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第十一章

六 愛の中へ


 忙しい合間を縫って、殆ど毎日のようにロイエンタールはヘネラリーフェの病室に見舞いに来ていた。自分を責め続ける日々……そんなロイエンタールにヘネラリーフェは言った。
「私の好きなようにしただけだから、あんたが気に病む必要はないわ」
 だが、心の中ではヤンの言葉がグルグルと駆け巡っている。そしてそれはロイエンタールの一言によって更に掻き乱されることになった。
「明後日、帝都に発つ。お前のことは忘れない……これまで済まなかった」
 思わず反論していた。これで永久に嫌いな男の顔を見なくても済む……そう本気で考えた筈なのに、なのに口からは違う言葉が放たれた。
「忘れない……忘れないですって? 愛している、好きだって言いながら、何故ひとりにして置いていくの? 忘れないなんて言わずにハッキリ一緒に来いって言ってくれれば良いじゃない!」
 それともいっそ嫌いだとでも言われた方が余程スッキリする。このまま想い出だけ残して去って行かれてはたまらない。態度と言葉が裏腹だった。支離滅裂な言葉に自分自身でわけがわからなくなったヘネラリーフェは泣きじゃくり始める。
「もう帰って! 大嫌い、顔も見たくないわっ!!」
 思わず枕を投げつけそうになったが、傷がズキンと痛んだことでそれだけは踏みとどまった。
「……幸せに……」
 ロイエンタールはそれだけ言うと、最後にヘネラリーフェの頬に軽く口付けて踵を返して彼女の前から立ち去ったのだった。入れ替わりに病室に入って来たのはシェーンコップだった。というより、実は一部始終をドアの前で聞いていたのだ。
 相変わらずお嬢ちゃんは……そんな苦笑が漏れたが、ロイエンタールと顔を合わせた時にはそんな表情は欠片も残していなかった。敵に塩を贈るつもりなど彼には毛頭ないのだ。が、これがヘネラリーフェに対するとまたコロリと変わってしまうのだから、彼も案外甘い人間なのかもしれない。
「よお、お嬢ちゃん。具合はどうだ?」
 シェーンコップに涙を見られるのは何度目だろう? 一々数えてなどいないが、もうバツの悪い顔をするのも面倒になっているくらいだから、何度も見られていることだけは確かだろう。涙を湛えたまま、だがキツイ眼差しでヘネラリーフェはシェーンコップを見やった。
「まだ痛みます」
 突っかかるような言い方にシェーンコップがクスクスと忍び笑いを洩らす。素直な返事が返ってくることなどないとわかっているのに、こうしてヘネラリーフェをからかうのがシェーンコップのイゼルローン以来の日課なのだ。
「いい加減に素直になれよ」
 不意に真剣な表情が向けられる。無意識とは言え、いや、無意識だからこそ、ロイエンタールを庇った行動がヘネラリーフェの気持ちを顕著に現しているのではないのか? シャーンコップはそう言ってヘネラリーフェの琥珀色の柔らかな髪を掻き乱した。
 わかっている……ヤンに言われてからずっとそのことを考えていた。自分の気持ちほどわからないものはない。だが、離れたことで見えてくる想いもある……
「でも中将、私まだ自分の心がよくわからない……嫌いじゃないと思う。でも、本当にロイエンタールを愛しているとは私どうしても……」
 ただ、あのやり切れない目を見ていると放っておけない気になるのだ。
「理由としてはそれで十分だな」
 人が人に惹かれるときなんて、案外そんなものだ。
「もう、いい加減自分を許してやったらどうだ?」
 シェーンコップの言葉にヘネラリーフェはハッとしたように彼を見た。自分を許す? そうだ、確かにヘネラリーフェはロイエンタールを憎む以前に自分を憎んでいたのかもしれない。ダグを忘れ他人を愛する自分を、あろうことか敵将に惹かれる自分を、そして汚された自分を……そうやって自分の心を解放してやれば、見えなかったものが見えてくる。
(私はロイエンタールを?)
 口に出して言ったわけでもないヘネラリーフェの言葉をシェーンコップは悟ったようだった。
「だから、だからこそここにいちゃいけないんだろう?」
 一度離れて大きくて広いものを見渡した。今度は近付いて見つめる番なのかもしれない。そう……逃げるわけにはいかないのだ。自分への答え、ロイエンタールへの答え、それがわかるまで……自分が前を向いて生きていく為にも。

 ノックの音にロイエンタールはドアを開け、その瞬間固まった。そこには病院を抜け出したヘネラリーフェの姿があったのだ。ある筈もない来客にロイエンタールは驚愕した。
「どうした、出歩いて大丈夫なのか?」
 躰を気遣いながらヘネラリーフェを部屋に迎え入れソファに落ち着かせると、素っ気なく問い掛ける。
「色々な人に色々な事を言われたわ」
 暫しの沈黙の後、ヘネラリーフェがそう切り出した。
「私があんたのことを好きなんじゃないかとかね」
「…………」
 ロイエンタールが目を見開く姿に軽く忍び笑いを洩らしながら、ヘネラリーフェは言葉を続けた。
「私ね、自分の気持ちがまだハッキリとわからないの。ただ、病院で最後に貴方に言った言葉に嘘はないと、それだけは確信しているわ」
 好きなら置いていかずに連れて行け……できるものならそうしたいと、ロイエンタール自身どれだけ願ったかわからない言葉だ。
「そして、貴方を殺すことも諦められないと思う」
 自分の想いがハッキリしない以上、一度決めた決意を覆すことはできない。確かにロイエンタールへの憎しみも無くなったわけではないのだ。
「俺はお前以外の人間に殺されるつもりはない」
 つまり、まだ殺してもらう気だということなのだろうか? だが、それには常に傍にいなくてはならない。このまま離れれば殺すことも殺されることもできはしないのだ。だが、殺し殺されるために互いの傍にいるとはなんという不器用な関係だろう……ヘネラリーフェは微かな溜息を吐いた。シェーンコップの言うように、素直でないのも困りものかもしれない。
「私は……私は人に従属することの心地よさを知ってしまった。だから貴方には責任がある。私の全てを、自尊心さえも奪った責任がね」
 この期に及んでまだこんなことを言っている。一体自分はロイエンタールに何を言わせたいのだろうか? いや、簡単なことだ。言って欲しいのはたった一言……ロイエンタールはそれに気付いた。ヘネラリーフェが自分に何を言わせたいのかを……逡巡しながら、彼はそれを言葉として紡いだ。今起こっていることが信じられないという想いと、何処か喜びを噛みしめる心とを自分自身の中でない交ぜにしながら……
「命令だ……俺と一緒に来い、リーフェ」
 それこそ、ヘネラリーフェが望んでいた言葉だった。そして、それがロイエンタールからヘネラリーフェへの最期の命令である。少なくとも、ロイエンタールはそう決意していた。二度と束縛はしないと……
 それは宇宙歴七九九年、帝国歴四九〇年の五月も終わりに近い頃のことだった。

 

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