら陳腐な台詞である。知っていることではないか、ダグラス=ビュコックの死因など。戦死、カプチェランカの白い世界で、そしてなによりも自分の目の前でだ。
「戦死したの。カプチェランカで……帰ったら結婚しようって言っていたのに嘘ばっかり」
 哀しげで、だがどこか苦笑の響きを込めた口調は、哀しさと愛しさと……ダグラスに対するそれらのすべてが込められているそんな響きでもあった。
 ダグラス=ビュコックという男のことがまた少し判ったような気がした。夜中に戦死した父親の夢にうなされる少女を抱き締めてやる彼。ヘネラリーフェにとって嫌いな人間である筈のロイエンタールに見せた彼女の優しさはダグラスから受け渡されたものだろう。そして、そのダグラスを育てたヘネラリーフェの義父母。
 己のそれとは、あまりにかけ離れているだろうヘネラリーフェを育て支えた人物にロイエンタールは僅かながらも羨望を抱かずにはいられなかった。

 

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