top of page

夏の夢
 

 マリア・ミヒャエル・ケスラー、御年6才。
 彼女はその年齢に相応しく、甘いものが大好きであった。しかし2年前より彼女の母親をつとめる女性は、マリアのその天真爛漫で且つ無防備な性格をすでに把握しており、マリアには常に「知らない人と口を利いてはいけません」と繰り返してきた。
 それ故、このときマリアはどうすれば良いのかわからずにいた。
「こんなに汗をかいて、暑いだろう?アイスを一緒に食べよう」
 突然現れた男が話し掛けてきて、しかもアイスを買ってくれると言う。
 マリアは困惑して、麦藁帽子を深くかぶりなおした。にいちゃまが朝に塗ってくれた日焼け止めは、炎天下の中で次第に効果を下げ始め、先ほどからノースリーブで露出した肩が、じりじりと悲鳴をあげていた。
「お口が利けないのかい?」
 だって、知らない人と口を利いちゃいけないんだもん。
 マリアは男の「アイスを食べよう」という誘いに心を惹かれながらも、目深にかぶった帽子で男と目を合わすのを避けた。

 自然公園には多くの観光客がいるはずだが、その敷地はあまりに大きく、人口密度という点では人影はまばらだ。この日、マリアは休暇で帰省したケスラーにここ自然公園へと連れられてきた。ケスラーとしては妹に遠出をさせてやりたいという気持ちと同時に、とうとう購入した新車を走らせたいという二つの気持ちがあったのだろう。
 しかし、真夏の炎天下である。しばらくするとマリアは「にいちゃま、ミミ痛い」と言い出した。当初は靴擦れでも起こしたのかと思ったケスラーであったが、マリアの鼻や頬、肩などが炎症を起こし始めていることに気付いた。子供用の日焼け止めは低刺激だが、耐久性がない。汗で流れてしまったのだろう。ケスラーはマリアを日陰に移動させて、日焼け止めを取りに駐車場へと戻っていた。
 知らない人物に声をかけられておろおろするマリアに、男は業を煮やしたようだった。頭上から舌打ちが聞こえ、マリアはびくりと肩を揺らした。
「ほら、はやく!」
 男はマリアのか細い手首を掴んだ。その力は容赦なく、マリアが怯えて「やあ」と声を上げた瞬間。
「何してんのよ!このへんたい!!」
 ……何かが飛んできた。いや、何かではない。人間だ。人間が飛んできた。
 鈍い音がして、男がもんどりうって倒れた。頭を打ち付けたらしい。しきりに頭部をさすり、首を振っていた。マリアが「大丈夫ですか?」と言いかけたとき、またもその腕を掴まれた。先ほどの男の腕とは似ても似つかぬ小さな手であった。
「ちんたらしてないで!逃げるわよ!」
 マリアよりもさらに小さい幼児であった。が、生存能力はマリアの倍以上あるようだ。男にとび蹴りを食らわせたその幼児は、マリアの腕を引っ張り、幼児二人は文字通り、脱兎の如く逃げ出した。
 初めてその公園を訪れたマリアは走っているうちに道がわからなくなってしまったが、自分の腕を掴む子供は戸惑うことなく足を動かしている。きっと道を知っているのだろうと、マリアは不安を感じることはなかった。
 危機管理能力に乏しいマリアは、前を走る幼児のふわふわと揺れ動く琥珀色の髪に見とれていた。「何だかよくわからないけど、かわいい子に会っちゃった」ぐらいの感想しか、マリアには持てなかったのである。
 一方で、マリアを助けた幼児、ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン=ブラウシュタットは焦り、苛立っていた。いつ男が我に帰って、追いかけてくるかわからないのだ。もっと速く走って欲しい。そもそも(ヘネラリーフェからすれば)いい年して、男に攫われそうになるとはどういうことか。どう見たって自分より年上のマリアの、そののほほんとした表情に、逃げおおせたヘネラリーフェは噛み付いた。
「もう!何やってんのよ?人攫いに攫われそうになるなんて、あんた一体いくつ?」
 ヘネラリーフェとしては、怒りと厭味と心配と、いくつもの感情が入り混じった言葉であったが、マリアの返答は彼女を脱力させるのに十分なものであった。
「ミミは6才よ。あなたはだ~れ?」
 同じ人間に見えるが、違う人類なのだろうか?年上だがアホ臭いマリアに対して怒るのは、労力の無駄であると、ヘネラリーフェはこのたった一言で悟ってしまった。
「……ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン=ブラウシュタットよ」
 マリアは「ヘネラリーフェ・セレ…」と繰り返そうと試みたが、首を傾げてしまった。ヘネラリーフェは大人顔負けの大きな溜息を吐いた。マリアはヘネラリーフェの名前を覚えきれなかったのだ。
「父様はレニって呼ぶわ」
「レニ?ミミはね、マリア・ミヒャエル・ケスラーっていうの」
 新しいお友達だねと、マリアが笑った。自己紹介をしたから、知らない人ではないというのがそのロジックなのだが、ヘネラリーフェは後悔した。自身の行動は正義ではあるはずだが、余計な苦労を買って出てしまったことに気が付いたのである。マリアに悪意がないのことは当然わかるが、会話をするにはたいへん疲れる。
「レニの髪、ふわふわできれいねぇ~」
 ミミの髪も速く茶色くならないかな。マリアは己の銀糸を摘んだ。
「なによ、茶色い髪になりたいの?」
 幼児とはいえ、女の子である。きれいと言われてうれしくないわけはなく、ヘネラリーフェは顔を赤らめつつ、マリアに問うた。
「うん。だって、にいちゃまもムッターもファーターも茶色いんだよ。ミミも茶色い髪がいい」
 マリアは口を尖らせて不服を訴えたが、ヘネラリーフェはマリアの銀糸が茶色になるのは勿体ない気がした。

**********

 懐かしい夢をみた。
 休日の朝、ケスラーはしばらくベッドがから起き上がることもできずに、夢の余韻に浸っていた。産後のマリーカは乳児を伴って里帰りをしているため、少し寂しい朝であったが、ケスラーの心は温かい。
 マリアが6才の頃、新車に乗せて、自然公園へ連れ出したことがあった。そのとき、ほんの10分か20分ほど離れた隙にミミはいなくなって、ケスラーは大いに焦った。広い公園内を汗だくになって走り回ったケスラーは、自分と同じように汗だくになっている老紳士と出あった。彼と自分は、娘と妹の差はあれど、同じく幼い連れと逸れて、炎天下の中を駆けずり回っていたのだ。
 二人で協力しようと携帯のナンバーを交換し合い、日も暮れた頃になって発見された幼児は二人で手を繋いで眠りこけていた。極度の疲労と怒りと、そして安堵とが綯い交ぜとなり、ケスラーも老紳士も苦笑でしか反応を起こすことができなかった。
 すやすやと眠る二人を起こすのも忍びなく、そっと手を離させて、互いに幼児を抱き上げて帰途についた。精神的圧迫から抜け出したケスラーにも眠気が襲い、自動運転装置がなければケスラーとマリアは二人で事故を起こして今頃はヴァルハラの人になっていたかもしれない。ケスラー家の門扉に辿り着いた地上カーの中では兄妹が仲良くヒュプノスに抱かれていたのだから。
 あのとき、幼児はどんなことを話していたのだろうか?
 ケスラーの胸は躍った。こんなことを考えられるのも、マリアが自分の手に戻ってきたからだ。マリアの夢を見ても、今はもう苦しくない。
 ケスラーは10代の若者のように、上掛けを蹴って跳ね起きた。マリアに会いたかった。
 手早くシャワーを済ませ、軽く車も洗った。この地上カーはあのときのものよりもずっと高かったが、購入したときの喜びはあのときの車の方が大きかったように思
う。給料をためて購入したあの地上カーにミミを乗せて出かけた自然公園はここフェザーンではないけれど、あの日と同じく雲ひとつない夏日であった。今日はこれにマリアを乗せて、新しい地上カーを探しに行こう。自分とマリーカとマリアと赤ん坊を乗せるに相応しい、少し大きな地上カーがいい。パンフレットを貰ってきて、マリーカにも見せて、三人で言い合いをして、ウルリッヒ・ケスラーの車ではない、ケスラー一家の車を購入しよう。
 埃を落とされたケスラーの地上カーは走り出した。
 思いの他フェザーン滞在が長引くことになったマリアは、今現在ウィークリーマンションを借りている。ケスラーとしてはいずれは正式にフェザーンに引越しをさせるつもりだが、マリアの仕事はまだハイネセンのものが多く、なかなか思い通りにはいかないのが現状だった。それでも、ケスラーの目の届くところに生きていてくれるなら、それだけでも十分である。
 地上カーは静かに駐車場へと吸い込まれていく。久しぶりのマニュアル運転だが、どうやら腕は落ちていなかったらしい。一発で車庫入れを決めて、ケスラーはさらに浮かれた。どうも今日はツイている気がする。
 ケスラーが車を降り、エレベーターへと足を進めると、上手い具合にドアが開く。
 やっぱり今日はツイているのだ。到着階のボタンを押そうとしたそのとき、甲高い耳障りな音を立てて、一台のスポーツカーが駐車場に爆走してきた。
 見覚えのある車である。ケスラーは条件反射的に閉ボタンを押したくなったが、それはあまりにも子供じみているようにも思えて、車上の人物がこちらに来るまで待ってやることにした。
「ああ、すまない」
 派手な登場をした割には一分の隙もない色男ぶりを発揮している……と表現すれば誰がやってきたのかはおわかりになるだろう。ケスラーが乗り込んできた御仁に溜息を吐き、言った。
「法廷速度は守れよ、ロイエンタール」
「次回からはそうすることにしよう」
 次回などこなくともいい。ケスラーは内心で毒づいた。この男にはヘネラリーフェという愛人がいることは知っているが、漁色家にはあまりマリアに近付いていただきたくない。だからと言って、他の誰かならばいいと言うわけでもないのだが。
「ミミに何か用か?」
 帝国の重鎮二人を乗せて、エレベーターは音もなく上へ上へと登っていく。
「リーフェがフロイラインのところに邪魔をしているらしい。帰ってくる気配がないからな、迎えだ」
 相変わらずの甘やかしぶりだと、ケスラーは自分を棚に上げて思った。
 途中で止まることなく、エレベーターは目的地へと二人を誘う。ケスラーは部屋番を確認すると、インターフォンを鳴らしたが、付属の液晶が明るくなることはなかった。
「ふあ~い」
 相手が誰かを確認もせずに開いたドアに、ケスラーは思わず怒鳴りそうだった。
が、それには数瞬を要した。
「……」
「……」
 バイエルラインの青二才ならば、ここで鼻血を噴くかもしれないな。そんなことを考えてしまうのは、明らかにケスラーが現実逃避を謀ったからだ。
 マリアの格好はひどかった。
 プライベートである。化粧をしていないのは構わない。しかしその出で立ちは…
「…なんて格好でいるんだ、ミミ!」
「ふぎゃっ」
 ケスラーはまるで猫を相手にするように、マリアの後ろ首を掴み、そのままずんずんと部屋に侵入した。ロイエンタールは無言でその後ろを歩く。鼻血を出すほど初心ではないロイエンタールとしては、いいものを見せてもらった程度の感想だった。
 マリアは下着一枚にキャミソールを着ただけだった。白い腕も足も剥き出しで、夏のプライベート時間として場違いな格好ではないが、それで来客を出迎えるのはまずかろう。
 それにしても、すばらしい。
 ロイエンタールは内心で賞賛を惜しまなかった。ヘネラリーフェの美しい肉体を見慣れた彼にも、マリアの脚線美は感嘆ものであった。さすがはプロのモデルである。
 薄っすらと付いた筋肉と細い足首、染みひとつない肌に、魅入らない男はいないように思われた。
 しかし、そんなことを考えていられたのはほんの数歩のみであった。
「…なんて格好をしている、リーフェ!」
 まさかケスラーと同じ台詞を吐くことになるとは、ロイエンタールも頭が痛い。
 部屋の中央には酒瓶がいくつも転がり、それらに囲まれるようにヘネラリーフェが眠っていた。その格好はマリアとほとんど変らない。ロイエンタールを魅了してやまない、古傷を残した柔らかな太腿や、俊敏さを感じさせる引き締まった脹脛を抱えるようにして、床に丸くなっていたのである。
「「ううっ。頭に響くうう」」
 世の男性たちが100人いれば99人は美女だと言いそうな二人であったが、漏れ出た声はあまりにも無様だった。
 一体、どれだけ飲んだのか。酒豪のリーフェが二日酔いになるほどの酒量である。それにフロイラインも付き合ったのかと想像すると、ロイエンタールは自分までが酔いそうだった。
 ケスラーは部屋を見回し、二人の妙齢の女性を前にして、大きく息を吸い込んだ。
「二人とも正座!!」
 それはお見事としか言いようのない光景だった。
 床をびしりと指差したケスラーの前に、あられもない格好の女性二人が、あたかもパブロフの犬のごとき条件反射で、ちんまりと肩を寄せ合い正座した。よくよく考えても見れば、ヘネラリーフェはケスラーに叱られる筋合いはないのであるが、なぜか逆らえないような雰囲気をケスラーは持っているのだ。
 面白いことになってきた。
 ロイエンタールはヘネラリーフェの前に進み出て、ケスラーと並んで立った。女性陣はそれぞれの保護者?に仁王立ちにされ、互いにちらちらと視線を交し合った。
「何か言いたいことはあるか、二人とも」
 ケスラーの声は低い。
「えーっと、その、ね?ウルリッヒ兄様。ちょっと羽目を外しただけ」
「そうよね。ミミのショーの仕事に区切りがついたから、ちょっとカロリーを取っただけよ」
「あっ、ひどい!リーフェがいいお酒が手に入ったからって言うから」
 ケスラーががしりとマリアの頭部を掴んだ。二日酔いでこれをされては堪ったものではない。
「…ミミ」
「はいいいいい。ごめんなさ~いいいい」
 マリアは涙目だった。
 ところがその口元は笑っていた。ロイエンタールとヘネラリーフェに挑戦的な視線を投げると、ケスラーを見上げ、瞳を潤ませたまま震えた声を出した。
「ごめんなさい、ウルリッヒ兄様」
 やられた。ヘネラリーフェにもロイエンタールにも、次の展開はもうわかっていた。
 これもひとつの条件反射なのだろうか。ケスラーはマリアの涙にほとほと弱かった。
「反省しているか?」
「もちろんよ。ごめんなさい。ごめんね、兄様。もうしません」
「……よし。顔を洗って、服を着なさい」
 マリアは俯き、涙を拭うような仕草を見せて立ち上がった。
 彼女がロイエンタールの横をすり抜けるとき、僅かに唇が動いた。それが「ちょろい、ちょろい」と聞こえたのは、ロイエンタールの聞き間違いではないだろう。なるほど、マリアは策士だった。
「ロイエンタールううう」
 足元から聞こえた声は甘さを孕み、ヘネラリーフェもまた瞳を潤ませていた。なかなかにいい手ではあったが、マリアの二番煎じでは効果は激減してしまった。
「あまい!」
 ロイエンタールはぺちりとヘネラリーフェの頭をはたいたが、それは誤解というものであった。彼女が瞳を潤ませたのは別にマリアの真似をしたのではない。……足が痺れたのである。

「それにしても、兄様。今日は何のご用だったの?」
 客人三人にコーヒーを振舞って、マリアは尋ねた。そもそもケスラーが来ることがわかっていれば、あんな格好ではいないし、部屋に酒瓶を転がしたりはしない。
「別に用はない。暇なら出かけないかと誘いに来ただけだ」
 あの浮き足立った気持ちはどこかに行ってしまっていた。今日は『ツイて』いるのではなく、『憑いて』いたんだと、ケスラーは思った。
「それから。懐かしい夢をみた。お前、昔に自然公園で迷子になっただろう。あの夢だ」
 マリアはしばらく記憶の棚を開け閉めして、それを見つけたようだった。ぱちんと音を立てて両手を合わせ、「ああ、あのときね」と笑う。
「はぁ~、ほんとに迷子になる娘だったのね」
 ヘネラリーフェは悪戯げな表情をしてみせたが、マリアは悔しがるでもなく、逆にヘネラリーフェを見遣った。
「優秀なるヘネラリーフェ。惜しむらくはあなたの記憶力が凡人並ということかしら?」
 ヘネラリーフェにこんな口が叩ける人物もそうはおるまい。ロイエンタールは無言でコーヒーを口にしていたが、その鼓膜はしっかりと会話によって振えていた。
「どういう意味よ?」
「あなただって迷子になったでしょ。自然公園よ」
「……ああああ~!!!」
 ヘネラリーフェは思い出した。幼すぎて記憶は曖昧ではあったが、覚えがないわけではなかった。
「あの『変態に攫われそうだったっていうのに、すっ呆けてた、頭悪そうな子供』!!」
「誰が『頭が悪い』ですって?そもそもあのときはあなたの方が子供だったでしょ!」
 マリアは反論したが、ケスラーははあっと息をついた。小さな頃のマリアを思い浮かべれば、ヘネラリーフェの発言はもっともらしく聞こえた。
「で、その夢がどうしたっていうの?兄様」
「いや、特に他意はないんだ。ただあのとき二人で何を話していたのかと思ってな」
 本当に、何を浮かれていたのか。ケスラーはもはや自分が馬鹿馬鹿しくなっていた。
 ヘネラリーフェは懸命に記憶を掘り起こそうとしていたが、明瞭には思い出せなかった。彼女は当時4才である。それが当然というもので、『凡人並の記憶力』と評されたところでヘネラリーフェが『優秀』であることに傷がつくわけでもあるまい。
「思い出せないの?リーフェ」
「うーん……変態にとび蹴りをしたことは覚えてるんだけど」
 ロイエンタールは何も言わなかった。彼の知るヘネラリーフェなら、予想できる範囲のことだったのである。
「あのときね、髪の色の話をしていたのよ」
 マリアはヘネラリーフェの琥珀色の豊かな髪に目を細めた。それは女性の目からみても美しいと思える。
「髪?」
 ケスラーは首を傾げた。迷子になった幼児たちはずいぶんと緊迫感のないことを話していたようだ。
「ミミも茶色い髪がいいって思ったの。父様も母様も兄様も茶色いのに、私だけ白くって嫌だったのよ」
 陰口とはどこでも叩かれるもので、マリアは当時、自分がケスラー一家の《もらわれっこ》であることを知っていた。
「今でも、そう思っておられる?フロイライン」
 尋ねることのできないケスラーに代わって、ロイエンタールがマリアに金銀妖瞳を光らせた。髪の色とは結局のところ比喩でしかない。彼女はケスラー一家の一員になりきれない自分が嫌だったのだ。
「どうかしら?」
 マリアは口を濁した。
「……少なくとも、《茶色の妖精》って言葉にはあまり魅力はないでしょうね」
 ロイエンタールの問いたいことを知っておきながら、マリアはそれに応えなかった。空になったコーヒーカップの持ち手に指を入れて、行儀悪くくるくると回している。
 家族を愛していながらも上手くいかない歯痒さ。それは乗り越えることが容易いようで難しく、難しいようで容易い。乗り越えたと思えばそれが本当であるのかどうか自分を問い詰めたくなり、ふとした瞬間に乗り越えている自分がいることを感じる。
 そうするとまた、自分を問い詰めたくなることの繰り返しを引き起こすのだ。
 マリアにとって『ウルリッヒ兄様のお嫁さんになる』とは、つまりその繰り返しを断ち切りたい少女の、憧れが為せる願望だった。自分も他者も納得させてくれる家族の形が欲しかったのだ。恋情が一切なかったとは思わない。しかし恋情だけだったとも言い切れない。だから、もし実際にその願望が叶ったところで、マリアはまた苦しむに違いなかった。自分が愛しているのはウルリッヒなのか、それともウルリッヒ兄様なのかと。
 ヘネラリーフェにはマリアの気持ちがわかるような気がした。しかしそれはケスラーとマリアと、そして今やケスラーの家族となったマリーカが解決しなければならない問題であり、自分とダグとを引き合いに出すのは戸惑われた。家族にはそれぞれの形があり、そこに他者が余計な口を挟むから悩みを生むのだ。家庭内暴力があったならともかく、うまくやろうとしている家族に他者が批評を投げ込めば、さらに悩みを増大させるだけであろう。
「そろそろお暇しましょうか」
 ヘネラリーフェがコーヒーカップをソーサーに戻して立ち上がり、ロイエンタールもそれに倣った。
 家庭に恵まれなかったロイエンタールだが、そこで形成された彼の持論がケスラーとマリアの二人に適用できるとは思えなかった。人には人それぞれの出会いがある。ロイエンタールがミッターマイヤーやヘネラリーフェと出会い、ヘネラリーフェがダグラスやロイエンタールと出会い、ケスラーがマリーカと出会ったように、出会いは人を変えるものだ。マリアもいずれ、そんな出会いをするかもしれない。
 マリアの気持ちに整理がつこうとつくまいと、それはすべて一過性のものに思われた。ヘネラリーフェがダグラスを忘れないように、過去は変えられない。変わるのはそれを振り返る自分であって、その自分とても時がたてば過去に成り代わる。マリアが今、整理をつけたところで、未来のマリアはまた同じことに悩むかもしれない。
 自分がヘネラリーフェと出会ったような、そんな出会いがマリアに訪れればいい
と、ロイエンタールは思った。そしてこんなことを思うことですら、ヘネラリーフェと出会ったことによって自分が変えられた証拠であることも自覚していた。
「リーフェに初めてあったとき、私はすぐにわかったわよ。《レニ》だって」
 見送りの玄関先で、マリアはヘネラリーフェを笑った。
「何で言わなかったのよ?」
 瞬きを繰り返すヘネラリーフェに、マリアは肩をすくめて見せた。
「だって、お互いに亡命者だもの。詳しく詮索されて嬉しいものではないでしょう」
 それはそうだ。
 マリアはどう褒めようとしたところで、頭がいいとは言えない人物であったが、退くべきところを心得ている優しい人間であった。だからこそ、ヘネラリーフェも冴えない先輩を見捨てずに面倒をみてきたのだった。
 多分、いや確実に、ヘネラリーフェはこの冴えない元先輩の面倒を見続けることになるだろう。しかしそれもいいかもしれないと、ヘネラリーフェは思った。マリアはヘネラリーフェをただヘネラリーフェとして扱う、数少ない友人の一人だ。ロイエンタールの愛人だとか、亡命軍人だとか、卑下することもなければ、将校として崇めることもない。マリアがヘネラリーフェを見つめる目には同情も軽蔑も畏敬もなく、あるのは友愛だけだ。
「また遊びましょ」
 ヘネラリーフェの言葉にマリアは頷いた。
「今度はハイネセンで呑みましょうよ。兄様もロイエンタール閣下もいないところで」
「そうね。ビュコック家の地下から秘蔵を1本、くすねてくるわ」
 二人は声を上げて笑ったが、保護者二人は呆れて物も言えない状態だった。
 蛇足だが、ヘネラリーフェの言葉に一抹の不安を覚えて、後日ロイエンタールは屋敷のワインを確認したところ、415年ものの赤が2本ほど行方不明になっていた。
 隣りにある410年ものを持っていくか、悩むヘネラリーフェを思い浮かべて、ロイエンタールは笑った。ワインの数本ごときで怒るロイエンタールではないが、ヘネラリーフェの微妙な良識には笑うしかない。

**********

 二人を見送り、ケスラーはマリアに「出かけるぞ」と促がした。
「いいけど…どこに行くの?」
 コーヒーカップとソーサーを自動洗浄機にかけていたマリアは手を止めた。ケスラーは椅子の背に掛けてあったジャケットを羽織り、地上カーの鍵を取り出した。
「新車を見に行こうと思ってな」
「買い換えるの?マリーカの意見を訊くべきじゃない?」
 言外に、自分がケスラーと決めるのはお門違いだろうという、マリアの気遣いが見え隠れしていた。
「今日すぐに決めるわけじゃないさ。パンフレットだけ貰ってきて、後で三人で決めればいい」
 マリアは納得がいかないようだったが、ケスラーはとにかく着替えてこいと、マリアを急かした。
 余計なことを考えさせない方がいい。マリアがどう思おうとも、ケスラーにとってはマリアは家族だ。今度の新車はケスラー一家の車なのだ。マリアが決定に参加するのは当然ではないか。

 髪が銀色でも、ケスラーと似ていなくても、マリアはケスラーの妹だ。
 ビュコックがヘネラリーフェの父であるのと同じように。だが、ヘネラリーフェにとってのロイエンタールのような存在は……ミミにはまだしばらく現れて欲しくないと思うのが、微妙な兄心というものだった。


 

---------------------------------------------------------------------------------------------------------

キャアキャア、遂にいただいてしまいました♪
みのりさん作の、ミミとリーフェとケスラーとロイエンタールのコラボ作品でした(#^.^#)

 

う~ん、貢いでみるものですね。
蒼乃が差し上げた、へっしょいお話で、こんなお話が釣れるんですから(笑)

みのりさん、ありがとうございました。

bottom of page