浮気心
「ちょっと右を見て」
「はい」
「今度は正面ね」
「はい」
「はい、笑って」
銀の妖精がカメラに向かって優しく笑い掛ける。
その途端に、スタジオは惚ける溜息で一杯になったのであった。
撮影を終え、スタジオを出ると、バッタリとカップルに出逢った。
長身に引き締まった体躯の持ち主である金銀妖瞳を見た途端、マリアは叫んでいた。
「あああ~~~~!!!」
相手はきっと心の中で『ゲゲっ』と、思ったことだろう。
「ロイエンタール元帥、こんな所で何しているんですかぁ?」
「何って、見ての通りですが?」
「つまり、浮気ってことですね」
マリアの言葉に、ロイエンタールは言葉に詰まった。
「いけないんだぁ~ リーフェに言い付けちゃおっかなぁ」
ロイエンタールが眉を顰めた。
ヘネラリーフェは、ロイエンタールの浮気の1つや2つ、いや、10や20ごときで怒るような女ではないが、だが知った時に良い想いをしないことは分かり切ったことだった。
「口止め料が欲しいわ」
悪戯心がムクムクを頭を擡げたらしいマリアの言葉にロイエンタールは
「何が欲しいのですか?」
と、問うていた。
既に傍らにいる女の存在など、空のどこかに行ってしまっている。
故に、
「オスカー」
という、甘さを含んだ鼻にかかる女の甘ったるい声へのロイエンタールの反応は、冷淡なものだった。
「帰ってくれ」
「な、何よ、馬鹿にして!!」
女がヒステリックに叫ぶが、そうなればそうなるほど、ロイエンタールの態度は冷淡になる。
マリアは女が哀れになったが、ロイエンタールはマリアの肩を抱いてサクサクと歩き出してしまった。
「良かったんですか?」
たまりかねてマリアが尋ねるが、ロイエンタールの返事はこれまた冷淡なものであった。
「どうせ一夜限りのつもりだったのです」
手早く手が切れて儲け物だと言うものだ。
「でも、リーフェが悪く言われたりしないかしら?」
「その時は、こちらも容赦はしない」
女相手でも、徹底的に潰して、社会的に抹殺してやる。
マリアは、ロイエンタールならきっと躊躇なくそういうことをしてのけるのだろうなと思った。
結局、どんなに漁色に走ろうと、ロイエンタールにとってのOnlyOneは、ヘネラリーフェただ一人なのだ。
だったら、何故浮気をするのだろう?
マリアは、ロイエンタールに興味を持った。
「で? 口止め料には何が欲しいのですか?」
「そうね……今している指輪に合わせてネックレスが欲しいわ」
ロイエンタールが見やると、白磁の細い指には、プラチナ台と思われる真珠の指輪が柔らかな輝きを放っていた。
「黒真珠か」
良い物だと思った。
何より、白い肌に白銀の髪を持つ妖精には、白真珠よりも黒真珠の方が似合う。
だが、白真珠が人間の化身と化したなら、きっとマリアのようになるんだろうなとも、思った。
ちなみに、ヘネラリーフェは、金真珠の化身だろうか……
(リーフェにも、何かアクセサリーを買っていってやろうかな)
ロイエンタールがそう思ったことは、言うまでもない。
「ところで、肝心のリーフェはどうしたんですか?」
「あいつは、今、俺のことに構っていられる状態じゃないんです」
「と言うと?」
「書類の束に埋もれています」
「あやや~ 中将閣下ともなると、大変なのね」
「副官にやらせれば良いことまで、あいつは背負い込むから」
「その副官さんは?」
「ファーレンハイトの恋人です」
それ故に、折角恋人と一緒にいる副官セレスを呼び出すのは悪いとヘネラリーフェは考えているらしい。
だが、ロイエンタールにしてみれば、こちらのことも考えて欲しいと思うのであった。
話しながら暫く歩くと、一件の宝飾品店に行き着いた。
ロイエンタールの馴染みの店である。
入ると、眩しいばかりの宝飾品の数々が目に飛び込んできた。
ロイエンタールは、迷うことなく黒真珠が飾ってあるケースの前に歩いていく。
「どういった物が良いですか?」
「と言うと?」
「シンプルに、一粒だけのペンダントタイプにするか、ネックレスにするか」
マリアは暫く考え込んでいたが、ニッコリと笑いながら言った。
「元帥のお好きな物を選んで下さい」
以前、リーフェが言っていた。
ロイエンタールは、それはオシャレさんで、センスが良いのだと。
「リーフェのお洋服も、殆ど貴方が選んだ物だと聞きましたわ」
「あいつなら着こなせるだろうと思って選んだだけです」
それに、ヘネラリーフェもロイエンタールに負けず劣らずセンスが良い。
「リーフェにも、何か買っていってあげてはどうです?」
「そうですね……」
ロイエンタールは、だが悩んだ。
ヘネラリーフェの瞳の色である青緑色(エメラルドとか翡翠とか)の宝石も良い。
だが、金真珠も捨てがたい。
結局ロイエンタールは、双方の宝石の指輪とネックレスとピアスを買い込んだ。
「あら、リーフェってピアスなんですね」
「戦闘での負傷で一度塞がったのを、私が針で開けました」
「は、針で?」
「そうです」
「麻酔は?」
「無しです」
マリアは、耳朶を押さえながら顔色を変えた。
「痛いじゃないですか、そんなことしたら!!」
「当時、リーフェは捕虜で……」
「捕虜だから、そんな酷いことをしたんですか!?」
「あいつを見ていると、今も過去も、自分を押さえきれないのです」
それにヘネラリーフェ自身も言っていた。
ロイエンタールがやらなければ、いずれ自分で開けていたと。
「そもそも、最初に穴を開けたのも、麻酔無しの上に針だったと聞いています」
「幾つの時なんですか、それ?」
「12歳位の時だったと思います」
とんでもなく度胸のある子供だと、マリアは思った。
思えば、ウイルリッヒ兄様に連れていってもらった自然公園で初めて出逢った時も、危うく誘拐されそうになっていたマリアを助ける為に、相手に飛び蹴りを食らわせたような女だったのだ。
度胸と生存能力と危機管理能力の成せる技だろう。
マリアは、ヘネラリーフェのことをもっと知りたいと痛切に思った。
結局、その店でロイエンタールは、マリアに黒真珠の40センチのネックレスと同じく黒真珠のイアリング、それにブレスレットをプレゼントした。
白磁の肌にはピアスの方が似合うと思ったのだが、生憎マリアはピアスの穴を開けていなかったのだ。
「モデルなんてしていると、宝石もとっかえひっかえ付け変えなくてはならなくて……」
それ故に、穴は開けられないと言う。
宝飾品店を出ると、ロイエンタールがマリアを更に誘った。
「折角の黒真珠に合うドレスも見繕おうと思うのですが、依存は?」
ヘネラリーフェのことを聞けるチャンスを逃すマリアではなかった。
***
ロイエンタールは、やはり馴染みのブティックにマリアを連れて行った。
「色は何がお好きですか?」
何気に聞くと、マリアの表情は曇った。
「昔、クソ爺のお人形をしていた時は、白ばかりを着せられていたんです」
そう言えば……ロイエンタールは思った。
既に名前も定かではないが、あの家の娘と付き合っていた時、マリアの姿を見たことがあった。
あの時、白磁の肌に白銀の髪を持つマリアが白いドレスを纏っていたのを見て、ロイエンタールは趣味が悪いと思ったものだ。
「そうですね、貴方には濃い色の方が似合いそうですね」
瞳と同じ濃紺でも良い。それなら、襟やウエストのリボンを白にしても映えるだろう。
浅葱よりは緑青。
薄紅色よりは紅。
薄荷よりは翡翠。
竜胆よりは桔梗。
支子よりは鬱金。
「紅、紅が着たい!!」
マリアは思わず叫んでいた。
「華やかで、似合いそうですね」
ロイエンタールはそう言うと、店の中の尤も奥まった場所にあるドレスの中から深紅のサテンのドレスを選んでマリアに試着させた。
試着室から出てきたマリアの姿に、ロイエンタールは思わず目を細める。
全体は紅で、ウエスト部分と襟の部分は黒だ。
華やかさの中にも、黒が引き締める側に回っていて、マリアの美貌をより引き立たせていた。
「綺麗ですね、それにしましょう」
ロイエンタールがカードを取り出す。
「宜しいのかしら? こんなに色々買って頂いてしまって」
「気になさらないで下さい。私が飾り立てたいだけですから」
それって、リーフェにしてあげた方が良いのじゃないかしら……と、マリアは思ったが、それを口に出すことはしなかった。
(きっとロイエンタール元帥のことだから、十分に飾りたててあげているのだろうし)
ついでに黒のエナメルの靴も買って貰い、二人は街を歩き出した。
擦れ違う人々が、皆二人を見て振り返る。
ロイエンタールは、ヘネラリーフェを伴っている時とはまた違った意味で、優越感を抱いた。
尤も、こんな所をケスラーに見られでもしたら、鉄拳が飛んできそうだが。
マリアはロイエンタールに誘われるがままに、ホテルの最上階にあるレストランバーに入った。
夜景が美しい窓際の席に座り、オーダーを済ませる。
そこで漸く二人は落ち着いて向きあった。
「今日はありがとうございました。色々買って頂いて」
ほんの冗談のつもりで口止め料を依頼したのが、とんだ散財をさせてしまった。
「私が好きでしたことですから、お気になさらず」
ロイエンタールは涼しい顔でそう言うと、マリアに問い掛けた。
「今日、私に付いてきたのには、理由がありそうですね?」
「それは……」
マリアは俯きながら、しまったと舌打ちをした。
やはり、さすがのロイエンタールだけのことはあって、媚態は通じなかったようだ。
マリアは、怖ず怖ずと口を開いた。
「リーフェのことを、もっと良く知りたくて」
「あいつのことは、オーベルシュタインに聞いたでしょう?」
「そういう外見のことではなくて、もっと内面的なことを知りたいのです」
「内面的なことですか……」
ロイエンタールは正直困った。
自分はヘネラリーフェの全てを知っているつもりでいる。だが、果たしてこの、元先輩であるマリアに話せるようなことを知っているのか、不安になったのだ。
「では、貴女の方から質問して下さい」
その上で、自分に答えられることなら答えましょう。
「では、まず出自から」
ロイエンタールは答えた。
「あいつはブラウシュタット家の一人娘です」
ブラウシュタットは侯爵家で、彼女の母親は当時の皇帝フリードリヒ4世の従姉妹姫だった。
「皇族の血を引いていたんですか」
「そうです」
だが、彼女は産まれながらに持った地位を由とはしなかった。
「あいつには、地位も富も権力も、あの美貌も、ましてや皇帝の寵愛も必要なかった」
いや、悪戯に皇帝の寵愛などを受けてしまったが為に、父親を失ったも同然だったのだ。
「お父様は軍人だったんですよね?」
「そうです。27歳で元帥にまで上り詰めた」
その昇進の速さは、カイザーラインハルトと同等、いや、それ以上かもしれない。
「お父様は、いつも宇宙に?」
「ええ……」
「彼女、どんな想いで、お父様が出撃するのを見ていたのかしら……」
「寂しかったと言っていました」
寂しくて寂しくて……広い屋敷の中で、膝を抱えて父親の帰還を待ち望んでいるような子供だった。
「だが、リーフェは私とは違い、人に甘えられることの出来る人間でした」
一人で食事をするのは嫌い……だから、彼女は同じ食卓に執事やメイドを同席させた。
「そして10歳でお父様を亡くした」
「ブラウシュタット元帥は、娘の将来を想って、自沈されたのです」
それも、ヘネラリーフェの目の前で艦を爆破させた。
「炎に包まれる艦をどんな想いで見ていたのかしら」
「ビュコックの親父さんからは、涙も流さず、ただじっと見つめていたと聞いています」
だが、ビュコックの腕に抱かれながら、その心は慟哭の渦に巻き込まれていたことだろう。
「同盟に亡命して、全く新しい環境にたった一人放り込まれて、それで彼女は幸福だったのかしら?」
自分は寂しかった。攫われて、玩具のように扱われていた日々、マリアはお家に帰りたくてしょうがなかった。
それはボリス・コーネフの手を借りて同盟に亡命した後もそうで……
「幸福だったと思いますよ」
ビュコックは、引き取ったヘネラリーフェを実子以上に大切に育てた。
一時期ぐれた時期があったようだが(おかげで喧嘩も強くなったし、針金一本でキーロックの解除まで出来るようになった)それも、家族の深い愛情を受けて、やがて拘りは霧散した。
最初こそ新しい家族に馴染めなかったヘネラリーフェも、彼等の暖かい愛情に徐々に応じるようになった。
「そしてあいつは、より以上の存在に出逢った」
それがダグラス=ビュコックだ。
「でも亡くなったんですよね、その方?」
「そうです……私が殺しました」
カプチェランカの白い世界で、手に掛けた。
今も忘れられない。血に染まりながら、必至の想いでヘネラリーフェの身を案ずるダグラスの姿……そして、手に掛けた人間に一番大切な存在を託したダグラスの心……
「それからどうしたのかしら?」
「心を閉じてしまったんです」
ダグラスの葬儀の日、彼女は涙を見せることは無かったと言う。
「でも、婚約までした仲でしたから、恐らく一人になった時に……」
声を殺して泣くヘネラリーフェの姿が容易に想像出来た。
それは士官学校を卒業して従軍しても続いて……
「でも、あいつは再び出逢った」
ヤン・ウェンリーに、そして第13艦隊の面々に。
正に運命の出逢いだった。
「でも、私との戦闘で負け」
そしてヘネラリーフェを捕虜として帝都に連れ帰り、嗜虐の限りを尽くした。
「それでも、あいつの瞳の輝きは失せなかった」
どんなに酷い扱いを受けても、あの瞳の光の強さは消え失せることはなかった。
「私の生い立ちは、お世辞にも幸福とは言えるものではなかった」
故に、悪夢に苛まされることはしょっちゅうだった。
「そんな私を……憎い筈の私を、あいつはあの優しい腕で抱き締めてくれたんです」
そして、ロイエンタールはごく自然にヘネラリーフェを愛した。
だが、そんな心をなかなか認められなくて。
「おかげで、随分と遠回りをしてしまいました」
特に自尊心の高いヘネラリーフェの方は、なかなか自分の心に気付こうとしなかった。
特にビュコックの命乞いの為に元帥位を与えられ、ヤン・ウェンリーと戦わねばならなくなったとき、ヘネラリーフェの心の均衡は破られた。だが……
「何度もあいつに助けられました」
その最たる事件が、新領土総督だったロイエンタールを襲った叛逆の疑いだろう。
「あいつは、自分の身を挺して私を助けてくれました」
バイエルラインに撃たれ、瀕死の重傷を負い、そうまでしてロイエンタールを守った。
「あの時、あいつは再生不良性貧血という病に冒されていて……」
故に、出血が止まらなかった。
「私はミッターマイヤーの力を借りて、あいつをイゼルローンへ返しました」
そこで、確実に病を治すだろうと思っていた。
そして、二度と逢えないだろうとも思っていた。
「だが、再び戦端の火蓋が切って落とされ……」
二人は、戦火の中で再び相まみえた。
「あいつは、私を殺そうとして、でも殺してくれなかった」
ヘネラリーフェに殺されることを望んでいたのに、殺してもらえなかったのだ。
「あいつも、俺に殺されることを望んでいたようですが……」
だが、彼女は生きている。
「あの時、私達はやっと自分の心に素直になることが出来たんです」
だが、その後ハイネセンの治安を戻す為に、ヘネラリーフェは帰ってしまった。
「でも約束したんです」
必ず帰ってくると……
そして、約束通り、ヘネラリーフェはロイエンタールの元に帰ってきてくれた。
「そして今がある」
でも皮肉な展開は続いた。
「ヤン・ウェンリーから、復帰してくれと頼まれ」
結果、ロイエンタールと一悶着あったものの、彼女はヤンの言葉に従ってしまった。
「じゃあ、リーフェは……」
「そうです。自分の意思で、復職したんです」
そして、中将位を与えられ、外周艦隊総司令官に任ぜられた。
「あいつの出自からもわかるように、あいつは間違いなく支配層の人間です」
でも、ヘネラリーフェはそれを由とはしない。
「だが、復職したことで、あいつは正しく支配する側へと転じてしまった」
「でも私、それは悪いことではないと思います」
支配され続けた数年間、マリアは逆らうことを許されなかった。
足の指にチップを埋め込まれ、逃げようとして電流に感電したこともあった。
鞭で打たれたこともあった。
もしヘネラリーフェだったら、電流などものともしないで逃げおおせていただろうし、鞭を奪って逆襲していたことだろう。
もしかしたら、チップを自分の手で抉り出していたかもしれない。
「ねえ、ロイエンタール元帥。リーフェを一言で言うとしたら、どういう人なのかしら?」
ロイエンタールは暫し考えたが、やがてその端麗な口を開いた。
「優しくて、哀しくて、強くて、脆くて、美しくて、残酷な夜の女神」
「残酷?」
「あいつは、笑いながら平然と人を殺せる女なんですよ」
あの剣技には、俺でも適わない。
そして、艦隊戦も一対一なら、相打ちになりかねない。
「軍人なんてやっているからなのかしら」
「いや、本質的なものでしょうね」
「夜の女神というのは?」
「あいつの異名です」
災いをなすと言われる女神6柱の母と伝えられている女神の名前……
「古代地球の神話ですよ」
それから、あいつの名前……
「ヘネラリーフェは全てを見尽くす者、セレニオンは月光」
彼女は、その青緑色の瞳で世界を見据え、そして孤高の光でロイエンタールを優しく包んでくれる。
「なんだか、寂しいわ」
そう、とっても寂しい恋愛なような気がした。
無邪気にウイルリッヒ兄様を慕う自分とは到底違いすぎると思った。
「リーフェは、ダグラスという人のこと、忘れたのかしら?」
「忘れていませんよ」
私が、忘れる必要はないと言いました。
「ダグラスへの想いもひっくるめて、あいつの全てを受け止めると、私は誓ったっんです」
「貴方は哀しくないの?」
「どうして?」
半年ずつとは言え、いつも傍にヘネラリーフェがいてくれるのに。
「前にあいつに言われたことがあるんですよ」
姿は見えなくても、月はまた月……
「離れていても、私達はいつも一緒です」
そう言って微笑むロイエンタールの表情は、だがマリアから見ればどこか切なげだった。
「おっと、もうこんな時間だ」
マリアがつられるようにして時計を見やると、とっくに日付が変わっていた。
「送りましょう」
ロイエンタールは、マリアを車に乗せると、彼女の滞在するウィークリーマンションへと送って行ったのだった。
マンションに送り、マリアが車から降りようとした時、ロイエンタールは付け足すように言った。
「あいつの危機管理能力や、生存能力は、幼い頃に身に付けたものです」
腐敗した政治の中、ヘネラリーフェの父レオンは門閥貴族に目を付けられていた。彼が死んだのも、結局皇宮政治の腐敗から波及した陰謀の所為である。
「あいつは、産まれた時から危険に晒されていた」
だから、自分で自分を守る術を身に付けざるを得なかった。そう、一刻も早く。
「私も、生い立ちから人より早く大人にならなければならなかった」
だが、ヘネラリーフェの場合はそれ以上だった筈だ……
そう言い残すと、ロイエンタールは走り去ったのであった。
***
翌朝、ロイエンタールが目覚めると、ヘネラリーフェの姿はどこにもなかった。
昨夜(いや、もう今日か)帰宅した際にも、部屋にはいなかったので、恐らくまだ書斎で書類に埋もれているのだろう。
そっと書斎を覗くと、案の定ヘネラリーフェは書類と格闘していた。(←ちなみにこの書斎は、ロイエンタールのではなく、ヘネラリーフェ専用の書斎である)
まったく、彼女の性格を熟知している筈のヤンファミリーが、どうしてこんなに書類を送ってくるのか、会って問いただしてみたくなる。
(せめて副官を使えば、もう少しスムーズにいくだろうに)
副官セレスの事務処理能力は、ヤン・ウェンリーの副官であり妻のフレデリカ以上のものがあると聞いたことがある。
「あいつのことだから、副官への気遣いだけではなく、きっとファーレンハイトのことも好きなんだろうな」
そんなことをポツリと呟くと、書斎の中から人の動く気配を感じた。
再び覗くと、ヘネラリーフェが椅子の上で軽く伸びをしているのが見て取れる。
(どうやら終わったようだな)
ロイエンタールは逡巡すると、階下のキッチンへと降りていき、自分の手でミルクティーを入れると、カップを持って書斎へと向かった。
書斎の扉を開けると、ヘネラリーフェはフランス窓の前に立って、朝日の眩しい外を眺めていた。
扉の軋む気配に、ヘネラリーフェが振り向く。
途端に、笑顔が弾けた。
「ロイエンタール、おはよう♪」
デスクを飛び越えんばかりの勢いで、ヘネラリーフェが抱き付いてくる。
ロイエンタールはカップを落とさないように注意しながら、片手でヘネラリーフェの華奢な躰を抱き締めた。
「ほら、ミルクティーだ」
「わぁ、ありがとう」
ヘネラリーフェが立ったままミルクティーを啜る。
「美味しい♪」
ヘネラリーフェは、カップを置くと、ロイエンタールに抱き付いた。
「お帰りなさい、昨夜は随分遅かったみたいね」
「すまない、ちょっと呑んできた」
誰と?と聞くことはしなかったが、だが彼女の敏感な感覚はロイエンタールの身体に的割りつく『香り』に気付いたようだ。
「女性物の香水ね」
フルール・ド・フルール……
「ミミが好きな香水だわ」
途端に、ロイエンタールの肩がビクリと揺れた。
そこを見逃すようなヘネラリーフェではない。
「ミミに会ったの?」
柔らかく詰め寄られ、ロイエンタールは吐露した。
「会って、一緒に呑んできた」
「悪さをしなかったでしょうね?」
妙なことをすると、憲兵総監に鉄拳を食らうわよ。
「怒らないのか?」
いつも、ヘネラリーフェはロイエンタールの漁色に寛大だ。
それを良いことに浮気をしている彼ではあるが、ヘネラリーフェの大らかな気質が不思議でもあった。
自分はシェーンコップがヘネラリーフェに触れるだけでも許せないくらいの焼き餅焼きだからだ。
「それはね……」
ヘネラリーフェの言葉は、ノックの音に掻き消された。
顔を出したのは執事。
だが、執事が止める間もなく部屋に飛び込んできたのはケスラーだった。
「ロイエンタール、貴様~~~」
ケスラーがワナワナと怒りに震えながらロイエンタールに詰め寄る。
「卿は、ミミに何をした!?」
「は?」
訳がわからんという表情をしたロイエンタールにケスラーは尚も詰め寄る。
「今朝ミミの所を尋ねたら、あいつ『ロイエンタール元帥が』と言って泣き出したんだ!!」
ヘネラリーフェが堪えきれずに笑い出した。
それを見て、ケスラーがヘネラリーフェを見やる。
「フロイラインは、心配ではないのですか?」
「ロイエンタールの漁色は今に始まったことではないし」
それに、今朝はシャワーを浴びた気配もない。
「シャワー?」
「ええ、ロイエンタールったら、浮気して事に及んで帰ってくると、必ずシャワーを浴びるんです」
でも、今朝はそんな痕跡はなかった。
「だから、ミミに手を出したなんてこともないと思いますわ」
だが、それで納得するケスラーではなかった。
「では、何故ミミは泣いているんだ?」
「ロイエンタール、貴方昨夜ミミに何を話したの?」
「お前のことだ」
「私の?」
「お前の生い立ちから今までのことを話した」
「それで?」
「哀しい恋愛だと言われた」
「はは~~ん、なるほど」
ロイエンタールとヘネラリーフェの関係は、他人から見れば少々異質である。
どちらも自分の立場を捨てることが出来ない故のことではあるが、確かに他人から見れば少々哀しい恋愛かもしれない。
「憲兵総監殿、ミミに伝えて下さいな」
私達は、納得している。故に、哀しくなんかない。きっと他人にはわからないだろうが、でも確かに自分達は誰よりも幸福なのだと思う……と。
「貴女は本当に幸福なのですか?」
「勿論」
大好きな人達に囲まれ、好きな仕事をし、そして愛する人の優しさに包まれる。
「これ以上我が儘を言ったら、バチが当たりますわ」
そう言ってウインクするヘネラリーフェの姿を見たケスラーは、結果的に何も言えなかったのであった。
「あのね、私わかっちゃったんです」
「何がですか?」
「ロイエンタールって、凄い寂しがり屋さんなんです」
漁色に現をぬかすのも、恐らくその所為……
「人肌ほど、孤独を払拭してくれるものはありませんから」
だから、寂しいから、ロイエンタールは人肌を、温もりを欲するのだ。
「彼が浮気するのは、だから私が忙しかったり、いなかったりする時だけなんですよ」
尤も、そうと気付いたのは、ごく最近だが……
「わかりました……」
結局ケスラーは納得したようだ。
「悪かったな、朝っぱらから押し掛けて」
それから、ミミが随分と色々な物を買ってもらったようだが、それにも礼を言っておく。
「だが、浮気も程々にしろよ」
いくら優しいヘネラリーフェと言っても、やはり不安は拭い切れないだろうから……
「とにかく、ミミにはあまり近付くな!!」
大甘兄なケスラーはそう言い置くと、サッサと帰って行った。
その日の夜、ロイエンタールは昨日買い込んだ宝石と、ドレッシングルームに眠っているドレスでヘネラリーフェを飾り立て、オペラへと出掛けていった。
昨夜に続いて夜遊びとは、タフとしか言いようのないロイエンタールであった。
Fin
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*かいせつ*
また書いてしまいました。
みのりさん宅の所のキャラとのコラボ作品……(^^ゞ
もうもう、いい加減冬コミの準備をしないと拙いよ<ぢぶん
2005/10/30 かくてる♪ていすと 蒼乃拝