第八章
四 惹かれゆく心
ひとまず眼前の危険は去ったようである。一体どれほどの時間をプレゼントしてくれるつもりかわからないが、いくらなんでも分単位ではなかろう。
ヘネラリーフェの躰のことも気になり、ロイエンタールは思考を一旦閉じると止血すべくヘネラリーフェの傍らに座り込みながら彼女の顔を見やった。
目が合っていた……翡翠にも似た青緑色の双眸に真っ直ぐに見つめられていた。
「お前……」
あそこまで薬に取り込まれ既に発狂寸前にまで我を失っていただろうヘネラリーフェがそう簡単に正気を取り戻すなど信じられない。いや、目の前に真実があるのだが、やはりありえないことだった。
そっと彼女の頬に触れてみる。だが感覚が麻痺しているのだろうか、ロイエンタールを強い眼差しで射抜いているのにその躰は微動だにしなかった。
その時ヘネラリーフェの口元から微かな声が漏れ出たが、それは状況には少々似つかわしくない言葉であった。
「なんで……なんでロイエンタールなんかの顔が出てくるのよ……」
確かにそう言った。しかもどういう経緯でそうなったのか知らないがロイエンタールのことを呼び捨てである。そこがヘネラリーフェらしいと言えばらしいのだが……
「おい……?」
彼女に呼びかけようとして、だがロイエンタールはこれまで一度もヘネラリーフェの名を呼んだことがないことに気付いた。
思わずそんな自分自身に苦笑しながらもダグラスの死以来何度もあのロケットに向かって呼び抱えていた言葉を意を決したように紡ぐ。
「リーフェ」
「げげっ……幻聴まで聞こえるなんて」
わけがわからないのはロイエンタールの方だろう。まったくこちらの精神の方が崩壊直前である。
これまでにヘネラリーフェの身に起こったことをとりあえず反芻してみる。気を落ち着ける為にも考えることは良いことだ。
自白剤と思しき薬を投与され酩酊状態に陥った。それから……
「撃たれたからか?」
いくら薬の所為で意識朦朧としていたとはいえ、撃たれた衝撃を感じ取れない筈がない。確かに薬の性質上痲酔の役目も果たしていただろうから激しい痛みはなかったかもしれないが。
撃たれた衝撃で意識が覚醒し、だが薬の作用で痛みは感じない。そういう状態なのだろう。
だが、本人にしてみればつい今し方まで夢と現実の間を彷徨っていたのだから、これがどちらの世界なのかすぐには区別がつかないのだ。
「しっかりしろ」
上から顔を覗き込みながらロイエンタールはヘネラリーフェの躰を抱き起こし、軽く抱き締める。
「幻覚のくせに触るな~~~ ええ~~い、散れ!!」
幻影のロイエンタールを消すべく振り回そうとしたヘネラリーフェの細い手首を彼は咄嗟に掴んだ。
撃たれているというのに痛みがない所為でこういう行動にでてしまうのだろうが、下手をすれば右腕に続いて左腕まで使用不能になってしまう。
「いい加減目を覚ませ。これは現実だ!!」
耳元に向かって大声で叫ぶと頬を軽く叩く。数瞬後、呆然とするヘネラリーフェの顔がそこにあった。
「ロイエンタール?」
「他の誰に見える?」
「何でここにいるの?」
「助けに来たとは思わないのか?」
「思わない」
キッパリハッキリ言うヘネラローフェの言葉に、さしものロイエンタールも苦笑するしかなかった。
単に嫌われているだけかもしれないのだが、そこまで信用されていないとは……
しばし沈黙が流れたが、次の瞬間二人の目が合い視線が絡み合った。
答えはまだ見つかっていない。だが、ロイエンタールはヘネラリーフェを強く抱き締めていた。勝手に身体が動いてしまったのだ。
それでも今までのようにそんな自分に動揺を覚えることはなかった。むしろごく自然にそういう行動にでられたような気さえしたのである。
「無事で良かった……」
噛みしめるような囁きがロイエンタールの口元から漏れる。
抱き竦められた瞬間咄嗟に身を固くしたヘネラリーフェは、だがその言葉を聞いた途端に躰から力を抜いた。
実際はそもそも身体に力など入らないので、あくまでも意識の上でだが……
ロイエンタールの身体の温もりに心地よさを感じヘネラリーフェは目を閉じた。やはり嫌悪は感じられない。同じ嫌いな男の筈なのにリートベルクに触れられたときとはあまりに違いすぎた。
ロイエンタールの胸に顔を埋める格好になったヘネラリーフェの耳元に彼の鼓動が流れ込んんでくる。トクトクトク……規則正しいそれを聞くうち急にヘネラリーフェを心細さが襲った。
いや、そうではなく、これまで心細かったんだということに気付かされたと言った方がより正確な表現だろう。
予測していた、覚悟していた事態だったとは言え、有無を言わさず捕らえられ連行され、そして自白剤まで投与されあわや発狂寸前までいったのだ。
しかも知り合いも味方もいないこの国でである。いかに強い精神力を備え持つ人間だとしても、そんな状況に置かれれば耐えられるとは思えない。
だからヘネラリーフェの心細さは至極当然のものだったのだ。
ヘネラリーフェの華奢な躰が震えだした。そうなってから初めて自分が震えていることに気付いた彼女は困惑し、それが更なるパニックを呼び込みヘネラリーフェは一瞬錯乱しかけた。
歯の根も噛み合わぬほどの酷い震え……そしてそれを封じ込めようかとするかのようにロイエンタールにしがみつく。
恐かったのだ。ここに連れてこられてからずっと……
死ぬことに恐怖はない。だが、リートベルクの崩壊しかけた精神が心底恐かった。
「どうした、おい!?」
突如変化したヘネラリーフェの様子にロイエンタールはヘネラリーフェの肩を掴んで揺さぶった。だが、薬の幻覚作用も災いしてか、錯乱したヘネラリーフェの眼にはロイエンタールが凄惨な笑みを湛えたリートベルクの顔に映る。
「嫌!! 触らないで!! 離して!!」
必死で藻掻き抗いロイエンタールの腕から逃れようとのたうつ。
「しっかりしろ、リーフェ!!」
言いざまロイエンタールはヘネラリーフェの口唇を塞ぎ、息もできぬほどの強く深い口付けを施した。ヘネラリーフェが落ち着きを取り戻すまで……それは長い長い口付けだった。
なんとか落ち着きを取り戻したと思えたその時、ヘネラリーフェの青緑色の瞳から涙が溢れ出した。頬を伝って零れ落ちるそれをロイエンタールが指でそっと拭ってやる。
「あ……やだ……なんで……」
呟くような声が聞こえた。
彼に触れられたことで、やっと自分が涙を流していることに気付いたのだ。完全に精神が不安定になっているようであった。
だがそれは無理もないことだろう。多量の自白剤を投与され、それはまだ体内に残留しているのだ。正気を取り戻しただけでも由としなければなるまい。
暫くの間ヘネラリーフェを抱き締めながら背中をさすってやる。すっかり落ち着きを取り戻したのだろうヘネラリーフェの口から言葉が紡がれた。
「ねえ、本当に何故ここにいるの?」
本気で自分を助けに来たとは思っていないらしい。ロイエンタールの口からクククと押し殺した忍び笑いが漏れだした。
「だから、お前を助けに来たんだと言わなかったか?」
おかしそうに笑いながら答えるロイエンタールの不真面目な態度にヘネラリーフェがむくれる。
「真面目に答えなさいよ!! ちょっと、怪我までしているじゃないの!?」
スカートの裾を破ってロイエンタールの傷付けられた腕と足に巻き付けた。
簡易的に作った包帯を巻き付ける間も、忍び込むならもう少し上手くやれだの、上級大将の割に思慮深くないだの、怪我までして莫迦じゃないのなど、とにかく怒りながら、だが手を休めることなくロイエンタールに手当を施していく。
自分のことを棚に上げてと思わなくはなかったが、他人の為に一生懸命になれるヘネラリーフェに今は言うべき言葉をロイエンタールは見つけられなかった。
元々の負傷箇所である右腕は勿論のこと、つい先刻左手も撃たれた上に自白剤の作用も手伝ってヘネラリーフェの躰には殆ど力が入らなかった。
上体を起こしているのにも実はロイエンタールに支えてもらってやっとという状態なのだ。それ故たかが包帯を巻くという行為にとてつもなく長い時間と労力と気力を注がねばならなかった。
手当が終わったとき、疲れたような溜息がヘネラリーフェの口から漏れた。感謝を込めて彼女の口唇にそっと掠めるだけのキスを贈る。いつもならキツイ眼差しで睨み付けるヘネラリーフェも今回は苦笑しただけで終わった。