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第七章

六 胡乱


 身元を洗う必要はない。リートベルク伯爵はヘネラリーフェが何者なのかを知っているのだ。
「覚悟しておいた方が良さそうね」
 今頃勝利の美酒に酔っていることだろう。これでロイエンタールの決定的な弱味を掴んだと。
 私邸に、誰にも知られることなくゴールデンバウムの血を引く、しかも十数年前から行方不明になっていた侯爵家の娘を匿っている。自分が手を下すまでもなく自滅してくれたようなものだとばかりに……
 このことに関して、ロイエンタールの親友であるミッターマイヤーが知らぬ筈はないので、正に瓢箪から駒状態でローエングラム公から双璧を削ぐことができるかもしれないと高笑いしているのかもしれない。
 きっと亡き父レオンを殺したのはああいう輩なのだろう。彼の父親がレオンの謀殺に関与していたかどうかを確かめる術はないが、それが例え感情論だったとしても、そう思えて仕方ないのも事実だ。 先代伯爵はヘネラリーフェの母に対して邪心を含んでいた。それがレオンに向けられたとしても何等不思議ではないのだ。
 レオンを亡き者にした後、ヘネラリーフェをどうする気だったのかはわからないが、財産をせしめる為にも恐らく息子であるリートベルク伯爵と結婚させ、その挙げ句に古来からの貴族の常套手段で毒殺でもされていたのかもしれない。
 それか、一生いびられ精神的に追い詰められ自殺か狂死か、そこまでいかなくても正気を失うくらいにはなっていたかもしれない。あの時悪戯心が芽生えてレオンの艦に忍び込まなければ……偶然なのか運命の妙なのか、だがあの時ヘネラリーフェの人生が変わった。
 では今こうして帝国に戻ってきたのはなんなのだろう? ヘネラリーフェはふとそんなことを考えた。戦闘中に捕虜になった……ただそれだけのことなのだろうか?
 リートベルク伯爵が従兄弟だと言っても家系は違うのだ。例えば彼とヘネラリーフェの父親同士が兄弟であるなら『家』という意味では同じものだ。だが、母グロリエッテがブラウシュタット家に嫁いだことで、二人は同じ家の人間ではないことになる。つまり血の繋がりはあるもののリートベルク伯爵家にヘネラリーフェはなんの関わりも責任もないのである。
 子供の頃に酷い仕打ちを受けたことは忘れていない。いや、すっかり忘れていたのだがあの男のことを思い出したと同時に脳裏に甦った。嫌な想い出であることにかわりはないが、だがヘネラリーフェはそれを覆い尽くすほどの楽しい思い出をハイネセンで手に入れている。
 それ故、帝国で暮らした十年間をすぐには思い出せないにまでに記憶層から排除していたのだ。覚えておくほど貴重な想い出でもないし、まあ、良かったことといえば、何をされても平然としていられるようになったことぐらいか。
 それはともかく、今更仕返しする気も意味もない。だが、妙なものでそうとわかっていながらただ見過ごすことができない想いが心の奥深いところに確かにあった。もしかしたら、自分はその為にここにいるのだろうか? そんな考えがチラリと浮かんだ。
 ロイエンタールの足を引っ張るということだけに着目すれば、これはある意味チャンスなのだろう。あの男と手を結ぶなり、そうでなくても自分のことを軍部に密告してやれば良いのだ。
 しかしそうしたとき、どうしても無視できない問題がもうひとつ出てくる。ヘネラリーフェが同盟軍将校であるという事実……これがバレたときの方が、皇族の血を引く侯爵家の娘という以上にやっかいなことになると確信できるのだ。
 貴族の血を引くというくらいでは殺されないだろう。自分自身で手にいれたものでもないのに当然のように家を継ぎ、自分自身にはなんの力もないのにそれが全て自分自身のものであるかのように権力を行使する。それが気に入らないからローエングラム公ラインハルトは貴族を憎んだ。
 だから、逆に言えば自分が望みもしないのにたまたま貴族の家に生まれてしまっただけの者に対して極刑を言い渡すことはできない筈なのである。しかもヘネラリーフェの父はラインハルトが憎むべき人種に殺されたも同然であり、さらに彼女は十数年も行方不明だった。 
 もしヘネラリーフェが一部の腐りきった貴族の行状をどう思うかと問われれば、ローエングラム元帥府に名を連ねる者達と同じ意見を苛烈に吐いていただろう。
 民主主義の同盟で育ったということもあるが、だがそれだけではなく……そう、もしヘネラリーフェが帝国で育っていたら、恐らくリップシュタット戦役でラインハルトの元にいの一番にはせ参じていたと確信できる。だが彼女は同盟の将官なのだ。侯爵家の娘であることに関しては悪くても流刑くらいにしかならなくても、それが敵軍の司令官ともなると話は別である。例えそれが女性であっても……
 それならリートベルク伯爵がヘネラリーフェを皇族の血を引く侯爵家の娘と密告してくれる方がまだマシだろう。いや、きっとヘネラリーフェの正体を知っているあの男のことだから、これ以上ロイエンタールの身辺を調べまわることなく何等かの手を打ってくるだろう。
「昔から自分の手を汚さず、楽して得してって嫌な性格だったのよ」
 それではヘネラリーフェとは相容れないだろう。ヘネラリーフェはどんな時も手を抜いたことのない人間なのだ。そして恐らく彼女のことだから、やられたらやられっぱなしではなかった筈だ。
 ヘネラリーフェの性格の大部分はビュコックやダグラス、そしてヤン艦隊の面々に培われたものであるが、それでも持ってうまれた気質というものがある。今のヘネラリーフェの根底にある子供の頃の彼女が、苛められた仕返しをしない筈がないのである。リートベルク伯爵が二倍、いや、一〇倍返しにくらいの目にあっている可能性は高い。
 リートベルク伯爵へのいわば悪口雑言とも言える言葉を吐くときのヘネラリーフェの非友好的な態度を目の当たりにしたロイエンタールとミッターマイヤーは,幼い頃のリートベルク伯爵の襟首にヘビや蛙を突っ込むヘネラリーフェの姿を想像してゲンナリした。
 いや、ヘビや蛙を思い浮かべたことにこれといった根拠があるわけではない。ただ、なんとなく……でも当たっているところが恐かったりして。
「これからどうしましょうねぇ」
 危険に晒されているとは到底思えない、まるで他人事のような口調でヘネラリーフェがサラリと言った。
 リートベルク伯爵がどう動くのかわからない今、下手にこちらから動くことはできない。だが動き始めたら手を打つ間もなくヘネラリーフェとロイエンタールに捜査の手を伸ばしてくることだろう。自らで動くか、それともオーベルシュタインに密告でもして憲兵隊を動かすか……
「捕まって尋問を受けた場合、自分自身どこまで耐えられるのかわからない。自白剤を打たれるくらいならなんとかなるかもしれないけど薬物の種類にもよるわね、きっと。拷問にまで発展すると……ちょっと自信がないなぁ。そして、あの男は手段を選ばない。そうなったとき、私は恐らく自らでこの命を絶つ……」
 素人はある意味平気で反則ワザを使ってくるということをヘネラリーフェは知っている。リートベルクがそういう類の人間であるということもだ。
「フロイライン……」
 淡々と言葉を紡ぐヘネラリーフェにミッターマイヤーは彼女の覚悟を思い知らされた。つい今し方覚悟を決めたわけではないのだろう。そう、恐らく軍人として最前線に送られたときから……
 誰にも迷惑をかけるわけにはいかないのだ。大嫌いなロイエンタールが蹴落とされるくらいならともかく、どうやらそんな次元で済みそうにはなさそうである。もし自分が同盟の機密を漏らしてしまったら……帝国軍人の全てがミッターマイヤーのような公明正大な人間ではないのだ。
「そんなことはさせない」
 だが、ロイエンタールの口からそんな意外な言葉が漏れた。いや、実はロイエンタールが意外と情に厚いということはミッターマイヤーも、そしてヘネラリーフェも知っている。
「たかが捕虜に気を使う必要はないわよ」
 そもそも捕虜となった時点でこうなる筈だったのだ。それがロイエンタールの彼自身にもわからぬヘネラリーフェへの執着で多少問題はあるものの一応は安寧と言える日々を送ることになってしまった。
 助けてもらった恩を感じているわけではない。それどころかヘネラリーフェの失ったものを思えば恩どころか恨みや憎しみを一〇〇万光年分くらいぶつけても良いくらいだろう。そう、ロイエンタールを助けてやる義理などないのだ。だが……自分の中でどこか割り切れなさが残っている。
 確かに、ヘネラリーフェに絶対服従を誓わせ手込めにした最低男だ。大嫌いだし、この先も好きになれそうにはない。だがどんな酷い扱いをしようがロイエンタールはヘネラリーフェをリートベルク伯爵のような眼差しで見はしなかった。冷酷で冷淡な表情の裏で確かに公正な優しさを垣間見せていてくれたように思う。
 イゼルローン回廊での戦闘で再起不能と思われるほどの怪我を負ったヘネラリーフェがここまで回復したのは紛れもなく彼のお陰だ。多少腕に力が入りにくかったり足を引きずるものの平素の生活には支障なく動けるようになったのも、忙しい合間を縫って根気よくリハビリに付き合ってくれたから……
「無茶はしない方が良い」
 ミッターマイヤーの口から聞き慣れた言葉が流れた。イゼルローンで何度も何度も聞かされた言葉……
「無茶無謀は私の専売特許なのよ。言っておくけどあんたを庇うつもりは毛頭ないからね。私は私のやりたいようにやらせていただくわ」
 あのリートベルク伯爵などより恐らくロイエンタールの方が人間的に遙かにマシだと思えるから……そう思わなければやり切れないだろう。
 だからと言って、このままみすみすあの男の思い通りに引っかき回されて良いものなのだろうか……ミッターマイヤーは逡巡した。
「ケリを付けたいのよ、あの男と……幼いころに付けそびれたね。これは私怨……貴方達が思い煩う必要はない」
 キッパリと言い放つヘネラリーフェの強い眼差しにロイエンタールとミッターマイヤーは呑まれた。
 二人の間に何があったのだろう? 先刻聞いた話以外に何かあるのだろうか? だがあまりに潔いその態度にロイエンタールは何も言えなかった。ただひとつ考えていたことがある。あの男の思い通りにさせはしないと……
 確かにヘネラリーフェは捕虜だ。服従を強要したのは他ならぬ自分だし、彼女の躰を奪ったのも自分……それを悔やむことがないかわりに、そんな己自身に最高級の冷笑を浴びせ……
 軍人としての自分が何をすべきかはわかっても、私人としてどう動けばいいのかわからぬ苛立ち。ただ守ってやりたいのだという気持ちに、だがロイエンタールはまだ気付けなかった。
 そして、事態はヘネラリーフェの危惧したように急速に動き始めたのだった。

 

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