夜来椿
-Ⅰ-
小百合の務める葬儀社では、原則女性セレモニースタッフの夜勤がない。
が、小百合は職場である会館のすぐ裏手に居を構えている事から、繁忙期に夜勤者がお迎えで出払ってしまう時などに留守番をする事が多少、いや多々あった。
春一番が西日本で確認されたとニュースが伝えた早春の夜、上下スウェットスーツ姿の小百合はデスクに足を放り投げた状態で、雑誌片手に蜜柑を頬張る事に余念がない。
そのとき、ドアをノックする音が響いた。
「は、はい」
慌てて立ち上がるものの、木製のドアをすぐに開ける愚は冒さなかった。
深夜に女性一人で留守番な身。 いきなりナイフを突き付けられたらたまったものじゃない。
それでなくても、金庫にはそこそこの金額が納められている。
小百合はドアの横のガラス製の小さな窓を開けた。
「夜分に申し訳ありません、北警察の者です」
ドスの聞いた声と共に、身分証が提示された。
今時の警察手帳は、偽造出来ないバッチ形式なので窓の向こうに佇む巨漢が刑事である事は間違いなさそうだ。
ちなみに階級は巡査。
小百合は警戒心を解き、ドアを開けた。
妙齢の女性が上下スウェット姿な事に多少たじろいだようだがそこは平静を装い、巨漢は丁寧な口調で話し出した。
テレビや小説の影響で刑事の態度は一般市民に対しても横柄だと思い込んでいた小百合には、些かカルチャーショックな出来事だ。
「小嶋家の葬儀の参列者リストがあれば、拝見したいのですが」
その葬儀は、明日(いや、既に今日だが)小百合が担当を勤める葬儀で、確か死因は自殺だった筈だ。
まだ十代の青年で、学校にも行かず仕事もせず家に引きこもりがちな、所謂ニート。
お迎えに行ったスタッフが、部屋中にシンナーの臭いが充満していたと言っていた。
覚悟の自殺というより衝動的なものだと判断され、あっさり会館に運び込まれた遺体に、今更警察が何の用があるのかが気になる。
「あるにはありますけど、あれは遺族が想定して作ったものなので、書かれている人物が必ず来るとは限らないし、書いていない人が来る事もあるという、あまり役に立たないものですが」
小百合の言葉に、巨漢が背後を振り返った。
「だそうですよ、篁警部」
巨漢以外にもうひとり刑事がいた気配に全く気付かなかった事にも驚いたが、警部と呼ばれたのが女性だった事にはもっと驚いた。
華奢な肢体からは、およそ巨漢の同業者とは想像出来ない。
背は小百合より小さいが、女性としては些か高め。
小百合とは違い、七センチはありそうなハイヒールを履いている為、スラリと伸びた脚が更に長く見える。
が、服装はおよそ刑事とは言い難いもので、黒い細身のジーパンに、少し大きめな綿の開襟シャツ、ロング丈なアーミーグリーンの薄手のコートという、良く言えばラフ、悪く言えば大雑把な出で立ちだ。
それとは別に、服装を凌駕する程の清冽で妖艶な美貌の持ち主で、白絹の肌と盛夏の滝の如く流れ落ちる射干玉の髪がそれを更に引き立てていた。
「警部、聞いていますか?」
無視していた訳でなく会館ロビーを観察していたらしき女性警部が、三度目の呼び掛けで漸く巨漢を振り返る。
容姿とは裏腹な硬質の光を讃えた黒曜の瞳とかち合ったところで、彼女が自分と同年代もしくは少し若い位だと確信できた。
つまり、これは所謂キャリアという人種だろうか?
キャリアの出世は大卒直後で警部補、一年少々で警部、二十代後半には警視とは、もちろん小説から得た知識だが、あながちデマや妄想ではなさそうである。
「お通夜の記帳簿はありますか?」
アルトの柔らかく落ち着いた声が小百合に語り掛ける。
「今夜の通夜の記帳簿には実際に参列した人物のサインがあると思うのですが、拝見させて頂けませんか?」
その人物が葬儀に参列するか否かは別として、だがこの場に来た証拠になると、篁と呼ばれた女警部が巨漢に説明するのを見て小百合は思った。
葬儀社では、彼女の言っている事は当たり前の常識だ。
だが、人間そうそう葬儀に遭遇する訳ではなく、葬儀社の常識は世間には通用しない。
現に巨漢の巡査は、そこに思い至らなかった。
なるほど、これが国家公務員試験1種に合格したエリートの頭脳なのか。
小百合の中に、彼女への興味が湧いた。
「どうぞ、お入りください。今、お茶を入れますから」
「いえ、お構いなく。勝手に拝見しますから。お仕事中でしょう?」
「電話番ですから、お気遣いなく。通夜には私も立ち会っていますから、お役に立てると思いますし」
実際、今「迎えに来て欲しい」と入電があっても、小百合は取次ぎをするだけなのだ。
女警部の相手をするのに支障はない。
「そうですか、それは助かります」
では、お言葉に甘えてと女警部は断りを入れて事務所に一歩を踏み入れたが、続いて入ろうとした巨漢には静止をかける。
「貴方は外で見張り。何が起こるかわからない上に、この事務所にいるのは一般女性ですから」
言葉尻は優しいが、言っている事は厳しい。
巨漢が大人しく引き下がりロビーのソファに陣取るところを見ると、彼女の権力と警察組織の上下関係の厳しさが窺い知れた。
だが、同じ女。 男性優先の組織社会では弱い立場なのではないだろうか?
その後の作業は、小百合の想像を遙かに超えて、夜を徹して行われる事になった。
-Ⅱ-
巨漢をロビーに残し、事務所のドアを閉めた所で女警部が身分証を提示しながら名乗った。
「申し遅れました。県警本部・銃器薬物対策課の篁と申します」
金バッチをあしらった身分証と共に差し出された名刺の肩書欄には、『第八係・係長/篁 冬湖』とある。
業種的に警察とのやり取りも間々ある小百合だが、会館に訪ねてくる刑事は所轄の下っ端。
県警本部勤務と言うだけでも十分すぎる程のエリートなのに、その人物は女で警部で係長。
間違いなく将来の官僚候補だ。
これ程のエリート警官にお目に掛かるのは当然初めてが、何よりキャリアがこんな深夜に捜査に臨場すると言う事の方に小百合は興味を持った。
この場合、余程忙しいのか、彼女がキャリアとしては風変わりな仕事人間なのかのどちらの人種かが気に掛かる。
しかし銃器薬物対策課の、しかも県警本部の係長が自殺した青年の何を調べに来たのか?
無論、銃か薬物関連なのだろうが、自宅で遺体発見後、特にトラブルも無く会館に運び込まれた遺体に事件性があるとは思えない。
そんな事をつらつらと考えながら通夜の記帳簿を渡し、給湯室で散々迷った挙句に無難な日本茶を煎れ事務所に戻ると、冬湖は手近な椅子に腰を下ろし記帳簿のチェックの真っ最中。
声を掛けるのが躊躇われる程の真剣な眼差しが記帳簿に注がれているのを見て、どうぞとだけ言って湯飲みをデスクに置いた。
「ありがとうございます」
顔を上げる事なく、冷淡で端的な謝意が薄紅色の口元から放たれたが、無視されるとばかり思っていた小百合にとって、それはいっそ意外な出来事だ。
聞きたい事は山程あるが、冬湖の持つ雰囲気に圧され、さすがの小百合も口を開くタイミングが掴めないまま時間が過ぎる。
外を走る車もめっきり減ったらしく、静けさが支配する事務所に響くのは記帳簿をめくる紙の音だけ。
居たたまれなさに息が詰まり始めたその時、冬湖が湯飲みに手を伸ばすのを見て咄嗟に小百合は話し掛けた。
「あの、何の捜査なんですか?」
湯飲みを傾けていた冬湖の手が止まり、深遠の眼差しが小百合を射抜く。
「あ、すみません。そういう事、聞いちゃいけないんですよね」
らしくない!
この職業に就いてからの小百合の性格上、こんな殊勝さは形を潜めていたのに、なんたる事か。
一瞬の間を置いて響く溜息。
ああ、やはり馬鹿にされたと後悔した次の瞬間、記帳簿をパタンと閉じる音と共に冬湖が微かな忍び笑いを零した。
「原則、捜査状況についてはお話し出来ません。我々には守秘義務がありますし、情報漏えいは犯人の逃走に繋がりますから」
だが、と冬湖は続けた。
「小西さんには捜査協力をして頂いておりますので、最低限の事情はお話ししておくべきでしょう」
話しの内容より名乗った覚えもないのに名指しで呼ばれた事に仰天する小百合に、冬湖は背後を指差しながら付け加えた。
「こちらの予定が記されたホワイトボードにはお葬儀の担当者名が書かれています。この会社は女性に夜勤はさせていないと所轄刑事から報告を受けていました。にも関わらず、実際には貴女が夜勤をしていらっしゃる。そしてホワイトボードに記載されている女性名は小西小百合さん、貴女だけだ」
事務所に入ってこれまでの僅かな時間でそこまで把握していたとは、なんという観察眼。
だが、次に冬湖が放った言葉に、小百合は青褪めた。
「実は、自殺として所轄が処理した後に、仏さんの部屋からパケが見つかりまして」
「パケ?」
冬湖は、コートのポケットから写真を取り出して差し出す。
青い背景に、ジーパー付きの透明の小袋が写っていた。
中には、白い粉末が入っている。
声もなく冬湖を見やると、彼女は言葉を続けた。
「覚醒剤やMDMAなどの違法薬物を小分けして入れる袋をパケと呼びます」
ちなみに、写真のパケの中身は覚醒剤。
「明らかに自殺なので、本部は当初からこの件に関わっておりませんでした。ですが、覚醒剤が出てきたとなれば話は別です」
言外に初動捜査にあたった所轄のミスを責めているように感じたのは、気の所為ではないだろう。
引きこもりイコール犯罪者ではないが、迎えに行った社員でさえシンナー臭に気付いた程の部屋だ。
第一報を受けたのが警察にしろ救急にしろ、そういう部屋にある遺体を衝動的単純な自殺として処理した軽率さを、本部の係長としては看過出来ないのだろう。
「ただ、捜査した結果、自殺直前直後にあの部屋には不特定多数の人間が出入りしており、このパケが仏さんの物との断定には至っておりません」
指紋も断片的に付いたものが複数採取されたが、誰の物かは前歴者も含めて特定出来なかった。
「仏さん、仏さんの友人知人、ご遺族、そしてお迎えの為に現場に入った葬儀社社員、その全てが容疑者です」
「ちょっ、それってうちの社員を疑っているという事ですか!?」
「あくまでも、可能性を申し上げたまでです」
怒りに震える小百合を尻目に冷酷に言い放つと、冬湖は立ち上がる。
その時になって漸く小百合は彼女が手ぶらな事に気付いた。
ふと見やると、コートが布地とは思えない程の重量を持っている。
恐る恐る冬湖の胸元に目を向けると、左脇が僅かに膨らんでいるのが分かった。
だから、室内にいてもコートを脱がなかったのか……
コートのすぐ下に拳銃を携行し、ポケットの中に必需品の全てを入れているのなら道理だ。
同じ女だからよく分かる。
バッグに入れておくと、当然の如く出し入れに手間取る。
小百合は葬儀社という特殊な業界に身を置いているものの、職種はOLだ。
そのOLでさえ、財布や切符の出し入れに手間取り、舌打ちを禁じえない場面がある。
それが刑事だとしたら、どうだろう?
身分証や財布はともかく、銃器薬物対策課と言えば昔で言う丸暴。
いつ拳銃を使用する場面に遭遇してもおかしくない危険な部署で、それらをバッグに仕舞い込むのはあまりにリスキーだ。
だが、リスク回避を実践している篁という女刑事は、一体どういう危機感を持って仕事に挑んでいるのだろうか?
または、そういう危険に頻繁に遭遇したが故の対策なのか……
現に目に見える範囲では、ジーンズのベルトに手錠と特殊警棒が装着されている。
小百合の背中に悪寒が走った。
とんでもない人間と関わってしまったかもしれない。
「明日のお葬儀に何人か配置させて頂きます。勿論、こちらにご迷惑はお掛けしません」
葬儀に潜入し、参列者だけでなく社員をも見張る気なのは一目瞭然だ。
だが、冬湖の言葉には拒否出来ない強さがあった。
原則教えられない捜査内容を敢えて話したのは、迎えに出向いた社員へ釘を刺したのだと言う事くらい、小百合にも分かる。
小百合が得た情報を朝礼で報告した結果、その社員が突然姿を消したりしようものなら、冬湖は捜査対象を迷わず彼らに移すだろう。
「では、失礼します。行くぞ」
小百合が言葉を無くしている間に冬湖はロビーの巨漢をぞんざいな言葉で呼び付け、サッサと会館を出て行った。
慌てて自動ドアまで見送りに走った小百合が見たものは、黒塗りのセダン。
冬湖がその車に近付くと、運転席から巨漢以上にガタイの良い男が降り、後部座席のドアを開けるのが見えた。
本当にとんでもない人物と関わってしまった。
明日と言ったが、既に今日の数時間後に彼女は部下を引き連れてここに現れるのだ。
一体何人が、どういう出で立ちで現れるのか……
冬湖に一礼して車に迎える刑事の慇懃な態度を見て、小百合は重苦しい溜息を吐いた。
興味はともかく、冬湖への好意はいつの間にか霧散していた事は言うまでもない。
-Ⅲ-
「守備は?」
「上々です」
車に乗り込んだ瞬間の冬湖の問いに巨漢巡査が応じ、その返答に運転手を勤める土谷は不適な笑みを浮かべた。
「しかし篁警部、こんな事をして本当に大丈夫なのでしょうか?」
巨漢に似つかわしくなく、彼の目は怯えた子犬のようだ。
「令状は出ている。何処の誰にも文句を言われる筋合いはない」
冬湖が端的に答えると、巨漢はポケットからハンカチを取り出し開いた。
ハンカチの上にあるのは、人の毛だ。
冬湖と小百合が事務所にいる間に、遺体が安置してある親族控え室へ赴き、髪を一本拝借してきたのである。
通夜後で家族が詰めていても捜査令状が降りている以上、臆する必要はないとあらかじめ冬湖に言われてはいたが、気が進まない仕事であった事は確かだ。
だが、既に湯灌も終わった遺体から髪を拝借しなければならない、いわば『死者への冒涜行為』を働かなければならなくなった諸悪の根源は、自らが所属する所轄の初動捜査ミスから派生している以上、本部の警部の命令に逆らう権利は、彼にも彼の上司にもない。
「本部に戻り次第、科捜研に回してくれ」
「了解」
土谷がアクセルを踏み込む足に力を入れる。
北警察署の組対部で葬儀に配置する人員の選出と大まかな段取りについて打ち合わせを済ませた冬湖と土谷が県警本部に戻ったのは、東の空が微かに明るくなり始める頃だった。
「仮眠を取ったらどうだ?」
「私に構わずどうぞ」
「人の好意を踏みにじる性格は、まだまだ直りそうにないな」
土谷が楽しげに言う嫌味を背中で聞き流すと、冬湖は報告書作成書類一式を持って科捜研の弓白風香の元へ向かった。
報告書作成が終わったら、葬儀への参列の準備に取り掛からねばならない。
冬湖の強みは、徹夜捜査が続いてもそれほど体調に支障を来たさない所だ。
これも、見た目の華やかさとは裏腹なハードな稼業である花柳界が前職だったおかげかと思うと、刑事になった理由が理由なだけに些か皮肉ではある。
科捜研で報告書を作成中に、弓白風香から採取した髪についての報告がもたらされた。
「シャブについては、陰性。シンナーがうんざりするほど検出された事を考えると、仏さんはシャブには手を出していないのじゃないかしら?」
「私もそう思う」
「ふーん、それでも手は抜かない訳ね」
「万が一の事があってからでは遅いからな」
二人の本気とも冗談とも取れないやり取りの最中、科捜研に現れたのは銃器薬物対策課長の刈安だ。
「篁警部、仏さんの部屋からこんなものが出たぞ」
彼の手にある箱の中には、山積みと言っても良い程のパケが入っている。
無論、白い粉末入りだ。
「これらはどこに?」
実際にガサ入れに加わった同じ八係の巡査、速水と緋室に状況を確認すると、全て壁際に落ちていたと返答があった。
「指紋は?」
「それが、全くありませんでした」
「仏さんも含め、一人もか?」
「はい」
これはどういう事だろう?
壁際に『偶然』、それもこれ程の大量のパケが落ちていたとは考えにくい。
「どんな感じで、壁際に落ちていた?」
「それが、不規則にパケが重なった状態で、壁沿いに点々と」
冬湖は考え込むと、刈安からパケの入った箱を受け取り、それを傾けながら歩いた。
「こんな感じか?」
冬湖の歩いた道筋に、パケが重なり合いながら不規則な間隔で落ちていく。
「あ、そうです!」
「篁君、どういう事だ?」
苅安に説明を求められ、冬湖は自らの頭の中を整理しながら、あくまでも推測だと前置きした上で説明を始めた。
「私が実演したように、誰かがこのパケを遺体発見現場の壁際に上から落として隠したのでしょう」
恐らく仏さんは、引きこもっている間にシャブをパケに小分けにする作業に従事していたに違いない。
「ニートの人間は人を寄せ付けず、社会から自らを隔絶させる傾向にあります」
だが、自殺した青年の部屋には生前から多数の人の出入りがあり、社会から隔絶されていた生活とは凡そ無縁だ。
「引きこもりだから麻薬密売の片棒を担がされたのか、片棒を担ぐ為に引きこもりになったのかは、本人が既に亡くなっているので確認出来ませんが、あの部屋には小分け前の覚醒剤が運び混まれていた。つまり、シャブの不法所持者が出入りしていたと言う事です」
本人も含め、パケから指紋が出なかったのも、それなら頷ける。
「大切な商品を、素手で扱っていたとは思えません。恐らく、手袋をしていたのでしょう。壁際に落とす際も、先程私がしたように箱から直接落とせば指紋は付きません」
ただ、その行為に及んだのが、仏さんなのか第三者なのかの判断は出来ない。
「何にせよ、このパケ分の覚醒剤を運び込んだ奴が存在するのは確かです」
その言葉を聞いた刈安の判断は速かった。
「速水と緋室は引き続き、部屋の捜索。もしかすると、大元のシャブが入っていた容器なりが発見出来るかもしれん」
二人が飛び出して行った後、刈安は無言で冬湖を見やった。
今後どうするかを問うているようだ。
「私は一端自宅に戻り、葬儀に参列する為の準備をします。課長、申し訳ありませんが土谷さんに現地で交流する旨、伝言願います」
それからと言い置いて、冬湖は風香に向き直った。
「葬儀に同行してくれないか? 最後のお別れの時に遺体を見て貰いたい。無論、その前に事件が解決すれば必要のない業務だが」
「自殺か殺しの判断をしろって事?」
相変わらず勘が良い風香に冬湖は苦笑を漏らした。
「いくら初動ミスがあったにせよ死因まで間違うとは思いたくないが、万が一を考えて科捜研の人間のお墨付きが欲しい」
その上で、最悪の場合は葬儀だけ済ませて火葬は中止になるかもしれない事を考え、冬湖は帰宅前に火葬差し止め用の令状を作成し、それを刈安に預けて本部を後にした。
捜査令状は警部以上の者が作らなければならず、この書類仕事は難を極める。
何せ裁判所に提出するものだから、奥付欄に委細詳細を記入するにも時間と頭を使う上に、遺漏などのミスは許されない重要な書類だからだ。
冬湖は既に警部だから、それらの作成及び提出権限がある為、彼女が警部として改めて愛知県警勤務になったと同時に、刈安は令状取得の為の書類作成からある意味解放された。
しかも冬湖の作る書類は毎回ノーミス。
いかに国家公務員1種試験合格者とは言え得手不得手があり、令状作成を苦手とするキャリアも多い中、現場と事務仕事を完璧にこなす能力は組対部の全員が評価する程だ。
その一方で、冬湖のおかげで裁判所へ赴く回数が増した事は否めない。
「ったく、私は便利屋か」
ぼやきながら科捜研を後にする刈安が、だが言葉ほど迷惑がっていない、いや寧ろ冬湖の行動力を頼もしく思っている事を察し、弓白風香は思わず失笑しながら彼を見送った。
-Ⅳ-
支配人は休みだった。
それをうっかり失念していた自分の迂闊さを呪いながらも、簡潔に朝礼を終わらせた後の小百合の視線は、昨日お迎えに行った社員の中田と樋口を追う事に余念が無い。
「おい、お前何かしたのかよ?」
「何の事だ?」
「朝からずっと、大百合が俺たちの事を睨んでやがる」
二人揃って背後に視線を巡らせようとしたその時、忍耐切れの小百合が二人を呼び出した。
「中田君、樋口君、ちょっと」
二人は小百合に促されるままに使用していない親族控え室に入り、彼女の厳しい眼差しから目を反らしながら渋々対峙する。
「二人とも、昨日はどこに居たの?」
「どこって、ご遺体のお迎えに」
「迎えに行く前よ! 二人とも営業先からお迎え先に直行していたけど、本当に営業に行っていたの?」
二人の顔がみるみる青褪める。
中田は営業と偽って女とラブホテルにしけ込んでいる所を取引先社員経由で小百合の耳に入れられ、樋口はパチンコに興じている姿を小百合本人に見付かって激昂を買っている過去があるからだ。
「どうなの?」
「どこにも行ってないっすよ。今度は本当です、信じて下さいよ」
樋口が必死で弁明したが、中田は黙したままだ。
小百合は溜息を吐きながら、昨晩の騒動を話した。
「今日のお葬儀には、刑事さんが立ち会うわ」
その前に、恐らくお迎え担当者である中田と樋口に事情聴取が行われるだろう。
「やましい事が何もないなら良いけど、そうでないなら、先に話しておいて欲しいの」
業務態度に些か問題のある二人だが、ヤクザや覚醒剤に関わりを持つような人間ではないと、小百合は二人の事を信じている。
信じてはいるが、何を根拠にと篁冬湖に詰め寄られたら、理路整然と答えられる自信はない。
「昨日は真面目に営業をしてましたよ。カード会員入会の申込書、見たでしょ?」
樋口がふてくされながらも自信ありげに言うのに対して、中田は相変わらずダンマリだ。
「中田君、黙ってちゃ分からないわ。今日の相手は、いつも来る所轄の刑事さんとは全く違う人種なのよ」
穏やかなのに冷酷な冬湖のあの黒曜の瞳で見つめられたら、大抵の人間はひた隠しにしたい秘密をも吐露してしまいそうな恐怖があった。
それでなくても、冬湖の持つ雰囲気は有無を言わせず他者を圧倒するのだ。
昨夜味わった悪寒がまた、小百合の背中を駆け上る。
「中田君!」
再度詰め寄ろうとした所で、控え室の扉が開く気配に続き、背後から呼び掛ける声に小百合は振り返った。
別の会館から応援に来ているセレモニースタッフが手招きしているのが見て取れる。
「二人とも、刑事さんに聞かれたら嘘偽りは言わず、素直に本当の事を話すのよ」
信じてないのかよ…… ボソっと捨て台詞を言う樋口の言葉に胸が痛むが、何より葬儀を無事に済ます事の方が先決だ。
小百合が呼び出しに応じてロビーに戻ると、そこには所轄の巨漢刑事と、運転手を務めていたガタイの良い刑事が喪服を着て佇んでいる。
その姿を見て、小百合は目眩を覚えた。
確かに昨夜、篁冬湖はこちらには迷惑は掛けないと言ったが、いかに喪服を着用していようとも、一般的な葬儀参列者には見えない。
巨漢はどこにでもいるが、胸板が厚すぎる上に目付きも雰囲気も尋常でなく、そもそも喪服が全く似合っていないのだ。
何度か葬儀に立ち会う間に、それこそ暴力団関係者の担当を務めた事があるが、本物のヤクザと目の前の刑事では、身分証の提示がなければ見た目どちらがヤクザか刑事か分からない程である。
「今日はお世話になります」
運転手を務めていた土谷という本部の巡査部長が身分証を提示している合間に、所轄の巨漢から手土産を渡された瞬間、小百合は一瞬よろめいた。
刑事が手にしていると極小に見える菓子箱が、小百合が手にした途端そこそこの重量と大きさのある物に変化したからだ。
いや、この形容はおかしい。
元々、大きくて重量のある物が、巨漢が持つ事で極小に見えたのだ。
「ところで早速で申し訳ありませんが、昨日お迎えに行かれた社員の方とお話させて頂きたいのですが」
土谷巡査部長の物腰からは、篁冬湖直属の部下らしく丁寧だが拒否出来ない圧力が感じられた。
想定内の事だった故に小百合も殊更に驚く事はしなかったが、背中に悪寒と同時に冷たいものが伝った事は否めない。
中田の態度が気に掛かって仕方ないのだ。
それでも表面上は平静を装って、親族控え室へ案内する。
時間がない事もあるのだろうが、土谷の尋問は驚く程に単刀直入だった。
「昨日お迎えに行った際、これを落としませんでしたか?」
昨夜、冬湖が小百合に見せたのと同じ、パケが映った写真が二人の前に差し出される。
樋口は知らないと瞬時に返したが、中田は口を噤んだままだ。
「中田さん?」
土谷の呼びかけに、中田は渋々と言った体で知らないと答えた。
中田は何かと粗野で女にだらしない問題児だが、犯罪に手を染めるような男ではないと信じる小百合の目から見ても、彼の態度は妙に映る。
「中田君、調べられたらすぐに分かる嘘は吐かないで、お願い」
中田は小百合を睨んだが、ポケットの中に手を入れたり出したりしている落ち着かない態度が益々怪しく見える。
それは刑事二人もそうだったようで、土谷が丁重な態度で身に付けている物を出して欲しいと口にした。
「令状、あんのかよ?」
土谷は顔色ひとつ変えなかったが、所轄の巨漢刑事は忍耐切れだったようだ。
「良いから、見せろ!」
言うなり、乱暴に中田の着衣のポケットの中を漁った。
出て来たのは、クシャクシャのハンカチ、ヘルスの広告が入ったティッシュ、財布に免許証、それに透明の小さな袋。
小百合の表情が凍った。
どう見てもそれは、写真にあるパケと呼ばれる袋と同じ物に見えたからだ。
ただし、中身は空である。
土谷はそれでも穏和な態度を崩さなかったが、いかんせん。所轄の巨漢が中田の胸ぐらを掴んで吊し上げにかかった。
「これは何だ!?」
「止めろ、確証はない。疑う前に成分分析が先だ。誰が、弓白研究員を呼んできてくれ」
今は、明らかにそれがパケでも、あからさまに疑う前に鑑識か科捜研で成分分析をするものらしい。
昔のように強引に自白させ、後から違いました冤罪ですと言う訳にはいかないのだ。
黒のワンピースには不釣り合いなジェラルミンケースを持った女性が現れ、喪服の上に白衣を着込むと、早速パケの内側を綿棒で丁寧に拭い、それを試験管の中に入れた試薬につけ込んだ。
待つこと数秒。
素人の小百合が見ていても、何がどうなれば中田が犯罪に手を染めたか否かの証拠になるのか皆目検討が付かなかったが、弓白と呼ばれた女性が首を横に振るのを見て、とりあえず中田の持っていたパケから覚醒剤の成分が検出されなかった事は確信出来た。
が、それでも怒りは湧く。
「中田さん……」
土谷が口を開くのを遮るように、小百合の中で何かが弾け、彼女は中田の胸ぐらを掴んでいた。
「ちょっと、一体何を隠しているのよ? 紛らわしい事をして、一体どれだけ迷惑を掛けたら気が済むの!?」
「小西さん、落ち着いて」
土谷に宥められ、中田から手を離したものの、小百合の息は荒い。
「話して貰えますね?」
中田がコクりと頷き、しどろもどろ説明を始めた。
「昨日は、お迎えの連絡が入るまで彼女の部屋にいました」
また女の所にしけ込んでいたのか……
小百合は頭痛を堪えるような表情をしながらも、中田の言葉に耳を傾けた。
「彼女の所で昼飯を食ってから会館に戻ろうとしたら、入電が入ったから迎えに行けって連絡が入って」
その後の中田の供述は以下の通りである。
ホテルではなく彼女の部屋へ直接赴いたのは、そもそも半同棲中だから。
お迎えに出る際に手作りの弁当を持たされたのだが、彼女の料理はお世辞にも美味しいとは言えなくて……
そこまで話した所で、弓白風香が覚醒剤ではなかったパケの中身の成分報告をした。
「グルタミン酸ナトリウム。分かり易く言えば、味の素」
その場にいた全員が、中田の次の言葉を待つまでもなく情況を把握した。
要するに、美味しくない彼女の料理を必死で食べ切る為に、彼女の部屋から味の素を持ち出したのだ。
それを入れた小袋が、パケに使われる物と偶然同じだった。
その場にいる全員が脱力する中、そろそろ葬儀の刻限であり事が伝えられ、辺りは俄に騒然とし始めた。
-Ⅴ-
葬儀場へ向かう際、小百合は重大な事を思い出し、所轄の巨漢に駆け寄った。
「あの、篁さんは?」
彼は言われている事の意味が理解出来ないとでも言いたげな表情で答えた。
「こちらで合流する事になっておりましたから、既に到着していると思いますが」
「まだお会いしていません」
隣で土谷が苦笑を零したのを、小百合は見逃さなかった。
「申し訳ありません、お嬢、いや篁は先に会場入りさせて頂いております」
「え、でも誰も見掛けていないと……」
葬儀に参列と言っても張り込みだ。男性陣が全員まっとうな参列者に見えない事から、敢えて目立たない為に篁冬湖が何食わぬ顔をして会場入りしても何らおかしい事はない。
だが、あの美貌は人目を引く。
それが、事情聴取に立ち会っていた小百合はともかく、ロビーに詰めていた社員の誰ひとりもが目撃していないとはどういう事なのだろう?
「それから事後承諾で申し訳ありませんが、事が事なだけに、篁には元麻薬取締官の晃坂という人物が同行しております」
麻薬取締官。その言葉に小百合は飛び上がり掛けたが、それより先に腰砕けになったのは、所轄の巨漢巡査だ。
「晃坂って、まさか晃坂警視正ですか?」
その言葉に土谷は、今更何を言っているんだと言わんばかりに、半ば呆れた表情をした。
詳しい説明を求めると、冬湖から捜査協力者には誠実に対応しろと厳命されているらしい土谷は、躊躇うこと無く委細を説明し始めた。
晃坂隼。階級は警視正。
元、東海北陸厚生局・麻薬取締部・情報官室室長で、現在は警察庁刑事局・刑事企画課・情報分析支援室の室長。
篁冬湖とは、彼女が愛知県警に新人研修時に赴任してきて以来の相棒。
それはそれとして、つまり晃坂と言う人物は冬湖以上の階級を持つキャリアで、既にエリート官僚だと言う事なのか。
そんな人物を『相棒』に持つ篁冬湖に、小百合は悪寒どころか戦慄を覚えた。
十代の青年の自殺が一体どこまで大きな事件に発展するのか…… 考えると、気が遠くなる思いだ。
いや、それより問題は篁冬湖の所在だ。
その相棒と既に会場入りして、続々と集まる参列者に目を光らせているのだとしたら、いつの間にどうやって衆人環視のロビーを抜けたのか。
小百合は全速力で葬儀が行われる会場へ向かった。
決して少なくはない参列者の中には、素人目にもまっとうでない人物の姿がちらほら確認出来る。
目を凝らして、冬湖の姿を探し始めて約十分。小百合は一瞬呆気に取られた表情で傍らの土谷を見上げ、彼が苦笑を湛えているのを見て、再度目を元の位置へ戻した。
昨夜の綿のシャツ、黒のスリムジーンズ、アーミーグリーンのコートという大雑把な装いからは想像すら出来ない程に豹変した姿が、俄に信じ難い。
何度も瞬きしたが、その美貌は忘れたくても忘れられない程のものな上に、纏わり付く雰囲気は明らかに彼女のものだ。
だが、妙な事に人混みに溶け込んでしまっているのはどういう事なのか?
あれ程の美貌を持ち、あれ程に人を圧倒する気を纏いながら、彼女を注視する者がいないのが不思議でならなかった。
「実は篁の得意技でして」
「は?」
「刑事が目立つとロクな事がないものです。簡単な例を挙げれば尾行がそれですが、篁は目立つくせに人波に溶け込む術に長けておりまして」
こちらに一切迷惑を掛けないと言うのは、巨漢揃いで自らで刑事ですと吹聴しているような男性刑事達ではなく、冬湖自身の事だったのかと小百合は漸く得心したが、彼女の服装にも目を見張らざるを得なかった。
喪服と言っても人それぞれだが、冬湖は五つ紋付きの正装、つまりは和装で参列者の中に紛れ込んでいたのだ。
髪も、昨夜とは打って変わってスッキリとアップにしており、ひとつ間違えばどこかの組の姐さんに見えなくもない徹底ぶりだが、これが酷く妖艶に映る。
衣紋を深く抜いた着付けも原因のひとつだが、不思議と下品とも場違いとも思えない。
「土谷さん、彼女は本当に普通の刑事さんなんですか?」
「違いますよ」
躊躇う事なくそう言う土谷に、小百合は返す言葉を見付けられなかった。
この場合、土谷の言う『普通でない』とは、冬湖が変人と言う意味ではなく、前職を含めた彼女の特異な生い立ちと、軸がぶれない強い意志を表したものだが、無論そんな事は小百合の与り知らぬ事であるのは言うまでもない。
その時、土屋が内ポケットから携帯を出し応じた。
「そうか、分かった」
言うなり、小百合に一礼して土谷は会場を出て行く。
再び冬湖に戻された小百合の目が捉えたのは、冬湖が携帯に応じる姿だった。
葬儀場内での接触を避けた土谷からの連絡だろうと想像するのは易いが、内容は分からない。
冬湖が携帯を切るのとほぼ同時に、再び土谷が小百合の横に戻ってきた。
「葬儀まで、あとどの位の時間がありますか?」
「そちらが宜しければ、今すぐにでも始められますが」
「さすがプロですね、では宜しくお願いします」
それは小百合にと言うより、この場にいる全警察官へのGOサインだった。
-Ⅵ-
葬儀は滞りなく進み、やがて焼香が始まった。
小百合は担当者として司会をこなしながら会場を見渡したが、刑事がヤクザに見える有様に溜息を禁じ得ない。
刑事だと分かっていなければ、自殺した青年の交友関係に今頃引き攣っていた事だろう。
それでも、茶髪に喪服の無茶な取り合わせのチンピラもどきが参列しているのを見るに付け、冬湖達の張り込みの先に何かとてつもないものが待ち受けているかもとの不安は消えなかった。
時折冬湖の所在を確認すべく視線を泳がせたが、完璧なまでの葬儀装束に身を包み、如才なく振る舞う姿には、同性ながら惚れ惚れせずにはいられない。
冬湖の傍らに常に控える物腰の静かな長身の男性が恐らく晃坂と言う警視正なのだろうが、仕立ての良いスーツが驚く程似合うシャープな美丈夫だ。
これが葬儀でなく婚儀なら、似合いの鸞鳳と言った風情である。
焼香客も途切れたその時、冬湖の視線が会場の入り口に向けられ、止まった。
つられて小百合もそちらへ目を向ける。
入ってきたのは、数人の黒服を引き連れた中年の男性だが、ダブルの喪服が堅気で無い事を示していた。
冬湖の視線が再び動き、記帳台に向けられる。
微かに頷いたと思ったその時、土谷に耳打ちされた。
「参列者を会場から出して頂きたいのですが、出来ますか?」
土谷の声には緊迫感があり、小百合は事態が動いた事を悟った。
そろそろ次の段取りへ移ろうと考えていただけに、行動に移すことには支障はなかったが、マイクを持つ手が震える。
「それでは、ご家族様が最後のお別れを致します。ご参列の皆様はロビーにてお待ち頂けますよう、ご案内申し上げます」
落ち着けと言い聞かせながら放った案内の声に促された一般の参列者の波がロビーへ向かい出すのを見て、土谷が関心したような眼差しを小百合に向け、軽く頭を下げる。
その一部始終を見届けた冬湖が、部下数人を引き連れて焼香台へ進む中年男の前に立ち塞がった。
「久しぶりだな、富安」
「これは篁さん、また珍しい所でお目に掛かるものですな」
富安と呼ばれた男は、口元に笑みを浮かべてはいるものの、目には凶暴な光が宿っている。
「今日は一体何のご用で?」
「刑事がヤクザに用があると言えば、用件はひとつだ。お前の所、末端組員にまでシャブには手を出すなと命じていると聞いていたが、それはただのパォーマンスか?」
富安の目から凶暴な光が消え、心底意外そうな表情に様変わりした。
「篁さん、あんたが赴任する前は確かにシノギの一環として禁止と言いながらシャブに手を出していた。だが、アンタにガサ入れされて以降は、一切手を出していない。シャブでのシノギからは手を引かせたし、掟を破る者は破門か厳重処罰だと言い渡してある」
それはあんたが、いやあんた達が一番良く知っている筈だと、富安は冬湖だけでなく晃坂にも目を向けて言い放った。
「なら、親父の目を掠めて小遣い稼ぎをしている輩がいるって事になるな」
富安の目が吊り上がり、従えていた男達を見渡した。
「そうなのか、お前達?」
冬湖の薄紅色の口元から嘲笑の笑みが零れる。
「厳罰を喰らうって分かっていながら、悪さをしていましたと正直にゲロする奴がいるとでも思っているのか。なあ、宮﨑?」
呼び掛けられたのは、やはりダブルのスーツを着た若い男だ。
恐らく高級ブランドのスーツなのだろうが、いかにもお仕着せで、まるで七五三と言うのが小百合の感想だ。
場末のチンピラホストのように見えると言った方が、より分かり易いだろうか。
「言い掛かりを付けるなよ、このアマが」
宮﨑の台詞が終わるか終わらないかのうちに、冬湖の傍らに科捜研の弓白風香が颯爽と現れた。
「科捜研の弓白と申します。この仏さんの部屋から、覚醒剤が凡そ一キロ入ると思われるビニール袋が見つかりました」
風香が、証拠品らしきビニール袋と試験管を掲げる。
「中は空でしたが、内側に付着した残留物からは覚醒剤の陽性反応が、袋の外側からは貴方の指紋が検出されました」
葬儀前、土谷が受けた連絡は恐らくこの事だったのだろう。
「俺の指紋だってどうして分かるんだよ! 俺には前科はねえ」
「なるほど、前歴がないから気を抜いていたのか」
冬湖が相手を小馬鹿にしたような溜息を吐く。
「お前が富安の代理として出した香典袋に付着していた指紋と、シャブが入っていたビニール袋から採取した指紋を照合させて貰った。うちの科捜研は優秀でな、すぐにお前のものだと断定出来たが、まだ言いたい事があるなら署で聞こう」
科捜研の人間が記帳台の陰に隠れて何やらしていたのには気付いていたが、まさか指紋照合だったとは。
限られた時間に限られた道具を使い、手際よく証拠をあぶり出す弓白研究員の力量は、冬湖の言う通りかなり優秀だ。
「宮﨑、本当なのか?」
富安が宮﨑に詰め寄る。
「売る方も使う方も、一度味を知ったら止められない。それが違法薬物の恐ろしさだ」
止めろと言うのは容易いが、本当に手を切るか否かには本人の精神力の強さが必要になってくる。
人間とは、楽な方に流される生き物だ。
そこを踏まえた上での組織のトップとしての厳命だったのなら、それ相応の覚悟と対処方法を考えておくべきだった。
「お前は、代紋を預かる親父としては失格だな」
息子同然に目を掛けてきた男の所行に気付けなかったばかりか、直接手は下していないものの、人一人の命をも奪う結果になったのだから。
「さて、行こうか」
冬湖の声に促され、所轄の刑事が宮﨑の肩に手を掛けた途端、彼はその手を振り払い奇声を上げながら懐から黒光りする拳銃を取り出し冬湖に向けた。
「篁さん、危ない!」
思わず悲鳴を上げた小百合にチラリと視線を寄越したが、冬湖に動揺した様子はない。
「土谷さん!」
思わず土谷を見上げたが、彼も悠然と見守る体制に入っている。
「放っておいて大丈夫なんですか!?」
「ああ、多分大丈夫ですから。それより小西さんは、すぐにロビーに避難して下さい」
土谷に背中を押されたが、小百合は気丈にもその手を振り払って、その場に踏み留まろうとした。
「やれやれ、俺の周辺には気の強いお嬢さん方が多くて手が掛かる」
その言葉と同時に、小百合の眼前に大きな背中がそそり立った。
どうやら、この場に残って一部始終を見守る事を許可されたらしいが、土谷が万が一の場合には小百合の盾になる気でいる事は明白。
命懸けのこんな場面に自分が存在する事は本来あってはならない筈で、足手纏いなのだと悟ったが、土谷の背中は引くには遅すぎると言外に語っていた。
「無駄な抵抗は止めておけ」
冬湖の冷静な、だがどこか嘲笑を含んだ声音が緊迫するホールの中に響く。
「うるせー!」
宮﨑の指が拳銃のトリガーに掛かった。
「篁!」
そこから先は、まるで映画をスローモーションで見ているかと思うような展開だった。
心地良く響くバリトンの叫び声と共に晃坂と思しき男が、宮﨑の拳銃を蹴り上げる。
と同時に響き渡る銃声。
冬湖が撃たれたのだと思い咄嗟に目を閉じた小百合だったが、その割りに辺りは静かだ。
恐る恐る目を開けると、痛みに悶えながら床に倒れているのは宮﨑で、冬湖は悠然と拳銃を構えたまま真っ直ぐ宮﨑を見下ろしていた。
冬湖の持つ拳銃の銃口から微かな煙が立ち上っている事で、撃ったのは彼女なのだとは理解出来たが、一体どこに拳銃を隠し持っていたのだろうか?
「帯ですよ、お太鼓の帯」
呆れたような口調で土谷が言うのに、小百合は呆然とした眼差しで冬湖を見つめる事しか出来なかった。
「あの、着物で来たのは銃を隠し持つ為ですか?」
「いや、衣装は関係なく愛用銃のベレッタM92はお嬢の標準装備品なので。洋装の場合の携行に関しては、貴女もご覧になっている筈ですが?」
確かに昨夜はコートの下に携行していたが、あれが標準だと言う事は、もっと特異な状況下では一体どうなるのか、想像するだけでも空恐ろしい。
ただ、冬湖と晃坂のコンビネーションは確かに相棒と呼ぶに相応しいものだと、小百合は妙な所に感心した。
後から聞いた話では、晃坂は近接格闘の能力が高く、冬湖は拳銃の腕が全国警察官の中でもトップクラスで、動く的を標的にした場合は選りすぐりのSAT隊員でさえも及ばないらしい。
ほとほと住む世界が違い過ぎると痛感した所で、冬湖達は後でまた伺うと言い残して会館から立ち去った。
-Ⅶ-(最終章)
その後の小百合は、目も回る忙しさだった。
ただでさえ葬儀の担当はハードなのに、そこに事件が重なり、更に会場で銃撃戦。
あの場から早々にロビーに避難させた参列者からの質問攻めの合間を縫うようにして、出棺、出迎え、初七日法要と進めたものの、一生に一度さえ体験しないだろうハプニングに遭遇した後も平静を装って儀式を続行させた小百合の神経は、擦り切れる寸前だった。
あそこまでの大騒動になる事を予測出来ていたなら、教えておいて欲しかったと内心で冬湖に愚痴たが、教えて貰っていたとしたら冷静に葬儀を進められたか、そもそも担当者として会場に立てたかと自答すると、返事に窮す。
とりあえず、中田を呼び付けて同棲中の彼女の家に上がり込んで仕事をサボっていた事と、味の素の一件は厳重に注意した。
「確かに言いにくい事だけど、紛らわしい事をするのは止めてよね」
小百合の苦言に中田はしおらしく頷いたが、恐らく懲りずに今後も同じ事を繰り返す事は目に見えている。
小百合は溜息を吐きながら日報を作成する為に、事務所へ向かった。
事務所前には、遺族である青年の両親が待ち構えており、丁寧に謝意を伝えられた上に今日の騒動にまで言及し、土下座しかねないような謝罪を繰り返すのを押し留めるのに必死になる羽目に陥り、気付けばまた内心で冬湖を罵る事態に陥る。
いい加減うんざりしてきた所でロビーの正面ドアが開く気配に気付いて振り向いたものの、その瞬間小百合は固まった。
心中で散々罵った相手が、相棒と共にそこに立っていたのだ。
「お待たせして申し訳ありません」
台詞は小百合にではなく、遺族に向けられたものである。
とりあえず、まだ掃除が手つかずな親族控え室に四人を通して引き返そうとしたが、冬湖に同席して欲しいと言われ、渋々出入り口の傍に正座した。
冬湖はまず青年の死を悼み、淡々と事件のあらましを説明し始めた。
それによれば、青年は高校時代に虐めにあって以来、不登校気味になっていたらしい。
それでも、何人かの心ある友人に励まされ卒業するには至ったが、精神的心労から大学受験には悉く失敗。
予備校に通い始めたものの、虐めグループに繁華街で遭遇し、金品を巻き上げられ暴力を振るわれた。
「その時、たまたまそこに居あわせ、息子さんを助けたのが宮﨑です」
意外な事があるものだと小百合は思ったが、口は挟まず冬湖の話を黙って聞き続けた。
「宮﨑は、まあ警官である私が言うのもおかしいのですが、面倒見が良い兄貴分と言う事で、下から絶大なる信頼を集めていました」
だからこそ、前歴がなかったとも言える。
宮﨑に助けられたと思う下っ端が、彼の犯罪を自分のものとし、身代わりに警察に自首するという事態が繰り返されていたからだ。
「ヤクザのシノギなんてものは元々非合法な商売ですから、稼ぎなんて殆どありません。そういう意味では、宮﨑も上納金には苦しめられていたようです」
組から、薬には手を出すなと厳命されていたが、それでも手っ取り早く儲けるには薬は欠かせない。
宮﨑は秘密裏に覚醒罪とMDMAの密売を始め、それは起動に乗り、上納金問題から解放された。
「同時に、生来からの見栄っ張りな性格が災いして、シノギが上手くいかない弟分の上納金も肩代わりしていたと思われます」
それは宮﨑自身の信頼度を更に上げはしたが、同時に諸刃の剣となって彼を追い詰めて行った。
「さて、息子さんについてですが、宮﨑はお宅に出入りしていたようですね」
両親は、まさかヤクザだとは思ってもみず、引きこもりがちな息子の良き相談相手として宮﨑の訪問を快く思っていたと吐露した。
「息子さんは宮﨑だけでなく、引きこもっても尚、お友達に恵まれている方でした。つまり、彼は社会から完全に隔絶されてはいなかった。そして、それが悲劇に繋がりました」
ずっと悩んでいたのだろう。
不甲斐ない自分を訪ねて来てくれる友人から聞かされる、大学生活やバイトの話題。
責めない両親。
比べて自分はどうだろう?
そんな時、宮﨑に仕事を紹介された。
「それが、覚醒剤のパケへの小分けです」
彼はすぐにそれが違法なものであると気付いただろう。
「壁際に落ちていたパケに息子さんの指紋が一切なかったのは、彼なりに万が一の場合に自分が犯罪に関わっていたとされる証拠を、ひとつでも減らす方法を考えたからだと思います」
手袋をしたのは、それが大切な商品だからではない。
十代という社会経験が全く無い自分の知識をフル稼働して、犯罪行為の隠蔽を必死で考えた末の策だったのだ。
「この場合の隠蔽とは、自分が逃れる為のものではありません。ご家族へ掛かる迷惑を彼は考えたのです」
両親の瞳が驚愕のあまり見開かれた。
「壁際にパケを落としたのも警察のガサ入れが入った際に、知らない、誰かが落として行ったのだと言うつもりだったのでしょう」
無論、十代の青年の考えた嘘を見抜けないほど警察は間抜けではない。
「自殺された当日も宮﨑は来ていたのではありませんか?」
「はい」
「そして、彼が退居した直後に息子さんは自ら命を絶たれた」
堪え切れず両親が泣き出すのを見て、小百合の中に沸々と怒りが湧き出した。
もう良いのではないか?
もう彼はいない。残された遺族には真実を知る権利があるが、敢えて辛くなる話しをする必要があるのか?
「ちょっと、篁さん!」
小百合が声を荒げるのを、冬湖が手を上げて制止する。
その黒曜の瞳に静かな波が多揺っているのを見た小百合は、思わず声を呑んだ。
この時、冬湖の眼差しが小百合を否定するものだったら引き下がりはしなかっただろう。
だが、そうではない真摯な色合いを見た瞬間、真意は測りかねるものの冬湖が無駄に遺族の傷を拡げる為に事件の経緯を話しているのではないと悟った。
こうなったら我慢比べだ。
小百合は、居住まいを正して続きに聞き入った。
「息子さんは、心根の優しい方だったのですね。だから悩み、苦しんだ。宮﨑には助けてもらった恩義がある。だが、彼に任されている仕事は犯罪に荷担するもの」
死の直前、あの部屋で何が起こったのかは分からない。
だが、青年は作ったパケのうちのひとつをワザと目立つように置き、残りを壁際にばらまいた。
「お恥ずかしながら、我々銃器薬物対策課と麻薬取締部は、宮﨑の犯罪を見逃しておりました。その結果、息子さんの悲劇が起きた。本当に申し訳ありません」
冬湖と共に晃坂も無言で頭を下げる。
拍子抜けとは正にこの事だ。
まさか、経緯説明の為に現れた警官に逆に頭を下げられるなど、両親も思ってもみなかっただろう。
しかも、犯罪に荷担していた息子に気付けなかった両親に対してだ。
「実は、宮﨑逮捕にあたって証拠となった、小分けされる以前に覚醒剤が入っていたとされるビニールなのですが、意外な所から発見されました」
テーブルの上に置かれた『それ』を見た両親、そして小百合は声を無くしたまま凝視するしかなかった。
冬湖の後を引き継ぐように晃坂が話しを続ける。
「素晴らしい息子さんです。何より家族想いで機転が利く。残念な事をしました」
テーブルの上に置かれたのは、今は嫁いで海外にいると言う姉も含めた家族四人で撮った写真が入ったフォトフレームである。
その裏蓋の中に、宮﨑の指紋が付着したビニール袋が入っていたとの説明は、小百合自身のすすり泣きで掻き消された。
何度も頭を下げてタクシーに乗り込む両親を見送る頃には、既に陽は傾き始めていた。
全く何と言う一日だったのだろう。
敵意丸出しの眼差しで背後の冬湖を振り返る。
その出で立ちは和装ではなく、昨夜と同じような大雑把な装いだ。
パンツのベルト部分に特殊警防と手錠が携行されているのも、拳銃携行の所為で左脇部分が盛り上がっているのも昨日と同じで、土谷の言う標準装備そのままの姿だが、今日のあの騒ぎの渦中でもこの標準装備で臨んだのか否かを口にするのは、かろうじて押し留める。
無論、ヤクザ相手の張り込みに際して最悪の場合を想定していただろう冬湖が標準装備で挑む筈がないと推測出来たからだが、冬湖がもう一丁別の拳銃、シグ・ザウエルP230を携行していた事は知る由もない小百合であった。
「篁さんって、冷たいのか優しいのか掴めない方なんですね」
精一杯の嫌味のつもりだったが、冬湖は訳が分からないという表情をし、代わりに隣の晃坂が失笑した。
「いつ、段取りを話し合われたんですか?」
段取りとは、宮﨑の拳銃を晃坂が蹴り上げ、隙を突いて冬湖が撃ったあの場面の事である。
「特に打ち合わせはしていませんが」
ただ何となく、晃坂がこう動くのではないかと思い、実際そうなっただけの事だとの言葉に小百合は呆れるしかなかった。
あの場面で、なんとなくはないだろう。
少なくとも、撃たれる危険性があったのだ。
だが冬湖の見解は違った。
「私が撃たれるのは問題ではありません。それも給料分ですから。ですが、あの場には貴女や参列者が居た」
警察官として、銃撃戦に一般人を巻き込む訳にはいかない。
「でも随分、無謀だと思いますけど」
「貴女ほどじゃない」
どうやら小百合が土谷の指示に従わず、あの場に残った事を指しているようだ。
「あの事で土谷さんが罰せられるなんて事はあります?」
小百合の言葉に、冬湖が忍び笑いを零す。
「勿論です。土谷は万が一の際には貴女の盾になる覚悟でいましたが、彼が斃れ貴女に危害が加われば、当然処罰の対象になります」
立ち上がりながら冬湖は最後にこう付け加えた。
「好奇心旺盛なのは結構ですが、危ない真似は自重して下さい。私は大切な部下を失いたくはありません」
完敗だ。
最後の輝きを残して夕陽が沈み、西の空が朱鷺色に染まる中、小百合の見送りを受けながら冬湖と晃坂は会館を後にした。
「そういえば、あの二人の関係って仕事上の相棒ってだけなのかしら?」
双方共に呼び掛けは『篁』『晃坂』と呼び捨てで色っぽさの欠片もなかったが、二人の後ろ姿は仲睦まじく肩を並べているように見えて仕方ない。
「信頼が愛情に変わる事って、ザラにあるような気がするんだけどな」
例え東京の警察庁と、愛知県警と言う遠距離であっても。
そんな事を考え思わず独白する小百合は、どうやらまだ懲りていないようである。
了