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第十二章

二 SACRIFICE


 老病を理由に退役し、再三にわたる復帰の要請を拒み続けていたアレクサンドル=ビュコック元帥が宇宙艦隊司令部を訪れたのは、皇帝ラインハルト再宣戦が宇宙全体を突き飛ばして転倒させた、その翌々日であった。
「五〇年以上も同盟政府から給料をもらってきた。今更知らぬ顔を決め込むわけにもいかんでな」
 老将はそう言って笑って見せたが、それこそが彼が同盟軍最後の司令官として復帰した瞬間でもある。正にヘネラリーフェの予測した通りのことになったのだ。
 ビュコックは譲渡契約書なるものを作成し、それと共に廃艦の運命にある艦艇をヤンに託し、三〇歳以上の者だけを伴い出撃していった。そして宇宙歴八〇〇年、新帝国歴二年一月一四日、ビュコック率いる同盟最後の艦隊と帝国軍はマル・アデッタ星域において衝突する。
 実はこの時ヤン不正規軍はイゼルローンを既に乗っ取っていたが、それはまだ両軍の知るところではなく、知らせがもたらされたのはマル・アデッタ星域での戦闘が終結した後のことであった。
 マル・アデッタ……先年ビュコックが帝国軍を迎撃して大敗を余儀なくされたランテマリオに比べれば戦略的価値は低いが、戦術的には帝国軍にとって遙かに難所と言うべき星域だろう。惑星数は算出不可能、最大でも一二〇キロという小惑星群が巨大な帯をなし、恒星は極めて不安定で表面爆発を繰り返す。当然、通信は乱れ、恒星風が熱やエネルギーにまじって微少な岩石を乱流にのせて無秩序に運ぶ。大兵力であればあるほど指揮と運用が困難になる難所である。
「あの老人、よくもこれほど戦いづらい宙域を選んだものだ」
 ラインハルトにさえ舌打ちをさせた程の、そこはそんな空域なのである。もっともその舌打ちには感嘆の要素も極めて多く含まれている。半世紀にわたる帝国の専制主義と戦い続けてきた老将の、知略と気骨の発露を看てとり、襟を正す思いにとらえられたのだ。だが、所詮同盟にとっては最後の足掻きだった。 
「強固だな、まるであの老人の精神のようだ」
 と、ラインハルトに言わさしめたビュコックの用兵も戦略も戦術も、帝国軍の大兵力の前には無惨に撃ち砕かれるばかりだったのである。
 その時、ヘネラリーフェはロイエンタールに言われるがままに総旗艦ブリュンヒルトの、しかも艦橋にいた。同盟を指揮する老将の娘ということで、特別視されたのかもしれない。それがヘネラリーフェにとって果たして良いことなのか悪いことなのか、それは誰にもわからないだろう。
 ラインハルトの呟きを耳にしたヘネラリーフェは、だが黙って前を見ていた。もうどうすることもできない……自分はここで義父の生き様、死に様を見届けるしかないのだ。もやは心が動揺することさえもなかった。ビュコックはきっと満足しているとわかるから……皇帝ラインハルトと僅かとは言え対等に戦えた自分を恐らく賞賛こそすれ、恥じてはいないだろうとわかっているのだ。
 だが、ラインハルトの呟きを耳にとめたのは、その時点でヘネラリーフェだけではなかった。
「ラインハルト様、降伏を勧告されてはいかがですか?」
 若々しい声が天の声にも等しく聞こえる。咄嗟にヘネラリーフェは振り向いた。それはジークフリード=キルヒアイスの声だった。ラインハルトの信条を察し、降伏を進めたようである。だが、ラインハルトはそれをはね除けた。
「無益だ、未練をあの老人に笑われるだけだろう。第一、なぜ勝者たる予が、敗者に媚びねばならぬ?」
 ラインハルトの声は不機嫌でなかったが、どこかに傷付けられた少年の誇りが滲んでいるようでもある。キルヒアイスは重ねて皇帝に進言した。敗者に手を差し伸べるのは勝者の器量を示すもの、それを受け入れない敗者の方こそが狭量なのだから、と。
 ラインハルトは頷いたが、降伏勧告自体を自分自身でやろうとはせず、それは宇宙艦隊司令長官であるミッターマイヤー元帥の名で行われた。だが、ヘネラリーフェにとってはそれが誰であろうとどうでも良いことでもある。ただし、この降伏勧告をビュコックが受け容れればの話であるが……危惧した通りだった。ビュコックは勧告を容れなかったのだ。
 ロイエンタールの金銀妖瞳が痛ましげにヘネラリーフェを見、そしてラインハルトを見た。それに感応してラインハルトは顔を上げスクリーンを正視すると、ロイエンタールに頷いて見せる。一斉砲撃の合図であった。一瞬ロイエンタールが躊躇する。それでもその優美な右手は挙げられ、そして空を切ろうとしたその瞬間、艦橋に絶叫が迸った。
「や……やめてっ!!」
 やめて……お義父さんを殺さないで!! なんという取り乱しようだろうか……ヘネラリーフェは青緑色の双眸に涙を湛えながらロイエンタールに取りすがった。
「お願い、何でもするから……だから、だから義父を殺さないで!!」
 義父ビュコックの気持ちを無にすることにはなるだろう。彼は民主国家に殉じる覚悟で戦ったのだ。だから、本来ならここで死なせてやるのが彼の気持ちを汲むことでもあるし、不本意な生など彼は喜びはしない。だが、肉親としてとても正視できる情景ではなかった。
「陛下、小官からもお願いします。同盟の国家としての命脈は尽きました。ここで一艦残らず消滅させたとしても、それは勝者の一方的な満足でしかありません。ここまで善戦した老将を敬いこそすれ、殺す必要がありましょうか?」
 思いもしなかったロイエンタールの言葉が艦橋に静かに流れ、ヘネラリーフェは息を呑んだ。まさか彼がこんな風に自分を庇ってくれるとは思いもしなかったのだ。だがロイエンタールのその言葉に呼応するかのように、キルヒアイスもまた言葉を紡いだ。
「私もロイエンタール元帥の意見に賛成です。戦いは終わったのです、これ以上の流血は無用でしょう」
 ロイエンタールはともかくとして、キルヒアイスの進言を訊かないわけにはいかなかった。分身だからというばかりでなく、彼の言うことにはいつも間違いはなかったのだ。勿論ロイエンタールの言うことにも一理ある。
 確かにここで老人一人の血を新たに加えたところで歴史は変わりはしない。自分より遙かに長い人生を生きてきた人間を疎かにする謂われも理由もラインハルトにはなかった。だが王者としてのラインハルトには、このまま二人の進言を、そしてヘネラリーフェの願いを無条件で呑むわけにはいかないという想いも確かにあった。
「何でもすると言ったな、フロイライン。いや、ブラウシュタット中将」
 その言葉が何を意味するのか……ヘネラリーフェは躰を硬直させラインハルトを見やる。
「では、予の麾下にはいれ。貴女には中将位を与えよう。従軍し、そしてヤン=ウェンリーを倒してもらう」
 ヘネラリーフェが顔を俯かせた。両手がキツく握り締められ、震えている。ヤン=ウェンリーを、ヘネラリーフェが一生ついていこうと選んだ人間を、あろうことか皇帝ラインハルトは討てというのか? だがもし断れば……
「その時はビュコック元帥の命で贖ってもらう」
 人の弱味につけ込んで……ヘネラリーフェは口唇を噛みしめた。どちらもヘネラリーフェにとってはかけがえのない人達で、どちらかの命を選ぶことなどできはしない。だが、義父の命は絶対だ。
「……足りないわ……」
 ヘネラリーフェの口から、不敵な響きを伴う声が漏れ出る。
 正にイゼルローン艦隊で見られたあのヘネラリーフェの本性とも言える、追い詰められれば追い詰められるほど強くなる、それはそんなヘネラリーフェの真実の姿だった。
「中将では足りないわ。貴方は私にヤン=ウェンリーを討てと言う。でも、貴方でさえ成し得なかったことを私にできるとでもお思い?」
 そうだ……いくら自分がヤンの幕僚で、ヤン艦隊の中でも恐らくヤンと同じ事を考えつく数少ない人間のうちのひとりだったとしても、同じ速度で考えていたのでは到底ヤンには追いつけない。それでは勝つことはおろか、互角にさえも持ってはいけないだろう。つまり、ラインハルトの麾下に入ることが即ヤンを追い詰めることにはならないということだ。
 ならば割り切ればいい、これはビジネスだと。ビュコックの命を救う為の、これはラインハルトと自分のビジネスなのだ。同列で互角で対等の関係……誇り高い皇帝がそれを呑むとは思えないことを計算に入れた上で、ヘネラリーフェは更に言葉を続けた。
「だから、中将では割に合わない」
 何が欲しい? ラインハルトが訊いた。ヘネラリーフェの口元にニヤリとした不敵な笑みが浮かんだことを、果たして何人の人間が気付いていただろう? 少なくとも皇帝ではなくヘネラリーフェを見つめていたロイエンタールだけは気付いていたに違いない。
「元帥位を……それ以外はいらない」
 さあどうだ? こんな無茶な要求を呑めるものなら呑んでみろ。ヘネラリーフェの強い眼差しがそう言っていた。
 今現在、帝国軍で元帥号を与えられているのはキルヒアイス、オーベルシュタイン、ミッターマイヤー、ロイエンタールの四人である。恐らく過去類を見ない列強な面々だろう。その男達と同列に置けとヘネラリーフェは言ってのけたのである。
 誰も何も言えなかった。本来なら無礼千万として詰られても良いようなものであるが、あまりの度胸の良さに誰もが舌を巻いたのだ。
「それで良いのか?」
 だが、ヘネラリーフェさえも予測しなかったような返答をラインハルトはした。その場の全員が息を呑む。
「元帥位が欲しいと言うのなら与えよう」
 微かな笑みまで湛えた表情で無茶な要求をあっさり承諾したラインハルトに、ヘネライーフェは愕然とした。いや、切れたと言った方が良いかもしれない。冷ややかな面持ちで皇帝の前に立つと、ヘネラリーフェは思い切り拳を繰り出した。それはラインハルトの白い頬を掠め、指揮シートの背に突き刺さる。が、ラインハルトは微動だにしなかった。
「ほんっとに可愛げのない孺子ね」
 不敬罪で死刑になってもおかしくないような行動であり台詞だ。だがラインハルトは声もたてずに笑った。
「貴女を手に入れられるなら安いものだ。そうは思わぬか、ロイエンタール?」
 意地の悪い言葉がヘネラリーフェを通過してロイエンタールに放たれる。ロイエンタールは頭を垂れたのみで、その端麗な口元から返答は聞かかれなかった。
「……わかった……やれというのなら、やってやるわ。ヤン=ウェンリーを討てと言うのなら討ちに行く」
 やると言ったからにはやって見せよう。だが、それは勝つという意味ではない。
「後から吠え面かきなさんな! どう足掻いても私はヤン提督には敵わない」
 同じ事を同じタイミングで考えていたのでは、勝てる筈などない。そして、言い換えればヘネラリーフェの考えていることなど、恐らくヤンにはお見通しだろうということだった。
 二月九日、ラインハルトは同盟評議会議長ジョアン=レベロの死によって無血開城したとも言うべきハイネセンの地表を、歴代銀河帝国皇帝としては初めて踏んだ。

 

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