第八章
五 錯綜
いつまでもこの地下室に閉じ込められたまま大人しくしているわけにいはいかなかった。
一刻も早く脱出しなければ……ミッターマイヤーを信じていたが、だが彼だけに任せておくわけにもいかない。自分で動ける部分は自分で動かなくては……
「じゃ、サクサクっとずらかりましょう」
ロイエンタールの考えにサラッと、だがとても艦隊司令官のものとも思えないような言葉使いでヘネラリーフェは言い放った。
だがどうやって? という疑問はすぐに解消された。琥珀色の長い髪が顔に落ちかからない程度に纏めるために使用していたヘアピンを取り出したのだ。
「それで開けられるのか?」
思わず言ってしまったロイエンタールをヘネラリーフェは仰天するような台詞で黙らせる。
「補導歴三回を甘く見ないで」
補導歴って一体……少しはわかりかけたように思っていたヘネラリーフェは益々わからなくなりそうだった。
「ある意味貴族の屋敷ってアナログなのよね」
フンフンとまるで鼻歌でも歌い出しそうな風情でヘネラリーフェは固く閉ざされている扉に向かう。
とは言え、やはり思い通りに動いてくれない躰に閉口してか少々手付きはおぼつかない。撃たれた傷からの出血も影響を与えていた。
そんな彼女の躰を、己自身も出血による倦怠感を訴えながらもロイエンタールが背後から支えた。まるで後ろから抱き竦められているような感触……首筋に感じるロイエンタールの熱い吐息にヘネラリーフェは僅かに首を竦めた。
「聞いていいか?」
沈黙に耐えかねロイエンタールが声を掛ける。その方がヘネラリーフェも安心するだろうと思ったこともあった。
「何?」
「補導歴って……何したんだ?」
「う~~ん、暴行未遂ってとこかしら。一二歳くらいの時にね」
喧嘩でもしたのだろうか……?
「えっと、嫌がる女の子に絡んでたおっさんをボコボコにしちゃったの」
ボコボコって……有り余るエネルギーを持て余して軍人にでもなったのだろうかと邪推してしまいそうなエピソードである。まあ当たらずとも遠からじ……そんなところだろうか。
「嫌いなの……」
ポツリとヘネラリーフェが呟いた。静かで、だが強い口調にロイエンタールはただ黙って彼女の口が再び開かれるまで待った。
「嫌いなの。強い者には諂うくせに弱い者を踏みつける奴が」
だろうな……ロイエンタールはそう思った。イゼルローンでヘネラリーフェの艦隊と対峙したときの彼女を思いだした。
いくら上官とは言え、赤の他人を自らの身と命を犠牲にしてまで守ろうなどと思える人間がいるということがそもそも信じられなかった。
だが、ヘネラリーフェとはそういう人間なのだ。弱い者を見捨てられない……だから逆に部下も彼女を見捨てない。
きっと同盟にはそんな彼女を慕う友人や先輩も多いのだろうなと思うと僅かながらも羨ましさを感じた。
ただ、ロイエンタールにはミッターマイヤーがいる。ひとりでもそういう人間を得ているならヘネラリーフェを羨む必要はない。
「しかし補導とは穏やかでないな」
好きで捕まったわけではない。そもそも非行に走っていたわけではないのだ。
確かにハイネセンに連れて行かれてすぐは、義父母にも義兄にも素直に心を開けなかった。父を目の前で亡くしたショックが尾を引いているということもあったが、なによりも一〇年間自分を培ってきた環境からはあまりにかけ離れた世界に精神がついていかなかったのだ。
今のヘネラリーフェからは到底想像できないことだが、だが確かにあの頃彼女は孤独だった。
本当は好きで甘えたいのに、なかなかそれを実行に移せない。お父さん、お母さんというその一言を伝えるのにどれほどの時間を必要としたことか。だから苛ついていた。義理とは言え自分を慈しんでくれる新しい家族からの愛情に応えられない自分に……
「そんなときに絡まれてる女の子を見ちゃったものだから、ついね」
飄々と話してはいるが、僅か一〇歳の子供が全く知らない新しい世界にたったひとりで放り出されたとしたら、それはとてつもなく心細くて寂しくて哀しい出来事だろう。そしてそれはヘネラリーフェは今置かれている状況にどこか酷似していた。
子供だったということも災いしていたのだろう。自分の気持ちの持っていき場がなく、それを弱者を踏みつける輩にぶつけてたとしても誰に責められるだろうかとも思う。
「一発でも義父がはり倒してくれれば、三流テレビドラマのように義父の胸に抱きつけるかもしれないなぁんて考えたこともあったんだけどね」
だが、そうする前にビュコックの方がヘネラリーフェを強く抱き締めた。警官は甘やかしては困ると苦々しく思っただろう。だが、ビュコックはヘネラリーフェの精神状態を恐らく既に亡き肉親以上に把握していたのではないのだろうか?
だから叱るのではなく抱き締めた。それは義母であるビュコック夫人もそうで、そしてダグラスは、週末に大きな大きな、ヘネラリーフェよりも大きなぬいぐるみを抱えて帰ってきたのだ。
この時から彼女の故郷はハイネセンになった。友人を作り、就職(?)して、そして……
彼女の真の意味での故郷はこのオーディンである。だが、彼女はそれを受け入れてはいない。その意味をロイエンタールは噛み締めた。
ヘアピンと格闘すること数十分。身体の自由が利かないということを考慮しても十分に早いと思われる時間でロックが外れる音がした。
「補導理由は暴行だけか?」
思わず問い掛け思いっ切り後悔した。肘で脇腹を力一杯小突かれたのだ。痛みに顔をしかめながらもどこか慣れ親しんでくれたようなヘネラリーフェの態度にロイエンタールは喉の奥で笑った。
扉を細く開け辺りを伺う。見張りがいない代わりに二人の鼻孔を焦げ臭いような香りが掠めた。
「火をつけられたみたい」
「そのようだな」
声自体は落ち着き払っているものの、内心は少々焦っていた。早く脱出しなければリートベルクの目論み通りに仲良く心中状態だ。そこまで彼にサービスする気も義理も理由もない。
だが問題は互いに負傷しているということであった。 ロイエンタールは腕と足を、ヘネラリーフェは怪我自体は腕だけだが、薬物投与のせいでまともに立っていられない状態だ。不調で全身が悲鳴をあげていた。
「お前だけでも逃げろ」
このままでは二人で自滅だ。だがヘネラリーフェはその言葉を拒絶した。
「嫌よ」
そんなやりとりが何度か交わされた。座っているだけでも崩れ落ちてしまいそうなくらいの倦怠感に襲われているというのに、この上ひとりで立って逃げろなど無茶の極みだ。
「立って」
唐突にヘネラリーフェが言った。
どんな人間であれ彼女が、怪我人を、しかも一応は自分を助けるためにここに来たという男を置き去りにしていける筈がなかった。
ヘネラリーフェがもう一度スカートを破いた包帯でロイエンタールの傷口を強く縛る。二重の止血帯がロイエンタールの出血を少しでも押さえてくれればと思ったのだ。
立ち上がったロイエンタールの左側に立つと彼の背中に腕を回し自分の躰に寄りかからせて支える。
自白剤のお陰で全身の感覚が麻痺して些か動きにくいものの、痛みは感じられない。それをいいことにロイエンタールを支えたまま足を踏み出そうとしたが、さすがにロイエンタールの重みに耐えかねヘネラリーフェの華奢な躰がグラリと揺れた。
「無茶だ。お前に俺を支えられる筈がなかろう? そもそもお前は俺のことが嫌いなんだろう? だったら俺のことなど放っておけばいいだろうが!?」
ロイエンタールがヘネラリーフェから離れようとした。
「う、五月蠅い!! あんたの為なんかじゃないわ。私は正義の味方なんかじゃない……自分がこうしたいからするの!! ゴチャゴチャ言うなら少しは負担を軽減できるように協力しなさいよ!!」
一喝される。結局ロイエンタールはヘネラリーフェに逆らうべき言葉をみつけられなかった。そうこうするうちに辺りに煙が充満し始め一刻の猶予もないことを思い知らされる。
「壁伝いに行け。そうすれば俺も自分の身体を支えられる」
ヘネラリーフェは頷くと足を引きずるようにして地下室を出、そして壁伝いに歩き出した。
ロイエンタールを支えることで躰に力が入り、それによって銃傷から鮮血が溢れ出す。それは見た目にもロイエンタール以上に多い出血だった。
歩いていく路にそってヘネラリーフェの肩から滴り落ちた血が点々と染みを作っている。薬物によってありとあらゆる感覚が麻痺させられているのだろう。遠近感も朧気でそれが浮遊感を益々増長させる。
何度も立ち止まり、壁に凭れるようにしてグッタリと顔を俯かせて不快感をやり過ごそうとした。背中に脂汗が伝う。
ともすれば崩れ落ちそうになる躰と精神を鼓舞しながらヘネラリーフェはようやく階段に辿り着いた。
「なんか言いなさいよ」
突如ヘネラリーフェが言った言葉の意味を計りかね、ロイエンタールは絶句した。
「黙って歩いてると座り込んじゃいそう。なんか話して」
と言われてもこんな時に何を話せばいいと言うのだろう? そもそもロイエンタールは自分から話題を提供するタイプの男ではないのだ。大抵の場合聞き役にまわっている彼が、話せと言われて「では」とはとてもいかない。
「お前のことを聞いてもいいか?」
これ以上何を聞きたいの? とヘネラリーフェはロイエンタールに顔を向けると首を傾げる。その仕草がヤケに可愛らしく見え彼は狼狽えた。
(こんな時に何考えているんだ、俺は)
こういうときだからだろう? ミッターマイヤーならそう言ったかもしれない。命ギリギリのところにいるからこそ自分の心に嘘を付けないのだと……
階段を昇りきったところでヘネラリーフェは荒い息を整えた。すぐに息が切れてしまうことに体力の低下を思い知らされる。
「リートベルクはお前に何を言わせようとした?」
ヘネラリーフェの動きが一瞬凍り付いたように止まった。
いきなり事件の核心に迫るような問い掛けに、果たして彼女は答えてくれるのか? ヘネラリーフェは逡巡しているようだった。
長い沈黙の後、ヘネラリーフェの凛とした声がロイエンタールの耳に流れ込んだ。
拒絶の言葉ではない、だが承諾の言葉でもなかった。
「巻き込んでしまったことは申し訳ないと思っているけど、少しだけ待ってほしいの」
巻き込んだ……その言葉に、やはりリートベルクの真の目的はヘネラリーフェだったのだと確信できた。
今回の事件に巻き込まれたとは正直ロイエンタールは思っていない。どちらかと言えば巻き込んでしまった方だろう。ロイエンタールが人並み以上に他人から反感を買う人間でなければこんな事件は起きなかったのかもしれないのだ。
リートベルクがロイエンタールの弱味を掴むべく現れた彼の屋敷にたまたまヘネラリーフェがいただけ。確かに彼女の存在故に事態は思わぬ方向に動きだしてしまったが、だがこれは不幸な偶然だ。
「ケリをつけるまで待って。そしたら全て話すから」
待つことしかロイエンタールにはできそうになかった。