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第十三章

二 夢のあとさき


 躰が重い。蒼い光が漂う深海の底に引きずり込まれそうな感覚に襲われヘネラリーフェは喘いだ。だが、そんな彼女に甘美な声が囁かれる。もう眠っても良いよと……
 その誘惑に逆らうことが今のヘネラリーフェにはできなかった。甘やかな声に誘われるが如く、堕ちていこうとする彼女を突如闇が包み込んだ。気が付くとヘネラリーフェは闇の中にひとりで座り込んで泣いていた。
 確かに自分なのにその躰をよく見ると幼い頃のヘネラリーフェだった。出撃していくレオンを見送ったあと、いつもこうしてひとり闇の中で泣きながら眠ったことが思い出される。
(寂しいよ……恐いよ……)
 誰かに傍にいて欲しい……泣きじゃくる彼女の前にダグラスが現れた。
(ああ……これはハイネセンに行ってからの私だ)
 焔に包まれながら宇宙の深淵に散っていったレオンの姿がヘネラリーフェを苛んでいたあの頃、泣きじゃくる彼女を一晩中抱き締めていてくれたのはダグラスだった。
 彼の元に行こうとヘネラリーフェは必死に駈けだした。
(行っては駄目)
 そんな声が後ろから聞こえた。一瞬足を止めて見渡すが誰もいない。早くしなければダグラスが行ってしまう。見失ったらまた闇の中でひとりぼっちだ。だが彼女の目の前でダグラスの姿が消えた。
(どこにいるの、お義兄さま!!)
 ひとりにしないで……私も連れていって!! 呆然と佇むヘネラリーフェの前に再びダグラスが姿を見せた。彼女を見守る眼差しは何年たっても失われることなのないまま優しく揺れている。
(そこにいたんだ。心配したんだから)
 歩み寄ろうとするヘネラリーフェを、だがダグラスは手を挙げて留めた。
(来ては駄目だ)
(こっちへおいで)
 前と後ろから同時に声が聞こえる。ダグラス以上に惹きつけられる背後からの声に、ヘネラリーフェは後ろを振り返った。 
(お前の行く先はそっちだ)
 後ろを振り返ったヘネラリーフェにダグラスが諭すように言う。
 でも……ヘネラリーフェは戸惑った。義兄と離れてしまうことがとてつもなく不安で哀しく思えたのだ。
(行きなさい、彼が待っている。お前に必要なのは俺ではなく彼なのだから)
 そんなことはない……いつだってダグラスのことを想ってきた。片時も忘れたことなどなかったのに。でも耳に馴染むあの声に惹かれるのも事実だった。
(誰? 私を呼ぶのは誰なの?)
 ダグラスがヘネラリーフェの背をそっと押した。懐かしい手の感触にヘネラリーフェが振り返った時には、もう彼の姿はなかった。
(ありがとう……幸せに、リーフェ……)
 そんな言葉だけを残して。
(お義兄さま……ダグ!!)
 辺りを探し回るヘネラリーフェの前に忽然と人が現れた。
 よく知っているような知らないような……少年の姿をしたその人の眼差しがヘネラリーフェを優しく包み込んでいる。不安は霧散した。
(おいでよ……僕も寂しかったんだ。一緒に行こうよ) 
 差し出された手を躊躇うことなくとる。
 手を繋いで歩き出した二人の視線の先に光が見えた。それは徐々に大きく明るくなっていき、ついには眼を開けていることさえもできないほど眩しいものになっていく。少年が足を止めて囁いた。
(先に行って)
 ヘネラリーフェは首を振った。先に行って後ろを振り返ったとき先刻のダグラスのように少年が消えていたら……それが無性に心配だったのだ。しかし少年は笑った。なんの心配もいらないよとでも言っているような、それは明るく清々しい笑顔であった。
(大丈夫、僕も行くから。必ずあっちで逢おうね)
 そう言ってヘネラリーフェの背中を押す。光の中に歩み出そうとするヘネラリーフェが今一度振り返ったその時、やっと彼女は少年の瞳が左右色違いなことに気付いた。
 蒼天の蒼と宙の闇の黒……
(貴方は……)
 言葉が声になる前に、ヘネラリーフェの意識が光の中に吸い込まれる。
(待っている)
 最後に、低く響く艶のある声がそう呟いたような気がした。
「リーフェ……」
 低く響く艶のある声……耳に馴染むよく知ったその声に堕ちかけたヘネラリーフェの意識が浮上した。瞼が重く、開くのに渾身の力を必要とする。だが、ヘネラリーフェはゆっくりと眼を開いた。霞む視線の先の見慣れた金銀妖瞳に安堵の色が見て取れる。
「気が付いたか?」
 だがその呼びかけにヘネラリーフェは虚ろな眼差しで応えただけだった。
「ダグに逢ったわ……小さな貴方にも……」
(どうして放っておいてくれなかったの?) 
 ダグや小さなロイエンタールに逢えたことは嬉しい。だが、あのまま闇の安寧に抱かれていたかった。
 小さな呟きを残した後、ヘネラリーフェの意識が眠りへと堕ちていく。結果的に死魔の甘い誘惑からヘネラリーフェは救われたことになる。だが、それを本人が望んだかどうかはまた別問題であった。

「ブラウシュタット中将の様態は?」
 ヤンの問いにシェーンコップは無言で首を振った。あまり芳しくない……そう判断するのはヤンにもそう難しいことではない。ヘネラリーフェの様態が快方に向かわない原因には多すぎた出血があった。あれほど医者に注意されていたというのに。
 骨髄性再生不良性貧血……怪我は厳禁。出血し始めたら最後、下手をすれば死に至るとあれほど言われていたのに彼女は戦場に赴いた。一種の自殺行為である。ロイエンタールに殺されるまでもなく、彼女自身で命を縮めていたのだ。
「自殺行為か……」
 思い当たることがありすぎた。出撃する直前ヤンが刺した釘は、まったくもって役にたたなかったらしい。
「どこまで自分を苛めれば気が済むのか……」
 シェーンコップが呟く。
 出血が多すぎたことだけが原因でないことは明らかだった。ヘネラリーフェは自ら生きることを放棄しているのだ。どんなに医療が発達し、即死さえ免れれば助かる確率が格段に高くなるこの時代でも、だがどうにも助けられない人間がいる。それは生きる気力を無くした者だ。
「死ぬな……無茶をするな……そう言うだけじゃ彼女はこちらの世界に戻ってきてくれないみたいだね」
 一度死の誘惑に捕らわれてしまった人間を呼び戻すことは難しい。ヘネラリーフェがヤンを攻撃したことに対して彼自身は微塵も凝りを残していなかった。だが彼女はそうではないのだ。
「あれは仕方なかった。いや、逆に彼女に感謝しているよ。ああでもしなければビュコック提督の命が永遠に失われるところだったのだからね」
 そんなヤンの本心を伝えてさえこの始末だ。ここまでくると残る手段は……
「彼女の義務心に訴えるしかないかな、これは」
 嫌な手だ。無理矢理ヘネラリーフェに生きることを強要することになるのだ。かつてロイエンタールが服従を、そしてラインハルト・フォン=ローエングラムが従軍を強要したことと何等変わることはない卑劣な手段だ。それでも……
「でも私にはまだ彼女が必要だからね」
「それはここにいる全員が同じ気持ちでしょうな。無論小官もです」
 シェーンコップが笑いながら言った。
 その日、ヤン=ウェンリーがヘネラリーフェの病室に顔を覗かせ、暫し二人きりの時間を過ごしたのだった。

 

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