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第十章

四 離された手


「リーフェが生きていた!?」
 イゼルローンにもたらされたある知らせが、衝撃と喜びとをないまぜにして要塞中を駆け巡る。
「あまりに作戦が巧くいきすぎたので、少々おかしいなとは思っていたのですがね。まさか内部から助けてくれる人間がいるとは想像だにしていませんでしたな」
 そう言うシェーンコップは、だがいつものように豪放で不敵な態度を見せることなく、中央司令室から立ち去った。
 生きてはいた。だが、あれでは……誰もいない廊下で苛立ちをぶつけるように、シェーンコップは拳を壁に打ち付けた。シーツだけを巻き付けただけの細く白い肢体が脳裏に浮かび上がる。彼女があそこで何をし、そしてどう扱われてきたのかが伺い知れるあの姿。あれでは、敵に投降しそのまま敵将校として従軍した彼女と鉢合わせた方がマシだ。
 確かに捕虜になっても死ぬなと言ったのは自分だ。その考えは今でも変わっていないし、生きていてくれて良かったと心の底から思える。そう……ヘネラリーフェがどういう状況に置かれているにせよ、彼女が生きていてくれたことは戦闘に勝つことより嬉しかった。
 だが、結局連れて帰ってこられなかっではないか。ヘネラリーフェが足を止めたあの時、いったい彼女は何を考えていたのか? いや、そんなこと考えるまでもない。
 恐らくヘネラリーフェは自分自身でも自分の行動がわかっていないだろう。だが、シェーンコップはこれまで様々な場面でヘネラリーフェを見つめてきた。いわば、本人以上にヘネラリーフェのことがわかると言っても過言ではないのだ。
「惚れたか……その男に……?」
 別れ際にシェーンコップを見た青緑色の瞳は、半年前となんら変わらぬ同じ色なのに、でも哀しくて切なくて……苦しんでいる目だった。どうすればいいのか、自分の心がわからず、持て余している目だった。軽く口付けられた口唇の感触も胸を締め付ける。
 ヘネラリーフェのことだから簡単には己の心を認めはしないだろう。しかも相手が敵将校であり更にこれまで散々にヘネラリーフェを辱めた人間となれば、自分が壊れるほど苦しむに違いない。
「馬鹿だな、リーフェ……自滅するつもりか?」
 気絶させてでも連れて帰ってくるべきだった。その方がヘネラリーフェの為だったのだ。少なくともシェーンコップは恋のエキスパートだ。こういう時の御し方は心得ている。
 この戦乱の中で敵である銀河帝国の人間と、しかも軍人というだけでも厄介なのだが、だがそれはこの際関係ない。こういうとき、一緒にいるから尚苦しむのだ。一度離れてしまえば、距離を置けば自分の心がよく見える。大きければ大きいほど、広ければ広いほど、山も景色も遠く離れなければ見えないように……
 ヘネラリーフェが自らを、そしてその心を、捨て去ってしまわないか……今はそれが気がかりだった。
 程なくしてシェーンコップはヤンに呼ばれた。
「ひとまず無事で良かったと言うべきかな」
「命がという次元で考えれば」
 どこか引っかかる言い方にヤンは苦笑すると言葉を続けた。これが多分シェーンコップにとって一番触れられたくないことだろうと予測しながら……
「訊いて良いかな……何故彼女を連れて帰ってこなかったのだと?」
 それは先刻アッテンボローにも噛み付かれたことだ。状況を説明するのは簡単だ。だが、逆に著しく難しくもあった。
「リーフェがついて来なかったんですよ」
 そう……事実は確かにそうだ。では、何故付いてこなかったのだと問われると言葉に詰まる。ヘネラリーフェ自身でさえも気付いていないだろう心の奥底を他人に洩らしても良いものなのかどうか……それに彼女がついてこなかったのはそれだけではない。
「前の戦いで、あいつ随分酷い怪我をしたようですな」
 右腕と左足の神経断絶。その為に恐らく永遠に負傷した腕と足は不自由なままであるということ。そしてその為に足手まといになることを恐れ、ローゼンリッターを逃がす為に敵中にひとり残ったことを、シェーンコップは包み隠さずヤンに語った。そしてそれに隠されたもうひとつの心……
「相変わらず不器用なままみたいだね、彼女は」
 今は命が無事だっただけでも由としなければならないのかもしれない。ヤンはそう思った。生きていると信じていた。だが、心のどこかでは既に絶望視していたのも事実。そのヘネラリーフェが生きていてくれたことは、ヤンに、そしてイゼルローン艦隊の全員に暫し安寧感を与えてくれた。
 だが、まだ戦いは終わっていない。ヘネラリーフェが身を賭して作ってくれたロイエンタールの隙を無駄にはできない。一刻も早くイゼルローンを放棄してハイネセンへ帰還するのだ。そして、ビュコックに知らせなければ。ヘネラリーフェの無事を……
 ハイネセンから訓例文が届いたのは年も改まった宇宙歴七九九年、帝国歴四九〇年一月のことであった。
 訓例文の内容は
「全責任は宇宙艦隊司令部がとる。貴官の判断によって最善と信ずる行動をとられたし。宇宙艦隊司令長官アレクサンドル=ビュコック」
それは娘ヘネラリーフェの生を一番信じているだろう義父の名だった。

 

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