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          うつせみの眼に美を見た人は
            その時 すでに死のとりこ
         世のいとなみに 倦みはてながら
         死のかげにおののきふるえるもの
          うつせみの眼に美を見た人!

          『トリスタン』プラーテン

 

第十二章

一 黄昏


「あ……」
 ヘネラリーフェの洩らした小さな声にロイエンタールは彼女を振り返った。
「どうした?」
 ヘネラリーフェの視線を追うようにして彼女の腕を見やると、白い肌に青く変色した小さな痣があることに気付いた。
「どこかにぶつけたのか?」
 それを優美な指でなぞりながらロイエンタールが問う。一見、何の変哲もない打ち身痕である。ロイエンタールの問い掛けにヘネラリーフェは一瞬考えるような表情を見せたが、あやふやながらも頷いて見せた。覚えはない……でもこんな痕があるからには多分気付かぬうちにどこかに打ち付けたのだろう。ヘネラリーフェはそれ以上深く考えることもなく、ロイエンタールもまたそれをヘネラリーフェ以上に深く考えることなく記憶層の中から排除した。
 時に宇宙歴七九九年、新帝国歴一年のそろそろ夏の日差しが眩しくなる季節のことである。

 凶事はその年の七月三〇日、帝国首都オーディンにもたらされた。
 自由惑星同盟首都ハイネセンからもたらされたそれは、レンネンカンプ弁務官拉致とそれに伴う事件の数々であり、それらは帝国の重臣達を驚かせた。乱世に生きて無数の視線をくぐり抜け、多くの恒星世界を征服した勇将達でも驚きに慣れるということは、なかなかないものだったのである。
 ハイネセンを出奔したヤン=ウェンリーとその一党をどうするのか? 諸提督達はそれこそ何日にもわたって議論したものの、結果的にこれといった結論も出ず、ただ同盟の秩序秩序維持能力の欠如は明らかであるから、いつでも兵を動かしうるよう準備を整えておくべきであるとの見解を出し、皇帝ラインハルトに裁可を求めたにすぎなかった。
 その軍最高幹部会議の席上において、安全保障局長ハイドリッヒ=ラングがロイエンタールに下司呼ばわりされ、傷付けられたプライドの代償として彼に対して不当な復讐心をたぎらせたことは、小さすぎる事件として残ることになる。
 八月八日、ラインハルトより布告が発せられた。
 大本営をフェザーンに移すと言うのである。帝都オーディンからはあまりにも同盟領は遠いというのがその理由だった。
 移動は年内完遂をめざし、皇帝自身は九月一七日に帝都を発する。それに先立ち元帥に叙せられたミッターマイヤーが八月三〇日に進発し、同じく元帥に叙せられたロイエンタールと主立った提督達は皇帝に同行することを告げられた。
 一一月一日、ラインハルトは遂にハイネセンへの大親征を決める。ヤンのことはひとまず置き、だが如何に非があったとは言えレンネンカンプを横死せしめた同盟政府への責任を問うべくの出撃であった。この出兵の宣言により、再び銀河は戦乱に巻き込まれることになる。そして、一時の平和にその身を浸していた老人を再び表舞台へと引き出すことにもなった。

「バーラト星域に赴くことになった」
 端的に伝えられたロイエンタールの言葉に、だがヘネラリーフェは凍り付いた。
 ロイエンタールはヘネラリーフェに嘘は言わない。ヤンの出奔に絡む一連の事件についても彼は隠すことなくヘネラリーフェに告げていてくれた。その為にどれほどヘネラリーフェの心が揺さぶられようと、知らせぬままに歴史が動くより、知らせたその上で彼女が何を想い何を決意するかを彼は選んだのである。
 バーラトに進軍する。それは同盟国家の滅亡を意味する言葉だろう。ヤン不在の同盟には纏まった兵力などない。そして、ともすればそれは恐らく司令官として出撃してくるだろうビュコックの死をも意味していた。
「何故こんなことに……」
 掌で口元を覆い、微かに肩を震わせながらヘネラリーフェが呟いた。
 レンネンカンプの偏見がその理由だということはわかっている。だが、わずか三ヶ月にも満たない日々しか平和はこの時代に停滞しなかったとは、世はなんと無情なのだろう……
「行くか、一緒に?」
 ロイエンタールの言葉にヘネラリーフェは弾かれたようじ顔を上げた。行ってどうなるわけでもない。義父の死に様をその目に見せつけられるだけだろう。だが……
「お前が行けば……お前の言うことなら親父さんも聞いてくれるかもしれない」
 できることならロイエンタールもビュコックを葬りたくはない。それはヘネラリーフェの義父であるということも勿論あったが、何よりも人間として尊敬していたからだ。そして、できることなら、あの老人を父と呼べたらと……
 だがロイエンタールのその言葉はビュコックに降伏を勧告しろと言っているようなものだった。いや、その為の説得という意味だろう。だが、あの義父がそれを容れてくれるのだろうか? 降伏してまで生き伸びようとするものなのだろうか……
 そんなこと考えるくらいなら、きっとヤンを欺き捕らえ同盟存続の為に帝国に引き渡すくらいやってのけるだろう。そんなことができような人ではないから、だからきっと潔く自らの幕を自らで降ろそうと考える筈だとヘネラリーフェには思えて仕方なかった。
「連れて行って」
 何もできないかもしれない。レオンの時のように、その死に様を目を逸らすことなく見届けることしかできないかもしれない。それでも、このまま座して何もせぬまま見殺しにし、その結果後悔することだけはしたくなかった。そう……実父レオンの時のようなことだけは二度とゴメンなのだ。

 

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