top of page

             わたしはもうこれからは
             さまよい歩くこともなく
             わたしの心はいつまでも
             やさしい思い出に包まれる

          『わたしのただ一つの願い』エミネスク

 

第二章

一 夜のニュクス


 宇宙歴七九六年のアスターテ星域会戦は同盟軍の惨敗で幕を閉じた。
 出撃した人員は四〇六万五九〇〇名、艦艇はおよそ四万隻余。そのうち戦死者は一五〇万八九〇〇名、喪失あるいは大破した艦艇は二万二六〇〇隻余。同盟軍の喪失は帝国軍の一〇倍から一一倍に達した。

 ハイネセン宇宙港では、それぞれ家族や恋人と生きて帰れた喜びを噛みしめている姿がいたるところで見られる。その中にヘネラリーフェの姿があった。
 絶体絶命の激戦で運良く生き残れたとあってはさすがに疲労が隠せない。死んでいった者達のことを考えると手放しに帰還を喜ぶには少々良心が痛むのだが、やはり肉親の顔を見ると張り詰めていたものが緩みだす。
「お義父さん」
 それだけ呟いただけでヘネラリーフェはビュコックに抱きついた。
「おかえり、無事で何よりじゃな」
 ビュコックの言葉にも万感の想いが込められている。第六艦隊絶望という戦況を聞いたときから、今回ばかりはさすがにヘネラリーフェを失うことを覚悟していたのだ。息子の二の舞だけは避けたかったが、今回はビュコックの第五艦隊に出撃命令は下されておらず、ヘネラリーフェの身を地上でただただ案ずることしかできなかった。
 民間人ならともかく彼の立場では戦況の情報も詳しく知らされる。知りたくもない情報でもだ。それだけに、彼女の無事の帰還は彼を心底安堵させたのである。
「疲れたじゃろう? 母さんも待っておるぞ」
 ヘネラリーフェの肩を軽く叩くと、宇宙港の出口へと向かう。
「ビュコック提督」
 ビュコックとヘネラリーフェの動きはその呼びかけによって阻まれた。声の方に顔を向けると……
「アッテンボロー先輩」
 ヘネラリーフェの目が和らいだ。彼が第二艦隊に配属され今回も出撃していることは知っていた。が、無事を確かめようにも自分の所属する第六艦隊は壊滅状態であり、他人のことを考えている余裕などなかったのである。とにかく一人でも多くの生存者を助けるという任務が戦闘が終了した後の大問題であった。
 第六艦隊司令官ムーア中将はけして無能な司令官ではなかった。無能ではここまで生き残れなかった筈であるし、中将まで出世するとも思えない。が、ローエングラム伯ラインハルトはそれ以上の人間だった。敗因は固定観念。因習にとらわれない若い人材に負けたのだ。
 それでも、彼の周囲には若くて優秀な幕僚がいた。彼の意見具申を聞いていればここまで悲惨な状況にはならなかったのかもしれない。
 結果的に旗艦は失われた。完全な全滅を免れたのはヘネラリーフェの上官フィッシャー准将の善戦によるものである。本人はそうは思っていないのだろうが、フィッシャーの善戦の陰にはヘネラリーフェの善戦もあった。
「無事で何よりだったな、リーフェ」
「先輩も」
 互いに生還を喜び合う。
「聞いたぞ。あの激戦の中で生き残っただけでも驚嘆ものなのに、随分功績をあげたそうだな」
 ただでさえ全滅に近い状態である。味方の犠牲を無にしないためにも、これ以上の艦艇の消失は許されなかった。いや、一人でも多くハイネセンへ連れて帰るのだ。その一身でヘネラリーフェはフィッシャーと共に防戦したのだ。
「必死だったんで、実は自分が何をしてたか覚えてないんです」
 必死で戦っても負けるときは負ける。それがこうして生き残っているのだ。運の良さだけでは説明できないものがあるとアッテンボローは思った。運も才能のうちなのか、才能があるから生き残るのか。
 だが、実のところその手のことはアッテンボロー自身今回の戦闘で目の当たりにしたことでもある。ヤン=ウェンリーあればこそ、第二艦隊の損失は少なくて済んだ。勝ちはしなかったが負けもしなかったのである。まさしく魔術師、奇跡のヤンである。そんなヤンに通じるものがヘネラリーフェにはある。この時アッテンボローはそう確信していた。
 そもそも、これまで何度か参戦している彼女は、出撃する度に異例の昇進を遂げている。若干二十歳のしかも女性でありながら既に中佐という階級は、アッテンボローどころかヤンよりも出世が早いくらいだろう。つまりそれだけ武勲をたてたということであり、事実彼女はヤン同様負け知らずであった。
 同盟軍自体は敗軍でも彼女の率いる部隊はなぜか生還率が良いのである。確かに彼女の直属の上官であるフィッシャーの力も大きいし、彼が部下にとって能力を発揮できる上官であることも周知の事実である。だが、それだけではないことも公然の事実なのだ。
「身内でも有名だが、恐らく敵さんにも名が売れただろうよ」
 からかいを秘めた口調で言うものの、アッテンボローのその言葉はあながち冗談でもない。ヘネラリーフェの所属する第六艦隊は勿論、第四・そして第二艦隊、それどころか同盟軍全軍で彼女に対してあるひとつの呼び名が確立されつつあったのだ。 
『闇のニュクス』
 遙か昔の神々の伝説。すべての創造のはじまり『カオス(混沌)』の子であり、夜の女神。そして、災いの六神の母でもある女神の名である。
 戦闘中にヘネラリーフェがどんな指揮をしていたのか、そしてどんな様相だったのかは同じ艦にでも乗艦していなければわからない。だが苛烈で華麗で爛火のごとく光り輝く姿を見せつけていたのだろう。そしてそれは、どんな女神よりも恐ろしく美しい麗姿であり、味方には頼もしくあるものの敵にとっては災い以外の何物でもなかったに違いない。
「ふむ、これは形勢逆転じゃな。どうやらリーフェの父親ということで儂は有名になれそうじゃな」
 横からビュコックがジョークを飛ばす。
 やめてよ~~とでも言いたげにヘネラリーフェは苦笑しながら溜息をついたが、結局三人共笑いの渦に取り込まれていった。
「ところで今回の最大の功労者はどうした?」
 ビュコックの言っているのがヤンのことであるのは一目瞭然である。
「上手い紅茶が飲みたいからとさっさと帰りましたよ」
「ヤンらしいな」
 ビュコックとアッテンボローの会話にヘネラリーフェは首を傾げながら聞き入っていた。
『魔術師ヤン』『奇跡のヤン』
 今回の戦闘でかろうじて『負けない』戦いをした司令官代理とは、いったいどういう人間なのであろうか? 紅茶飲みたさにさっさと帰るというところが、そもそも軍人らしくないように思える。まあ、ヘネラリーフェがヤンの立場だったらと考えれば特に不思議でもないのだが。少なくとも英雄とまつりあげられ、囲まれ、モミクチャにされ、更に勝手な人間像を作られることを思えば賢明な判断である。
「ね、先輩。ヤン准将ってどんな人?」
 好奇心がムクムクと涌き上がってくる。が、質問された方は答えに窮した。
「軍人らしくない人。外見も、そして中身も」
 アッテンボローはそう答えるだけにとどめた。あとは自分の目で確かめるのが一番さと付け加えて。
 あまりに漠然としている答えに困惑したヘネラリーフェは同じことをビュコックにも訪ねたが返事はアッテンボローと同じであった。
 結局わけがわからないままその日は帰宅し、久しぶりに穏やかで賑やかな家族団らんを過ごしたのであった。勿論、その家族団欒に独身貴族を気取るアッテンボローがちゃっかり混ざっていたことは言うまでもない。
 後日、アスターテ会戦での功績が認められヘネラリーフェに大佐への昇進が言い渡された。同様にアッテンボローは准将に、ヤンは少将へとそれぞれ昇進を果たした。

 

bottom of page