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一 春の沫雪
 

 星もない漆黒の闇の中、どこからともなく匂う香りにロイエンタールは足を止めた。香りに惹きつけられるように歩を進ませる。と……
「梅か」
 闇の中で、紅を秘めた白梅の花が満開に咲き誇っている。白く浮かび上がるその姿に暫し目を奪われる。
 一陣の風が吹き抜けその冷たさにふと我に返った彼は、今度こそ家路につきながら機会があれば次はヘネラリーフェとこの梅を愛でたいと考えていたのだった。

 私邸に帰り着いたのはそろそろ日付けも変わろうかという時刻であった。屋敷で待つ愛しい人は当然のことながら既にヒュプノスの腕に抱かれているであろうと思っていたロイエンタールを出迎えたのは、眠っているとばかり思っていたその最愛の人である。
「まだ起きていたのか?」
 いや、ロイエンタールの帰宅時間に眠っていることの方が、実は稀なのである。例えベッドの中にいたとしても、そして夢現であったとしても、ヘネラリーフェがロイエンタールの帰宅を迎えない日はないのだ。
「ちょっと来て」
 それでも、いつもいつも帰宅が遅いロイエンタールに合わせた生活というのは、実は結構キツイものでもある。それ故、起きて待ってはいるもののいつものヘネラリーフェならとにかく眠気に必死で抗っている様相で出迎えてくれるのだが、今夜はどうやらいつもとは違うようだ。
 嬉々とした表情で、まるでじゃれるようにロイエンタールの腕に自らのそれを絡めると、軍服の襟を緩める間も与えず彼を庭へと引っ張って行く。
「???」
 わけがわからないまま、だがヘネラリーフェに引きずられるがままに庭の最奥まで行くと、ふと鼻孔を香しい芳香がくすぐった。
「見て」
 やっと歩みを止めたヘネラリーフェの華奢な指がさした先には、闇の中に鮮やかに浮かび上がる紅を秘めた白梅の花がある。庭の隅に一本だけささやかにあるだけのそれは、だが圧倒的な存在感だ。
「このお庭に梅があるなんて、今日の今日まで知らなかったわ」
 それはロイエンタールも同じである。オーディンの本宅もそうだが、庭にどんな木が植えてあるかなど、まったく関知していないし興味もない。フェザーンのこの屋敷の庭にしても、梅があるなんて今の今まで知りもしなかった。
「よく見つけたな」
「これだけ強い香りがあるのよ、気付かない方がどうかしてるわ」
 今日の今日まで気付かなかったくせに、よく言うものである。が、逆に今の今まで気付かなかった人間に気付かせるほどの強い芳香を、このたった一本の梅の木が放っているということなのだ。それはある意味もの凄いエネルギーと言える。
「綺麗ね」
 視線は白梅に縫い止められたままでヘネラリーフェがポツリと呟いた。
「ああ……」
 応えながら、ロイエンタールはふと思った。梅はヘネラリーフェに似ていると……
 梅が咲くのは日照時間の変化を感じ取るからだと言われているが、それでも1年のうちで最も寒いこの時期に健気に花を咲かせる姿に惹き付けられない者などいないだろう。
 冴えた冬の冷気の中で可憐な花を凛と咲かせている姿が、そして闇の中でもそれとわかる強い芳香が、逆境の中でも艶やかに咲き誇るヘネラリーフェの姿に重なる。
「似てるな、お前に」
「?」
 言葉の意味を計りかねたような表情で振り返ったヘネラリーフェの肩を抱くと、もう一度囁く。
「お前は梅に似ている」
「またそういう気障なことを……」
 ヘネラリーフェが照れたように笑った。 
「そろそろ中に入るぞ」
 厳寒の風が一層冷たさを増し、ロイエンタールがヘネラリーフェの肩を抱いたまま屋敷の方へ誘おうと動きかける。
「あっ?」
 突如上がったヘネラリーフェの声につられるようにして漆黒の空を見上げたその時、はらはらと雪が舞い降りてきた。
「冷えると思ったら……名残雪ね」
 ヘネラリーフェが雪を指先で受け止めると、春の沫雪は彼女の体温に触れてたちまち溶けてなくなってしまった。その様子があまりに儚くて、ヘネラリーフェの表情に微かに憂いが過る。
「積もるかしら」
「どうかな」
 気を取り直したかのようなヘネラリーフェの問い掛けに応じる声はそっけないものの、彼女の華奢な肩に回された力強い腕は暖かい。
「いい加減に入るぞ、風邪を引く」
「はぁい」
 素直に応じて、ロイエンタールと共に屋敷の方へと歩き出しながら、だがヘネラリーフェはそっと背後の梅を振り返った。
(積もればいいのにな)
 そうすれば、真っ白な雪を抱く紅を秘めた白梅の姿が見られる。それはきっとさぞ幻想的で神秘的な姿に違いないだろう。
 ふと彼女の脳裏に、幼い頃ハイネセンの公園で見た満開に花をつけた梅の木の光景が蘇った。昔、よく家族で散歩がてら見に行ったあの梅達は、今どうなっているのだろうか……
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
 上の空になりかけたヘネラリーフェを疑問に思ったロイエンタールから投げかけられた言葉に何事もなかったかのような笑顔で応じながらも、彼女の意識は遠い故郷を彷徨い始めていた。

二 六花
 

 夜半過ぎ、窓外からの微かな物音に、ヘネラリーフェは目を覚ました。
 隣で眠るロイエンタールの寝顔を見て可憐な口元に一瞬笑みを浮かべると、彼の乱れた前髪を指で愛し気に撫で幸福の甘さを噛み締める。
 暫くそうしてロイエンタールの寝顔を眺めてから、彼を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、足音を忍ばせながら瀟洒なフランス窓に近付きカーテンの端をそっと持ち上げた。
「…………」
 眼前の光景に一瞬声を失う。眠っていた数時間の間に、辺りはすっかり雪に被われていたのだ。更に、月映えの中で雪が銀色に彩られ幽玄夢幻の世界を醸し出している。
 先程の物音は、垂雪だったのだ。
 ヘネラリーフェは薄い夜着のままで部屋を飛び出し階下へ、そして外ヘと走り出た。
 氷の月の光が煌々と降り注ぐ乳白色の闇の中、素足のまま一歩を踏み出すと新雪独特のキュッ軋むような音が微かに響く。その感触を噛み締めながら、ヘネラリーフェは庭の奥のあの白梅の木へと向かって行った。
 一方……ふと目覚めたロイエンタールは、隣にヘネラリーフェの姿がないことに気付き、咄嗟に半身を起こし彼の人の姿を探して淡い闇の中を見渡した。
 見渡した金銀妖瞳の視線の先に半開きのカーテンを認めると、彼はベッドを降り窓へと向かい何気なく外を見遣り、そこで表情を凍り付かせた。
 青白い寒月の光が煌々と降り注ぐ白い世界を、ヘネラリーフェが薄い夜着のまま、しかも素足で歩いているのが目に入ったのだ。
「リーフェ!?」
 彼女が一体何をしているのか、しようとしているのか、考える余裕もないままロイエンタールは慌てて外に飛び出した。
 春まだ浅いこの季節、夜はまだ冷える。ましてや、今夜は雪まで降る程の冷え込みなのだ。健常者でさえ薄着で、しかも素足で歩けば風邪を引きかねない中、体調がいまひとつ安定していないヘネラリーフェのこの行為はある意味危険さえ感じさせるものなのである。
 外に出た途端、ロイエンタールを冬の凍える冷気が包み込み、さしもの彼も一瞬首を竦めた。それでも雪に反射する銀光を頼りに目をこらすと、ヘネラリーフェの華奢な肢体が青白い闇の中に浮かび上がるのが見てとれる。
 咄嗟に走り寄って引き止め『この寒空に何をしているんだ!?』と怒鳴り付けたくなる衝動を辛うじて堪えると、彼は落ち着いた足取りでヘネラリーフェの後を付けた。
 どうやら彼女は庭の奥へと向かっているようである。行き先はおのずとロイエンタールにも予測できた。
「あの梅の木か……」
 確かに人を惹き付けずにはおかないものではある。だが、ヘネラリーフェがこれほどまでにこだわる理由がロイエンタールにはわからなかった。一体何が、この凍える夜に彼女を突き動かしているのか……それを見定める為に、彼は敢えて衝動を押さえながら彼女の後を付けることにしたのだ。
 ほどなくして、ヘネラリーフェは白梅の前に辿り着いた。思った通り、そこには雪を纏った梅が凛とした冷気の中で紅を秘めたまま健気に咲きながら、強い芳香を辺り一面に漂わせている。
「綺麗……」
 雪を纏った梅は冴えた月の光を受けて一層幻想的にその姿を浮かび上がらせている。その姿にヘネラリーフェは目を奪われた。そして、そんなヘネラリーフェの背後には、息を潜めて彼女を見つめるロイエンタールの姿がある。そこには、まるで刻が止まってしまったかのような静けさだけがあった。
 人の気配に敏感なヘネラリーフェが、いくら息を潜めているとは言え、すぐ後ろにいるロイエンタールに気付かないことに、彼は不安を抱いた。梅に心を奪われる彼女のどこか儚気な様子も気にかかる。
 その不安を肯定するかのように、まるで白梅の魔力に捕らえられたような危なげな足取りでヘネラリーフェが一歩を踏み出そうとするのが彼の左右色違いの目に入った。
「リーフェ!!」
 このまま、ただ見ているだけでいればヘネラリーフェが消えてしまいそうな焦燥感に襲われ、ロイエンタールは鋭く叫びながら咄嗟にヘネラリーフェの華奢な躯を抱き止めようと走り出た。
 足を踏み出した不安定な体勢のヘネラリーフェの細い腕を掴み、力一杯引き寄せる。
「きゃっ!?」
 体勢を崩したヘネラリーフェの口元から漏れる悲鳴などお構いなしに、ロイエンタールは彼女の躯を抱き締めたまま雪の上に倒れ込んだ。
 まるで激情が堰を切ったようなその行為は、だが彼女に衝撃を与えないように細心の注意を払いながらのものでもある。
「イタタ……って、ロイエンタールぅ?」
 倒れ込む時の衝撃を予測して思わず目を瞑ったヘネラリーフェが、皆無ではなかった痛みに少々顔を顰めながらもその青緑色の双眸を開くと、眼前にロイエンタールの金銀妖瞳があるばかりか、自分の躯がロイエンタールに抱き締められ、しかもその彼の身体を下敷きにしているという、なんだかわけのわからない事態になっていた。
 一瞬何が起こったのか理解に苦しみ、ヘネラリーフェがこれまでの状況には似つかわしくない素頓狂な声を上げる。
「ロイエンタールじゃない!! 一体どういうつもりだっ!?」
 さすがのロイエンタールも我慢の限界とでも言いたげについ声を荒げていた。
「どういうつもりって……」
 そう言われても困ってしまう。ヘネラリーフェにしてみれば、ただ雪の中で咲く梅が見たかっただけなのだ。どうやら、厳寒の夜半に薄着な上に素足で外に出たことに対しては微塵も悪びれた気持ちがないらしい。
「それなら夜が明けてからでも良かっただろう?」
 言いながら、ロイエンタールは深々と溜息を吐いた。
 真夜中、暗闇の中で目が覚めた時、隣にいる筈の人がいないという心細さを、ヘネラリーフェがわからない筈がないのに、今夜の彼女はどこか変である。
「ごめん……そこまで考えが及ばなかったわ」
 ただ見たかったからと、何も考えずに外に出る。ヘネラリーフェらしくもない思慮の欠片もない行動に、ロイエンタールは先程感じた不安感を一層募らせた。
 ロイエンタールは、勢いをつけてその身を横に半回転させると、ヘネラリーフェを下にして彼女の細い腕を雪の上に押し付け、尚且つ抗えないように華奢な躯に負担をかけない程度に自分の体重を掛ける。
「ロイ……?」
 いつになく真剣な眼差しで覗きこまれ、青い月を映した彼女の青緑色の瞳がさざ波のように揺れた。
「何を考えている?」
「何って……」
 戸惑うヘネラリーフェにロイエンタールが落ち着いた声音で再度問い掛ける。
「上の空で何を考えているんだ?」
 彼が帰宅して後、庭で一緒に梅を愛でてからのヘネラリーフェは、どこか心此所に在らずだった。恐らく自分自身では気付いてはいないのだろうが、ロイエンタールから見れば一目瞭然。
「…………」
「何か心配事でもあるのか? 気掛かりがあるなら俺に話せといつも言っているだろう?」
 それとも、俺には話せないか? 信じられないか?……強い眼差しで、だがヘネラリーフェ以上に不安気な光を色違いの双眸に揺蕩らせながら言葉を紡ぐロイエンタールにヘネラリーフェは咄嗟に声を上げた。
「違うわ!!」
 言ってしまった後で、しまったと口を噤んだ。どうやらロイエンタールの術中に嵌ってしまったと気付いたのだ。その証拠に彼の端麗な口元には微かに意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「……貴方って、狡い人ね」
 深々と溜息を吐きつつそう言うと、次の瞬間ヘネラリーフェは苦笑した。
 その笑みが、ロイエンタールの不安を消し去るに十分過ぎるものであったことは言うまでもない。

三 余寒
 

「別に心配事があるわけじゃないのよ」
 ただ、ちょっと故郷を思い出しただけの、いわゆるホームシックと言う奴なのだ……ヘネラリーフェはポツリポツリと話し始めた。
「ハイネセンの自宅の近くにね、梅の綺麗な公園があってね」
 毎年、梅の咲く季節になると散歩がてら家族でその公園によく通ったことが思い出される。
「ここの梅を見ていたら、なんだか思い出しちゃって。そろそろ見頃でしょうし」
 梅という言葉より、家族という言葉にロイエンタールの胸が軋んだ。
 思えば、ヘネラリーフェが彼の元に帰って来てからというもの、彼女は正にロイエンタールの独占状態だった。
 その間、どんなにロイエンタールの帰宅が遅くなろうと、彼女はいつも暖かく出迎えてくれ、意に沿わない宮廷での晩餐会や、その他同伴者が必要な公的な場にも文句ひとつ言わずにロイエンタールに従って出席してくれる。
 だが未だに根強く残る反民主主義思想の族や、未だに存在する高飛車な貴族、そして彼女を所詮捕虜上がりの娼婦まがいの女と偏見の目でみる軍人達から不等に扱われることは、多くはないとは言えだが少なからずある状態だ。
 そんな中で、愚痴のひとつも零さずにロイエンタールの側に寄り添ってくれるのは、ひとえにヘネラリーフェが彼のことを第一に考えているからだろう。だが……
(果たして俺は、リーフェが俺のことを最優先に想ってくれるように、彼女のことを考えているのだろうか?)
 そんな疑問が、ロイエンタールの中に漠然と浮かび上がった。
 家族と離れて寂しくない筈がない。特に彼女は生い立ちこそ悲哀に満ちたものだが、育った環境はごく普通の暖かな一般家庭そのものなのだ。
 今、ロイエンタールの傍らなどにいなければ、謂れのない中傷まがいの誹謗を受けることもなく、家族や友人に囲まれて幸せに暮らしていられたのかもしれない。
「帰りたいか?」
 不安感がそのまま言葉として口から放たれた。一瞬目を見張った後で、ヘネラリーフェは軽く溜息を吐く。それはどこか呆れたようなニュアンスを含むものだった。
「帰らないわ」
 自分の意志で此処にいるのだ。後悔もしていないし、辛いとも思ってやしない。そもそも影で他人を中傷するような人種に何を言われた所で、伊達と酔狂で戦闘に従事してきたヘネラリーフェの心を揺るがすことなど誰にもできやしないのだ。
 一見か弱く見えるヘネラリーフェは、だがまぎれもなく数万の艦艇と数百万の兵士を率いて熾烈な戦場で闘ってきた冷静沈着且つ豪胆な艦隊司令官なのである。
 数百万の兵士は、数百万の命でもある。それらと重責を一身にその身に負ってきたヘネラリーフェが、そうそう簡単に脆く崩れ去るような女でないことは自明の理だし、ここまで生き残っては来られなかっただろう。また、ロイエンタールを惹き付けることなどそもそも出来なかったに違いない。
 そんなロイエンタールの気持ちを知ってか知らずか、ヘネラリーフェは優しく微笑みながら言った。
「私を傷つけられるのはロイエンタール、貴方だけだわ」
「リーフェ……」
 押さえ付けていた細い腕を解放すると、ロイエンタールは力一杯ヘネラリーフェの肢体を抱き締めた。
「ごめんね……目覚めた時にひとりきりだったから、不安にさせちゃったんだね」
 ようやくヘネラリーフェは、自分のしたことの意味に思いを馳せたようだ。彼女は雪の冷たさで感覚がなくなりかけている腕を上げると、ロイエンタールの背に回してギュッと抱き締めた。
「私は何処にも行かないわ。ずっと貴方の側にいる」
(例え、貴方が帰れと言っても……)
 故郷を捨てる覚悟で彼女はハイネセンを発って来たのである。その強い決意は今でも変わらない。両親の死に目に会えないかもしれないことも重々承知の上だ。両親や友人、そして彼女の全てを培ってきた故郷を捨てることになっても、ロイエンタールを選ばずにはいられなかったのだから。
(だが、それでは俺は益々お前に負担を強いることになりはしないか?)
 ヘネラリーフェはロイエンタールのことを想って帰らないと言ってくれた。だが、このままで良い筈がない……ロイエンタールは、抱き締められる幸福感を噛み締めながらも、どこか心の奥の冷静な部分でそんなことを考えていたのだった。

"クシュン"

 重苦しい雰囲気を一転させたのは、愛くるしいくしゃみだった。
「済まん、冷たかったな」
 ロイエンタールが慌ててヘネラリーフェの上から退き、彼女を抱き起こす。
「躯中、冷えきってる」
「ロイエンタールもね」
 ヘネラリーフェの凍えた指がロイエンタールの乱れた前髪に伸びたかと思うと、優しい手が彼の髪に纏わりつく雪を払った。
 思わずその華奢な手首を掴んで引き寄せると、ロイエンタールはコツンと彼女の額に自分のそれを軽く当てた。
「俺といて、心細くならないか?」
「ならないわ」
 クスクスと笑いながらヘネラリーフェが即答で応じる。
「俺はお前に頼るばかりで、何もしてやれない」
 いつも広大な屋敷でひとり待たせて寂しい思いをさせるだけ。中傷誹謗の類いから守ってやることもできない。そんな自分が心底腑甲斐無く、情けない。
「何かをしてもらいたいと思って貴方の側にいるわけじゃないわ」
 再び、ヘネラリーフェは即答で応じた。
「良いのか、俺で?」
「そう思うから、私は此処にいる」
 やあね、私の言うことが信じられないの? ヘネラリーフェは更にそう付け加えて笑ってみせた。あまりに鮮やかな笑みに、ロイエンタールの不安や焦燥感はたちまち昇華される。
 立ち上がりながら、ロイエンタールはヘネラリーフェの凍えた躯を子供を抱くようにして抱き上げた。ヘネラリーフェの腕が彼の首に回され、同時に耳元に甘やかな吐息を感じる。
「リーフェ」
「ん?」
 ヘネラリーフェが、ロイエンタールの肩に凭れかけさせていた顔を上げる。青緑色の双眸と金銀妖瞳が正面から絡み合った。
「いや、なんでもない」
「変な人」
 クスリと笑う薄紅色に色付く可憐な口唇に、ロイエンタールは己のそれをそっと重ねた。それは、まるで誓いの儀式のような口付けで。
(寂しい想いはさせない……なるべく)←オイコラ
 口には出さずとも、それは確かに汚れない真っ白な世界への誓いだったに違いない。
 そして……

四 雲の湊
 

 このままではいけない……そんな漠然とした決意が胸中に沸き上がったあの雪の日から数日後、ロイエンタールはヘネラリーフェに封筒を渡した。
「何、これ?」
「見ればわかる」
 そう言うロイエンタールの口調は、どこか意気消沈していた。
 促されるまま、ヘネラリーフェは封筒から中身を出し、そして固まる。
「これ……」
 喜ぶとばかり思っていたヘネラリーフェの双眸が俄に険しさをたたえ出した。
「どういうつもり? 帰らないって言ったじゃない!!」
 声を荒げながら思わず封筒から出した"それ"をやぶり捨てようとするヘネラリーフェの腕をロイエンタールのしなやかでありながらも逞しい腕が掴んで動き封じる。
「捨てる前に、俺の話を聞け!!」
「聞きたくなんかない!!」
 尚も逆らおうとするヘネラリーフェの頬を軽く、まるで羽毛で撫でるように叩くと、ヘネラリーフェはハッとしたような表情でロイエンタールを見上げた。
 始めてだった……ロイエンタールがヘネラリーフェに対して手を上げるのは。いや、今の行為が果たして手を上げたなどと形容できるものかどうかはかなり怪しいが、それでも彼がそういう行為に走ったことは、彼女が捕虜だった頃を含めても皆無だったのだ。
「済まん……」
 詫びるロイエンタールの方が、世程傷付いた表情をしている。それでも、ヘネラリーフェは彼に疑問をぶつけずにはいられなかった。
「どうして……なんでよ……」
 ヘネラリーフェの手の中にあるのは、惑星ハイネセン行きの民間恒星間旅客船のチケットだった。チケットは二枚、つまり往復分ということだ。それは行かせるだけでなく、戻って来いという意味でもあるが、今のヘネラリーフェにとってはそんなことはどうでも良い問題だった。
「言ったじゃない……私は貴方から離れないって」
 わかっている。その言葉にどれほど救われたか、それはロイエンタール自身が一番良く知っていることなのだから。
「帰れと言っているわけじゃない」
「これのどこが帰れと言っているんじゃないって言うのよ!!」
 再び苛ついたように声を荒げるヘネラリーフェに、まるで子供をあやすような口調でロイエンタールは言葉を投げ掛けた。
「たまには親孝行をしても良いのではないか?」
「ロイ……」
 言葉の意味は同じだろう。どちらも"帰れ"と言っているのだから。だが、それでも敢えて言い替えたロイエンタールの言葉にヘネラリーフェは黙り込んだ。
「運良く明日の便が取れた。それで一度親父さん達に元気な顔を見せてこい」
 ただし……ロイエンタールは端麗な口元に苦笑を浮かばせながら付け加えた。
「なるべく早く帰って来てくれ。そうでないと、俺の方がどうにかなってしまいそうだからな」 
 こう言われて言い返すことが果たしてヘネラリーフェに出来ただろうか? 答は否である。彼女は結局ロイエンタールの心づくしの思いやりと優しさを受け取る以外の術を見つけられなかったのである。
「わかった……」
「良い子だな」
 優美な指が伸びてきて、琥珀色の柔らかな髪をクシャリと掻き乱した。
 翌日、ロイエンタールに伴われたヘネラリーフェの姿が、フェザーンの宇宙港にあった。
懐かしい故郷への一時帰国に心が浮き立っていてもおかしくないものを、ヘネラリーフェの表情はどこか冴えない。
 だが、そんな彼女以上に沈んだ様相を見せつけているのは、今回の帰国を手配したロイエンタール本人の方であった。チェックインを済ませ出発ゲートに向かうにつれ、それは益々酷くなる一方で……
 そんなロイエンタールの腕に自らの腕をそっと絡ませると、彼はハッとしたように慌てて苦笑して見せた。
「やっぱり帰るのやめるわ」
 思わずこう言ってしまったヘネラリーフェの腕を取って強引に出発ゲートの前まで連れて行く頃には、ロイエンタールはもやは苦笑さえも見せられる状態ではなくなっていた。
 いつも憎らしいくらいに冷静沈着で、表情も滅多に変えないロイエンタールがである。
ヘネラリーフェの心が決まった。
「やっぱり帰るのやめる!!」
 そう言い放つと、止めようとするロイエンタールの腕を避け、チケットをキャンセルすべく小走りでチェックインカウンターに向かう。 
「リーフェ!!」
 遅れをとったロイエンタールがようやくチェックインカウンターに辿り着いた頃には、彼女の手にチケットはなく、かわりに何十枚かの紙幣が握られていた。
「当日キャンセルだから、全額は戻ってこなかったわ」
 ワナワナと怒り心頭なロイエンタールの様子など意に介さずシレっとそう言うと、その紙幣をロイエンタールに有無を言わさず握らせる。
「さ、帰ろ」
 明るい笑顔でこう言うヘネラリーフェに、ロイエンタールは聞かずにはいられなかった。
「帰りたくないのか?」
 返答は、ロイエンタールの心を掻き乱すに十分過ぎるものだろう。
「そんな顔の貴方を置いて行けるわけないじゃない……」
 つまり、帰国しろと勧めたのはロイエンタール自身なのに、彼女を引き止めたのも彼本人に他ならないということなのか? ロイエンタールは己の弱さと脆さを改めて眼前に突き付けられたような気がして、愕然とせざるを得なかった。
「ほら、さっさと行くわよ」
 ロイエンタールの背後に回ると、両手で彼の背を押しながらヘネラリーフェが歩き出す。
「本当に良いのか?」
 返答はなかった。ただ、背後からクスリという苦笑ともとれる忍び笑いが微かに響いただけで……

五 梅花香
 

 それから更に数日後、ロイエンタールとミッターマイヤー両元帥は突如バーラト自治領で開かれる帝国同盟共同開催の会議に出席する皇帝ラインハルトへの随行を命じられた。つまりは出張である。
 これはある意味チャンスとばかりに、ロイエンタールの脳裏にはヘネラリーフェを伴っての同盟領行きの図式が出来上がっていた。
「ハイネセンに赴くことになった、お前も行くか?」
 なんとも幸運な成りゆきにヘネラリーフェはクスクスと笑いながらも了承の言葉を紡ぐ。だが、その後に続けられた言葉にロイエンタールは愕然とした。
「民間船で行くわ」
 ヘネラリーフェがこう言い出したのだ。
「トリスタンには乗艦しないのか?」
 わざわざ民間船で行く理由がわからないとばかりに、ロイエンタールが狼狽えながら問う。
「今の私は、ただの民間人に過ぎないのよ」
 ロイエンタールの艦に便乗することは、公私混同以外の何ものでもないのだ。
 軍というのは、同盟帝国限らず規律が厳しい所である。その中で堂々と公私混同を繰り返せばどうなるか……少なくとも、統帥本部総長という軍トップがする行為ではないし、下への示しもつかない。
 ましてや、今回ロイエンタールは皇帝に随行する身である。
「戦艦の船足の方が早いから、私の方が二三日早めに出発すれば、到着日時は合わせられそうね」
 もう決めたと言わんばかりに、ヘネラリーフェはテキパキと端末を操ってチケットを取得してしまった。
「お前がそこまで言うなら、俺ひとりが我がままを言うわけにもいかんか……」
 ロイエンタールはそう言うと、諦めたような溜息を吐いたのだった。

 ロイエンタールに先立つこと数日前、ヘネラリーフェが出発する当日、一度は帰国を諦めることになった宇宙港に彼女はロイエンタールと共に姿を見せた。
 あの日と同じように、チェックインカウンターを経て出発ゲートの前まで二人並んで歩を進める。
「じゃあ、一足先に行くね。ちゃんと向こうで貴方を感激の抱擁で出迎えてあげるから♪」
 ヘネラリーフェのハイネセン到着は、ロイエンタールより二時間早い予定なのだ。
「気を付けてな」
 宇宙港での別れは、イゼルローンでのあの別れを彷佛とさせる。今回はお互いが別方向へ旅立つのではなく最終目的地は同じ場所なのだが、それでも別々に宇宙という広大な海を旅しなくてはならないというのは、一抹の寂しさを覚えてしまようだ。
 それは、やはり別れと出逢いの場所である港だからこそ抱いてしまう感傷なのだろう。
「そんな顔しないで」
 世程不安気な表情をしていたのだろう。ヘネラリーフェがそう言いながら、ロイエンタールを強く抱き締めた。
「今生の別れじゃあるまいし、ハイネセンで会えるんだから。ね?」
「そうだな……」
 自分自身の女々しさに、我ながら嘲笑を浴びせずにはいられない心境だ。
「行ってきます」
 もう一度ロイエンタールを抱き締めると、今度は伸び上がるようにして彼の端麗な口唇に軽く口付け、彼女は手を振りつつ笑顔を残して出発ゲートの向こう側に消えて行った。
 それから間もなくして、ヘネラリーフェの乗船する民間の恒星間旅客船は定刻通り出発して行った。宇宙港のターミナル最上階にある展望デッキからそれを見送りながら、ふとロイエンタールは、己の身から梅の香りが立ち上っていることに気付くことになる。
「?」
 気の所為でもなんでもなく、何度確認しても確かに梅の芳香がロイエンタールの軍服から漂ってくる。
「あっ!?」
 ヘネラリーフェだ……ロイエンタールは瞬時に理解した。恐らく出発前に彼女が抱き着いた時の、いわば残り香なのだ。
 梅の香りの香水の存在など聞いたこともないが、そういえば以前ヘネラリーフェが香水とは違う、香なるものを買ってきたことがあったことを彼は思い出した。
 細い棒状のそれに直接火をつけると、立ち上る煙りから芳香がもたらされるというものだ。きっと今朝、梅の香りの香を焚いて華奢なその身に香りを纏わせ、それをロイエンタールに移していったのだ。
「あいつめ……」
 思わず呟く。だがその時、先程まであれほど不安感に際なまされていた心中が、その香りを嗅いだ後の今、妙に落ち着いていることに彼は気付いた。
 梅は、漆黒の闇の中でもそれとわかる香りを漂わせる。姿は見えなくとも、強い芳香で自らの存在を主張するのだ。
 そして、確かに今此処にヘネラリーフェはいない。だが、この梅の残り香が、確かに彼女の存在と息吹をロイエンタールに強く感じさせてくれていた。
「やはり、お前は梅の花だったな」
 苦笑しながらそう呟くと、ロイエンタールは踵を返して帰途についたのだった。彼がフェザーンを出発したのは、それから数日後のことである。

エピローグ
 

 ハイネセンの軍港はごった返していた。
 銀河帝国皇帝並びに統帥本部総長、そして宇宙艦隊司令長官がハイネセンへやってくるというので、軍港並びに周辺には厳しい規制が敷かれているというのに、錚々たるメンバーの顔をひとめ見ようと、民間人や報道陣が押し掛けてきているのだ。
 ところでヘネラリーフェの方はと言うと、彼女の乗った民間船は軍港から少し離れた所にある民間船及び商船専用の宇宙港に到着し、彼女は到着後息吐く間もなく軍港まで車を飛ばす羽目に陥った。
 皇帝一行のお成りとあって、民間の方の宇宙港の規制も今日は相当に厳しい。本来ならヘネラリーフェが到着してからロイエンタール達が入港するまでには数時間の余裕があり、それこそ一旦ビュコック家に寄ってから改めてロイエンタールを出迎えることができる筈だったというのに、予想外に入国に時間がかかってしまい結局ヘネラリーフェは息を切らせつつ軍港のターミナルに駆け込むことになったのだ。
 ターミナルに駆け込むのとほぼ同時に、帝国軍艦隊の入港を知らせるアナウンスが耳に入る。
 荒い息を整えながら周囲を見渡すと、同盟側の政府関係者の顔が散らほら見えた。
「さて、無事に会えるのかしら」
 出迎えるわと言ってしまった手前、さすがには少々無理があるような気がしなくもないものの帰るわけにもいかず、ヘネラリーフェはここにいる。
 万が一ここで会えなくても、ヘネラリーフェの所在はハッキリしているのだし(実家に帰る以外に何がある?)この混乱の中、しかも公務でハイネセンに赴いてきているロイエンタールが、ヘネラリーフェと会えなかったことでいくらなんでも怒る筈もない。つまり、帰ってしまっても一向に構わない状況と言えば状況なのだ。
 が、それでもなんとなく離れ難くて、ヘネラリーフェは到着ゲートに近い柱に凭れながらゲートを凝視していた。
 今か今かと待ち構え、いい加減に待ちくたびれかけた所で、ようやくゲートが開く。まず出てきたのは豪奢な金髪が眩しい皇帝ラインハルト。そして、その後に続く華麗な軍服を纏い深いブルーのケープを翻しながら颯爽と歩くロイエンタールの姿が、ヘネラリーフェの青緑色の双眸に飛び込んできた。
 近付こうかどうしようか迷ううち、皇帝一行を同盟政府関係者が取り囲む。
「あちゃ~ やっぱり無理そうね」
 長期休暇中とは言えヘネラリーフェは一応同盟軍中将なのだから、何気なさを装ってロイエンタールに近付けないことはないのだが、それをやるとヤンやビュコックの義父に迷惑を掛けかねないのも事実だし、下手すれば懲罰ものである。
 それに、この場に軍関係者の顔が見えないことと、政府間系者とは言ってもトップの顔が見えないことから考えるに、恐らく今日の予定は夕刻からの晩餐会だけで、一行はこのまま宿舎に入るだろうと予測できる。
 つまりそれは、無理にこの場で感激の再会シーンを敢行しなくとも、きっとロイエンタールはすぐにビュコック家に顔を出してくれるということなのだ。
「やっぱり、家で待ってた方が無難ね」
 そう思って踵を返そうとしたその時、ロイエンタールの視線が落ち着きなく方々を彷徨っていることに気付いた。
 探しているのだ、ヘネラリーフェを。
「ロイエンタール」
 駄目だ……放っておけなくなっていた。ロイエンタールの左右色違いの目が、確かにヘネラリーフェを求めて求めて、とてつもなく不安気に揺れていたから。
「ええい、こうなったら懲罰でもなんでも食らってやるわっ!!」
 意を決したようにそう吐き捨てると、ヘネラリーフェは全速力で駆け出した。ロイエンタールに向かって……
「ロイエンタール!!」
 どんな喧噪の中にあっても絶対に聞き逃さないと言い切れるヘネラリーフェのアルトの呼び掛けに、ロイエンタールはすぐに反応し金銀妖眸を巡らせ彼女の姿をその視界に容れた。
「リーフェ」
 引き結ばれていた端麗な口元が微かに綻ぶのが見て取れる。
(もう、そんな顔しないでよ)
 胸がキュンと痛んだ。たった十数日間離れていただけなのに、恐らくロイエンタールはひとり孤独と闘っていたに違いないと、彼の顔を見て確信したのだ。
(ホントに子供みたいなんだから)
 それでも、そんな素直で無垢なロイエンタールが心底愛しいと思える。そして、不安な想いをさせるくらいなら、公私混同と罵られてようが、皇帝を始め今回随行する提督達から大顰蹙買おうが、トリスタンに一緒に乗ってあげれば良かったのかもしれないとさえ思った。
 二人の距離が徐々に縮まる。そして、ヘネラリーフェは力一杯床を蹴ってロイエンタールの身体に抱き着いた。

「済まん、バレンタインのお返しを用意するのを忘れた」
 ヘネラリーフェの華奢な躯を抱きとめながら、だが開口一番に端麗な口元から漏れた言葉は、些か緊張感のないものだった。
 ヘネラリーフェは、だが彼の胸に顔を埋めながら首を横に振る。
「プレゼントなら、もう貰ったわ」
「?」
「貴方に会えたもの。これ以上のプレゼントはないわ」
 そう……奇しくも、今日は3月14日。ホワイトデーなのである。

 

Fin

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*かいせつ*

ホワイトデーネタと言いつつも、言わなきゃわからないという代物ですよね(^^;) 梅の方が目立ってるし(トホホ)
それにしても、お二人さんったら、雪の中何してるんでしょうねぇ(笑)
下手すりゃ、翌日から寝込みそうだわ(爆)
ところで、実は書きながらミスに気付いてしまいました。
ヘネラリーフェの身分なんですが、作中で一応同盟軍中将云々と書きはしたんですが、よく考えてみると、銀河狂想曲本編の最後の方で彼女は帝国元帥に叙せられていて、その後ロイ反逆の罪を一身に背負ったまま死亡扱いになっているんです。その時、彼女の元帥号が一体どうなったのか、全然考えてなくて(^^;)
更に、同盟軍中将という身分にしても、果たして正規にその身分を名のれるのか、あくまでもヤンイレギュラーズとしての身分なのか、この辺りもかなりあやふや。
今回は時間的に余裕がなくて、その辺りを詰めずにこのお話を書いてしまいましたが、これからおいおい本編以降の彼女の身分や立場を考えてやらなくてはいけませんね。
ちなみに「暗香」とは、「闇の中でもそれとわかる香りのこと」「どこからともなく匂う花の香りのこと」という意味で、主に梅を指す言葉だそうです。

 

2002/3/16 かくてる♪てぃすと 蒼乃拝

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