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第十二章

八 最後の賭け


 ミッターマイヤーが出撃した。
 事態はついに制御不能な所まできてしまっていた。だが、すべての可能性が否定されたわけではない。ただわかっていたのは、ロイエンタールを出撃させればすべてが終わるということだけだった。
 この時に至って、ヘネラリーフェはようやく自分の心にさざ波が起こるのを感じた。一一月一六日、ロイエンタールの元帥号が剥奪されたことで、ヘネラリーフェの心に生じたさざ波は荒波へと転じた。
 その時ロイエンタールは、俺と共に皇帝の元に参上せぬか? とのミッターマイヤーの言に対してNineと返しており、それもヘネラリーフェを嵐の真っ直中に突き落とした要因でもあった。最後のチャンスをロイエンタールは自らで断ったのだ。
 自分の心の変化に愕然としたのはヘネラリーフェだった。何が起こっても見守ろうと考えたことがまるで嘘のようだ。後悔する生き方をするわけにはいかない。ロイエンタールにそう言ったのはヘネラリーフェ自身なのに。その自分が悔いる生き方をするなんておかしいではないか? ヘネラリーフェはそう思い自らを嗤ってみた。
 それが引きつった嗤いであることに彼女は果たして気付いていたのだろうか? だが、後悔したくないという想いは日増しに強くなり、そしてそれはある決意に変わっていった。
 どのみち後はない。失敗を恐れて手をこまねいているより、駄目元でやってみるべきだろう。これ以上悪い事態にはならないのだから。ただ、そこまでロイエンタールを想うヘネラリーフェ自身の本心は一体何だったのだろうか? それは結局最後の最後までわからなかった。そう、本当に最後までわからなかったのだ。
 一二月のある日、ヘネラリーフェはロイエンタールの執務室にいた。戦端が明日にでも開かれるかもしれないという日には不似合いな穏やかな刻……ヘネラリーフェは囁くようにロイエンタールに語りかけた。
「私、前に言ったよね、後悔だけはしないでと……」
 その言葉に頷きながら、ロイエンタールはヘネラリーフェのこれから言おうとするべきことを計りかねていた。
「だから後悔するようなことはやめにしたの」
 ヘネラリーフェがロイエンタールを見ながら明るく笑った。恐らく初めて見るその本来の笑顔……見惚れるロイエンタールにヘネラリーフェはゆっくりと近付いた。
「貴方にとっては不本意かもしれないけれど、でも私にとってはどうしても譲れないことなのよ」
 何が言いたいのだろうか? 革張りの椅子に座るロイエンタールの正面に立ち、ヘネラリーフェが彼を見下ろす。柔らかな口唇が自分のそれに重なり離れる。柔らかで優しい腕に抱き締められたと思ったその瞬間、ロイエンタールの首筋に鈍い衝撃が走った。目の前が暗くなる。
「ゴメンね、でもやっぱり放っておけなかった……」
 ヘネラリーフェの呟きが遠くなる。そのままロイエンタールの意識は暗黒の世界に呑まれた。

 ベルゲングリューンは昏倒しているロイエンタールを見ても、むしろヘネラリーフェの考えていることなどお見通しだとでも言うように何も言わなかった。彼自身もロイエンタールを救うには方法はひとつしかないと思っていたのだ。
「恨まれるわね」
 ヘネラリーフェは苦笑混じりにそう言って溜息を吐いたが、それを言うならわかっていながらヘネラリーフェを止めなかったベルゲングリューンも同罪だろう。
「ミッターマイヤー元帥が来るまで、どこかに閉じ込めておいて」
 捕虜だったとは言えヘネラリーフェは元帥だ。それに、今この時点でベルゲングリューンとヘネラリーフェの思惑は一致していた。つまり彼には逆らう意思も理由もないということだ。
「Ya」
 ベルゲングリューンはヘネラリーフェに敬礼すると、命令を着実に実行に移したのだった。

 ミッターマイヤー元帥旗艦『人狼』にハイネセンの総督府から通信が入ったのは、それから直ぐのことである。
 当初、ミッターマイヤーはそれがひょっとしたらロイエンタールからのもので、皇帝の元に参上してくれる気になってくれたのではと勇んで艦橋に駆け付けた。が、スクリーンに映っていたのは深い青緑色の双眸に微妙な光を揺蕩らせたヘネラリーフェの姿だった。その彼女の可憐な口唇が動き、そしてそれからはミッターマイヤーほどの男が驚愕するほどの言葉が放たれた。
「ロイエンタール元帥の身柄は私が預かった。助けたくばミッターマイヤー元帥、貴方ひとりでここまでいらっしゃい」
 こういう時、嘘をつきすぎることはかえって自滅を招く。多くを語るものは、つまり隠したいことがあるということなのだ。それを踏まえて、ヘネラリーフェはロイエンタールが被害者であり、一連の叛逆騒動は帝国を混乱に入れる為にヘネラリーフェ自身が策略したということを直接語ることなくさり気なくアピールした。
 さしものミッターマイヤーもその時はヘネラリーフェのその言葉を頭から信じた。それはそうだろう。少なくともロイエンタールの自作自演の茶番と考えるにはあまりに馬鹿馬鹿しすぎたし、ヘネラリーフェがわざとすることとも思えなかったのだ。
「ハイネセンへ行く」
 ミッターマイヤーはそう言い張り、部下はそれを慌てて押し留める。そうこうするうちに、ミッターマイヤーは本来の沈着さを取り戻した。そうなってみれば、ヘネラリーフェの言葉の裏にあるものも彼には充分読みとれる。彼は彼女の嘘を見破った。
 察しなくても不思議はなかったことだろう。誰が考えても捕虜上がりの叛逆など、ロイエンタールが叛逆したという事実より信じられることに違いない。
 ヘネラリーフェはロイエンタールを憎んでいた。だから、彼を陥れようとウルヴァシーを利用しても何等おかしいことはないのだ。が、ならば黙っていれば良いことだ。わざわざ通信を送って寄越し、ミッターマイヤーに来いというのはどういうことなのか? それもたったひとつの真実を当てはめれば自然と合点がいく。
(フロイラインはロイエンタールのことを?)
 本人でさえもまだ自覚はしていない事実。だが、そうでなければ説明がつかなかった。守ろうとしているのだ、ヘネラリーフェはロイエンタールを。だが、このままではロイエンタールは救われない。あと一手、詰めるべきことがある。そしてそれは正に命がけの所業になるだろう。それでもヘネラリーフェはやる気なのだろうか? そこまでしてロイエンタールを守る気なのだろうか?
 それならば、そんな彼女の為にミッタマイヤーは何が何でもハイネセンへ降り立たねばならなかった。

 

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