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第十三章

六 ENDLESS LOVE


 このまま……ロイエンタールに貫かれた瞬間、ヘネラリーフェは虚ろな意識の中で願った。このままずっと、ひとつに結ばれたままでいられたら良いのに……と。
 自分で決めたハイネセン行きだった。今でもそのつもりだし、後悔もしていない。だが、それでも意地を張ることなくロイエンタールに全てを委ねられるようになったこの幸福を手放さねばならぬことに些かの戸惑いと心細さはあった。
 熱い……躰が溶けそうだ……薄れゆく意識の中でヘネラリーフェは思った。守られ、抱き締められることがこんなに心地良かったとは……
(このまま溶けあってひとつになってしまいたい)
「…………いようか」
 声にならない叫びを聞き取ったのだろうか? ロイエンタールが何か囁いた。朦朧としていた意識が引き戻されヘネラリーフェは閉じられていた青緑色の瞳をゆっくりと開いた。 
 蒼天の蒼と闇の黒、ヘネラリーフェを見下ろす二色の瞳の中で蒼海を思わせる青緑色の瞳がさざめいている。彼の口唇が微かに動いた。
「このまま……このまま、朝までひとつでいようか?」
 返事は言葉にならなかった。ただ、ロイエンタールの首に腕を回してきつく強く抱き締め、そして息もできぬほど強く抱き締められる。
 闇の深淵と安らぎの中で濡れた空間は清冽さを取り戻し、そして二人は抱き合い結ばれたまま束の間、ヒュプノスの腕に身を委ねたのだった。

 そして別れの朝が来た。
「くれぐれも無茶をしないように!! それからちゃんと病気も治すこと。良いね」
 ヤンが念を押す。彼女の無茶無謀ぶりが殆ど失われていないが故に、彼の心配も尽きないのだ。
「私ひとりならともかく、ビュコック提督もシェーンコップ中将も一緒ですから大丈夫ですよ」
 苦笑しながら、ヘネラリーフェはまるで他人事とも聞こえるような言葉を返事として紡いだ。
「ヤン提督も、お気をつけて」
 上官とその腹心の部下は、微笑みと敬礼を交わした。
 カイザーラインハルトとの会談に臨む為にフェザーンに赴くヤンに同行する者、混乱を沈め新しく生まれ変わる自由惑星同盟の基盤を築く為にハイネセンに赴く者、そしてイゼルローンの留守部隊は、それぞれの想いを秘め暫しの別れを惜しむ。
 そして……
「メインポートまで一緒に行こ」
 湿っぽいのは苦手……極力明るい口調でそう誘うヘネラリーフェの言葉にロイエンタールは無言で頷いた。
 人間の大きさを思えば巨大と言える戦艦の船体が見え始める。あと僅かで……並んで歩いていた二人の距離が徐々に狭まり、いつしか肩を寄せ合うようにして歩いていた。
 メインポートは慌ただしく人が行き来し喧噪で覆われている。だがそれは出撃するときの緊張を孕んだものとは違い、どこか和やかなムードに満ち溢れていた。
「じゃあね」
「ああ」
 向き合った二人は手を差し出し、互いにそれを力一杯握り締める。不意に、ロイエンタールが握り締めたヘネラリーフェの手を強く引いた。バランスを崩したヘネラリーフェの躰がロイエンタールの胸に倒れ込む。
 腕の中に易々とおさまった彼女をありったけの想いを込めて抱き締めると、髪に、額に、頬に、そして耳元にそっと口付けていった。熱い吐息がヘネラリーフェをくすぐる。思わず首を竦めた。
「ロイエンタール……」
 狼狽えたようなその声に、だがロイエンタールは苦笑した。やはり夕べのことは記憶にないらしい。
「いい加減ロイエンタールは勘弁してほしいな」
 昨夜のことは泡沫の夢でもかまわないのかもしれない。だが、最後にヘネラリーフェの口から聞きたい言葉でもあった。自分の名をあの優しく響く柔らかなアルトの旋律で呼んでほしいのだ。
 ロイエンタールの言葉にヘネラリーフェが僅かに赤面した。そういえば敵将帥であるロイエンタールの呼び方に困り、かといって素直に敬称や階級付きで呼びかけるのはもっと嫌で、いつしか嫌味半分の呼び捨てで呼ぶようになったのがそのまま身に付いてしまっていたのだ。
 しかし今更という気恥ずかしさも確かにある。どうしたものかと幾分落ち着きを無くしながら顔をあげると、どこか悪戯っぽい笑みを湛えたロイエンタールの金銀妖瞳と正面から視線がぶつかった。
「あ~~~ からかったのね!」
 クスクスと忍び笑いを洩らしながらロイエンタールがヘネラリーフェの髪をクシャリと掻き乱す。その手が止まったかと思うと頬にそっと触れられた。優しい眼差しがヘネラリーフェを包み込んでいる。
「身体に気を付けてな」
 真摯な金銀妖瞳に魅せられたかのように動けなくなったヘネラリーフェの口唇に身を屈めて掠めるような口付けを残すと指で名残惜し気にそっとなぞる。そしてロイエンタールは意を決したようにケープを翻し立ち去ろうとした。
 キスの余韻から覚めた時ロイエンタールは既に背中を向けていた。何も考えず、ただ咄嗟に彼の名を呼んでいた。
「ロイエンタール!!」
 小さく叫んだ声にロイエンタールは足を止めた。ゆっくりとヘネラリーフェに振り返る。
 足が勝手に動き、彼に向かって走り出していた。まだ伝えていない言葉がある。伝えたくて、でも素直になれなくて……今伝えなければきっと一生後悔する。華奢な躰がロイエンタールの身体に走り寄って勢いよく抱きついた。
「ロイエンタール……ロイエンタール……」
 無愛想に見えて優しくて、冷たく見えて誰よりも暖かい……今は泣きたいくらいに大好きだ、この人が……言いたいことがあるのに言葉が出てこない。ただ呼び慣れた彼の名を繰り返し呟くだけ。そんなヘネラリーフェの背を撫でながらロイエンタールの方が先に口を開いた。
「待っているから……いつまでもお前を待っているから……」
「うん……元気になって必ず貴方の元に帰るわ」
 ヘネラリーフェはロイエンタールの肩にそっと手をかけると、伸び上がるようにして彼の右目にそっと口付けた。極上のベルベットのような感触のそれは、ヘネラリーフェのロイエンタールに対しての至上の想いが込められ、そして彼にだけに許された至福の刻である。
 唇が離れた。同時に謳うように囁かれた言葉がロイエンタールの耳に流れ込む。
「聞いて……一度しか言わない…………愛しているわ…………オスカー……」
 彼女は昨夜のことを覚えていたのだ。
 少しの気恥ずかしさと明るい笑顔を残してヘネラリーフェは身を翻すと、琥珀色の髪を靡かせてロイエンタールの元から歩みだした。
 愛している……ロイエンタールに向けられたヘネラリーフェの真っ直ぐで素直で確かな想い。最後に彼女にもらったその言葉は、ロイエンタールにとってヘネラリーフェから初めて贈られるものであった。
 ロイエンタールの視線の向こうに敬礼で迎える艦隊要員に答礼するヘネラリーフェの軍服姿がある。きびきびしているのに優雅なその姿がやけに眩しく感じられ、彼は眼を細めた。
(俺も愛している……)
 大丈夫……待っていられる。彼女は必ず帰ってくると言った。自分の元に帰ってくると……ヘネラリーフェが己の腕の中に戻ってくるまでの時間を今なら、ヘネラリーフェに愛されていると確信している今の自分ならきっと乗り越えられる。
 発進していく同盟軍艦隊を見送りながら心の中でヘネラリーフェにそんな言葉を贈り、ロイエンタールもまた帝都フェザーンへと帰還していった。
 
 銀河の長きに渡る戦乱は二人の英雄によって幕を降ろされた。時に宇宙歴八〇一年(新帝国歴〇〇三年)六月のことである。

 

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