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第九章

三 Lovin'you


 腕の中にはヘネラリーフェの温もり……帰途途中恐らくロイエンタールは至福の刻を噛み締めていたことだろう。だがヘネラリーフェの方はラインハルトに予告したような洒落にならない状況に陥りそうになっていた。安静を保たねばならなかったにも関わらず起きだしたばかりか、傷も塞がりきらないというのに馬の振動に身を任せる。おまけに飛翔までさせて元帥府に殴り込みをかけたとくれば、それはもう体力も気力も限界を越えるのは当然のことであった。
 躰中からすうっと力が抜けたと思ったら酷い頭痛と倦怠感に襲われる。思わず馬からずり落ちそうになり、気付いたロイエンタールが咄嗟にヘネラリーフェの躰を支えた。
「そのまま眠っていろ。落としはしないから……」
 ロイエンタールがあれこれ問い掛けてこないのがこの際ありがたかった。たとえ心配のあまりかけられた言葉であったとしても、今のヘネラリーフェにはきっと応えてあげることもできそうになかったから。結局その後予告通りにヘネラリーフェは寝込むことになる。しかも最初の数日は意識朦朧とした状態にさえ陥った。
 浅く荒い息が、そして夢うつつで苦しげに呻く様子が明らかに薬物中毒の禁断症状であることを物語っている。ロイエンタールは己自身の身体も傷ついているにもかかわらず、そんなヘネラリーフェにずっと付き添った。
 幻覚剤と麻薬系の薬物の混合薬だとリートベルクが言ったとヘネラリーフェは言っていたが、もしそうならそう簡単に薬の魔手から逃れることはできない。幻覚剤は悪夢をもたらし、そして長い時間をかけて、投与された人間の精神を破壊していくのだ。
 意識がまったくない状態ではないものの、今のヘネラリーフェは麻薬の禁断症状に加えて、催幻覚性の著しい薬物を投与されたことで夢と現実の区別がつかなくなっていた。
 夢にうなされるのは辛い……ロイエンタールはそれを嫌と言うほど思い知らされている。そんな悪夢に苛まされる自分をヘネラリーフェは優しく癒してくれた。だから、ロイエンタールがヘネラリーフェを悪夢から守ってやりたいと思うことは自然なことだろう。
 哀しく辛い目に合わせたくない、優しくしたい……ヘネラリーフェへの気持ちを自覚した今、ロイエンタールはただ素直にそう思った。
(大丈夫……俺がついているから……ひとりにしないから……)
 愛している……眠るヘネラリーフェの細く哀しげな躰をそっと抱き締めながら、ロイエンタールは彼女が薬の呪縛から解き放たれるまでずっと耳元にそう囁き続けた。
 トロトロ眠っては目覚め、目覚めてはまた眠りに堕ちる。夢うつつの世界で絶えず自分の耳元に囁かれる、低く響く艶やかな声と力強く優しい手の温もりを確かにヘネラリーフェは感じ取っていた。そして自分がいつも花の香りに包まれていることも……
 そんな彼女が目覚めたのは一体どれほどの日数が経った時だろう。重い瞼をゆっくりと開けると、目の前に白い薔薇の花束。いる筈の人を捜すかのように動かした視線の先にはそれとは別に赤い薔薇の花束が置かれていた。
 この香りだったんだ……絶えず自分を優しく包み込んでくれていたものの正体を彼女は初めて知った。
「気が付かれましたか?」
 掛けられた言葉の方に顔を向けると、ロイエンタール家に古くから仕える執事が心配そうな眼差しでヘネラリーフェを見下ろしている。
 ロイエンタールでなかったことに無意識なところで気を落ち込ませた彼女は、数瞬後に自分自身のその気持ちに愕然とし、脳裏に浮かばせていた者の姿を蹴散らそうと首を振った。あいつがいない方が清々するではないかと……それでもついつい問いかけが口を突いて出た。
「ロイエンタールは?」
「旦那様でしたら元帥府に出府されました」
 仕事に出掛けた? ヘネラリーフェは我が耳を疑った。確かラインハルトは怪我が治るまでゆっくりと休めと彼に言った。それとも自分はロイエンタールのあの傷が完治するほど長く正体不明に陥っていたのだろうか?
「一週間ほどです」
 その日数では治るどころかまだ休養が必要である筈だ。それとも意外に軽かったのだろうか? 軍人であるロイエンタールの身体は絶えず鍛え抜かれている。いつどこで不測の事態に晒されるかわからないし、体力のあるなしで生死が決まることもあるのだ。もっとも、宇宙空間で戦艦ごと吹き飛ばされてしまえばそんな努力も水泡に帰すというものなのだが……
「お止めしても聞いて下さるような方ではありませんから」
 ということは、無理を押して出掛けたのだ。どうしてそう自分を苛めるのだろう? だがそう考えた時、またしても自分がロイエンタールの身を心配していることに気付きその考えを振り払おうとした。
(別にあいつがどうなろうと知ったことじゃない筈よ!)
と割り切ろうとするもののなかなかそうもいかなくて思考がパニックを起こしはじめる。
 そんな彼女の鼻孔を花の芳香がくすぐり、ヘネラリーフェは落ち着きを取り戻すと同時に思い出した。ずっと、夢うつつの虚ろな世界の中で絶えず自分を包み込んでいた香りと、そして低く響く艶やかな声の存在を……
 愛している……冷たくて、でも暖かな指がヘネラリーフェの髪に絡み、頬に触れる。あれは気の所為だったのだろうか? それとも……
「これは?」
 目の前と傍らに置かれた花束を見やりながら執事に聞いた。
「旦那様からのお礼だと……」
 お礼? 元帥府に乗り込んだことくらいしか思い当たらないが、そうだと思って良いのだろうか。
 ちなみにロイエンタールの気持ちは少し違った。確かにヘネラリーフェが直接ラインハルトの前に現れロイエンタールの無実を訴えたことは省けないが、すべてではないにしろ、今回のこの騒動の元々の原因はロイエンタールにあった。その詫びの気持ちも花束に込められているのだ。
「お礼か……感謝されるようなことは何もしてないのだけど……」
 ロイエンタールを庇う為に動いたのではなく、あくまでもリートベルクへの私怨だったのである。それでもヘネラリーフェはロイエンタールの気持ちをありがたく受け取ることにしたのだった。
 それから毎日、ヘネラリーフェの枕辺に花が届けられるようになった。赤と白以外にも色とりどりの薔薇、百合、トルコギキョウ、カラー、カトレア、ブルーレース、そして秋の便りのつもりなのだろうか……可憐なコスモスなどなど、花屋を一軒買い占めでもしたかのように、毎日毎日両手で抱えきれないほどのそれが届けられ部屋を占領していく。
 当分はベッドの住人になることを言い渡されていたヘネラリーフェはその香りに包まれながら、またロイエンタールの心遣いにも包まれて眠ることになる。
 だが、そこまでしながら肝心のロイエンタールはその後一向にヘネラリーフェの前に姿を現さなかった。一週間とは言え出府しなかったことで仕事のツケが回ってきたのだろうか? 
 だが、ひょっとしてヘネラリーフェに逢いたくない理由でもあって尋ねて来ないのかもしれないと思うと、口では逢えなくて清々すると言いながらも内心はかなり複雑で落ち着かなかった。
 ロイエンタールの方の本心はどうだったのかというと、勿論逢いたくない筈はない。だが勢いに任せて告白してしまいそうな自分を持て余し、ついついヘネラリーフェの元に足を向けることを躊躇していたのも事実なようだ。
 忙しさにかまけて帰宅が深夜に及ぶことも多々あったので、あながちそれだけが理由とも言えないのだが。それでも深夜、ヘネラリーフェの部屋の前で安らかに眠る彼女の様子を窺うように静かに佇むロイエンタールの姿を使用人が見かけることも時折あったようだ。
 そんな日々の中でも相変わらずヘネラリーフェに花を贈ることをやめようとはしなかった。とにかく毎日のことで、前日に贈られた花が枯れる間もなく翌日には別の花が贈られる始末である。今にヘネラリーフェ自身が花に埋もれてしまうのではないかとさえ思えるほどのスピードでそれらは贈り続けられていた。気持ちを自覚した途端にこれだ。やることが極端すぎると言えなくもない。
 さすがにこのまま貰いっぱなしというのも気が引け、彼女は執事に頼んで感謝の意味を込めて、贈られる花に対しての更にお礼をロイエンタールへ届けて貰うことにした。
 深夜ロイエンタールが帰宅し居間でくつろいでいると執事がコーヒーではなく紅茶を運んでくる。コーヒー至上主義ではないロイエンタールは何も言わずカップを口元に運び、そしてその香しい芳香に気付いた。薔薇の香り……無言で執事を見やる。
「お嬢様からの贈り物ですよ。毎日届けられる花の香りへのほんの気持ちだそうです」
 ロイエンタールの贈った薔薇をヘネラリーフェがポプリにしたものを紅茶に混ぜて使ったのだと彼は付け加えた。
 まいったな……ロイエンタールはクスリと笑みを洩らした。本当に適わない。あの大きな心と優しさ……彼女への想いが益々高まりそうだ。
本気でまいってしまったようだった。そのまま暫くの間、ロイエンタールはその優しさ溢れる芳香に身を任せ、そして……

 冷たい指が頬から口唇へ移動しそっとそれをなぞる……この感触を私は知っている……眠りに堕ちていたヘネラリーフェの意識が浮上した。
 ヘネラリーフェが目を開き暗闇の中を静かに見渡すと、顔のすぐ横のベッドの端に誰かが腰掛け自分を見下ろしているのが気配でわかる。灯りをつけるまでもなく、カーテンの隙間から漏れる星明かりでその人の冴えた蒼い方の瞳が一瞬きらめいた。
 躰の向きを変えるとヘネラリーフェは頭のすぐ傍らに置かれた彼の手に自分の手を重ね静かな声音で問い掛けた。なんとなくいつもと様子が違うように思え気になったのだ。
「なぁに?」
 問い詰めるようなものでなく優しく問い掛けるような柔らかなその声で、ロイエンタールはヘネラリーフェが起きていたことにようやく気付いたようである。一瞬バツの悪そうな表情が過ぎった。
「起こしてしまったか?」
「気にしなくても良いわよ。どうせ昼間にたっぷりと……」
 眠っているのだから……という言葉は言わせてもらえなかった。彼の両腕が顔の両脇に置かれたと気付いたときには既にロイエンタールの端正な顔が至近にあり、そして口唇が重ねられた。
 だがその口付けはこれまでのような蹂躙するような激しいものではなく……最初は啄むような軽いキス、冷たい舌がヘネラリーフェの柔らかな口唇をなぞる。強引ではなくそっと慈しむようなその動きに彼女が口唇を緩ませるまでロイエンタールはそれを続けた。
 くすぐったいような舌の動きと極上のベルベットのような感触にヘネラリーフェは思わず強く引き結んでいた口唇を薄く開いた。そこを逃さずロイエンタールの舌が差し込まれる。一瞬だけ逃げをうったヘネラリーフェのそれを捕らえ絡めると、そこからはいつものように激情に流され、口付けは激しく息もできないほどのものへと変化していった。
 ロイエンタールの口唇が頬を経て首筋へとすべりおりていく。更にヘネラリーフェの胸元から手を差し込むと、素肌にそって掌でそっとなぞるようにして彼女の衣服を肩から脱がせた。露わになった白皙の肌に微かに残る注射針の痕と白い包帯が痛々しい。魅せられたかのようにロイエンタールは彼女の華奢な躰を傷を避けるようにして抱き締めた。何度も夜を重ねた躰は癪なことにロイエンタールの身体にしっくりと馴染む。
 ロイエンタールの口唇がヘネラリーフェの肌に残る注射針の後をなぞり、軽く歯を立てた。ヘネラリーフェの躰に力が入る。
「んっ」
 思わず身を竦めるようにして目を閉じた彼女のそんな姿にロイエンタールが動きを止めた。
「嫌か?」
 こんなことを聞いてくること自体が、今夜のロイエンタールはどうかしているとヘネラリーフェは思った。今まで彼女の都合などお構いなしだったのだ。
「嫌だと言ったらやめてくれるわけ?」
 まさかそんなことはありえないわよね……ヘネラリーフェが半ば諦めの境地で紡いだ言葉に対して、ロイエンタールは真摯な眼差しで返した。
「お前が嫌ならもうしない」
 ヘネラリーフェは彼が何を言っているのか一瞬把握しかねた。嘘でしょ!? 内心の第一声はこの言葉だったに違いない。
(ど……どうしちゃったんだろう?)
 何かあったのだろうか? 顔の横に手を付いて自分を見下ろしてくるロイエンタールを見やるとモロに視線が正面からかち合った。金銀妖瞳に微妙な色が帯びている。それが何なのかを把握する前に、ロイエンタールがヘネラリーフェの耳元に何事かを囁いた。
「愛している……」
 一体何を言っているのだろう? 質の悪い冗談は止めてくれと言いかけて、だがヘネラリーフェは口をつぐんだ。気付けば鼓動が痛いほどに胸を打っている。意識のずっと奥、無意識の部分でその言葉に反応して心がざわめいている。
 愛している……虚ろな意識の夢の中で何度も聞いた春の雨音のような低く優しい囁きと胸打つ切ない響き……私はこの声を、言葉を知っている。あれは気の所為などではなかった……意志に反して頬が熱くなった。自分が赤面しているであろうことがわかる。
 これまでどんな困難な戦況にあっても、内心はともかく表面的には顔色ひとつ変えることのなかった自分が、たかだかロイエンタールの一言に動揺し落ち着きをなくし、そして表情を作ることさえできなくなっているなんて……それが更なる動揺を引き起こしてしまう。
「冗談はやめ……」
「冗談だと思うか?」
 思わずロイエンタールがいる方とは逆のベッドの端に逃げ込んだ。傷の痛みなど既に吹っ飛んでいる。躰を起きあがらせると羽根枕を抱えて座り込んだ。
 そんな露骨に逃げなくても……ロイエンタールの眼に苦笑が浮かび上がるのが見て取れた。
「お前は俺が嫌いか?」
 嫌いに決まっているではないか。貴方が私にしたことを忘れたのか? 喉元まで出かかった言葉を、だがヘネラリーフェは呑み込まざるをえなかった。言えなかったのだ。本心の筈なのに言おうとした言葉を何故だかわらない胸の痛みが止めた。それにそれだけではない、もっとはっきりとした理由もあったのだ。
 嫌いか? と聞いてくるロイエンタールの左右色違いの眼が切なげに揺れている。まるで縋り付くようなその瞳にヘネラリーフェは嫌いと言いかけて別の言葉を紡いでしまっていた。
「嫌い……じゃないわ……」
 お人好しにも程がある!! ヘネラリーフェは自身を罵倒したが、だが不思議なことに心の中は意外にも静穏だった。嬉しそうな顔をしたロイエンタールの表情に確かに自分も苦笑とは言え笑みを誘われていたのだ。
 優しくすれば自分の心も優しくなれる。わかりきっていたそんな基本的なことを、ここ数ヶ月の間にすっかり忘れ殺伐としていたようだ。
 ラインハルトにヘネラリーフェの存在が知れたことで、だが彼女の置かれた立場もロイエンタールとの関係も特に変わることはない。変わったことがあるとしたら、大手を振って出歩けるようになったということくらいだろうか。
 それでも捕虜であることに変わりはないのだから、やはり今まで通り閉じ込められ服従を強いられる生活になることは否めないだろう。しかし二人の関係は少々違うものになるのかもしれない。
 結局言葉通りにロイエンタールはヘネラリーフェに対して彼女の嫌がることを強要することもなく、だが私室に戻ろうとするロイエンタールの背中にどことなく孤独感を感じ取ったヘネラリーフェは、大馬鹿者!! と自らを罵倒しながらも上掛けの端を持ち上げベッドに入るように無言でロイエンタールを促した。そのまま二人は闇の安寧に抱かれるようにして安らかな眠りへと堕ちていく。
 離れて眠っていた二人が徐々に近付き、いつしか抱き合うように寄り添って眠るのを、秋の夜空で青白く輝く星だけが静かに見守っていた。
 翌朝ヘネラリーフェが目覚めるとロイエンタールは既に出府した後だった。相変わらず花に占領されゆく部屋でヘネラリーフェは自分の心がどこか満たされていることに気付く。だがそれをヘネラリーフェは意志の力で頑なに拒否しようとした。
 ロイエンタールの自分への気持ちが嬉しくないといえば嘘になるだろう。嫌いじゃないが多分好きでもない。自分を滅茶苦茶にした男を許せるのか……そんな想いが強い今は、どれほどロイエンタールへの認識が変わろうとも関係修復はあり得ないとも思えるのだ。
 考えながら寝返りを打つ。躰の下に何かがあることに気付いたヘネラリーフェはそれを手探りで探し当て、そしてその瞬間彼女の周りだけ刻が止まった。
「どうして……どうしてこれがここに……」
 星に願いを……花の芳香に包まれるその部屋に優しさと切なさに彩られたそれが微かな旋律として響くように流れる。銀色のロケットが哀しげにヘネラリーフェの手の中で柔らかな光を放っていた。

 

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