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第七章

三 共犯者


「痛むようなら無理しなくていい」
 ロイエンタールの私邸は玄関を入った所が吹き抜けのホールになっており、そこから左右対称の階段が階上まで優美な曲線を描きながら配されている。
 階段を昇りきった所に立ち、ロイエンタールはゆっくりと昇ってくるヘネラリーフェを待っていた。歩行も大分上達したが、階段などの段差のある所はまだまだ訓練が必要なのである。
 何度か途中で立ち止まりながらもようやくロイエンタールの待つ二階まで辿り着くと、ヘネラリーフェは疲れたようにその場に座り込んだ。
 その時、背後に人の気配を感じ彼女は振り向こうとしたが、どういうわけかロイエンタールに阻まれた。突然抱き竦められたのだ。いつもの気まぐれかと思いながらも抗議しようと彼の方を見上げたとき、ヘネラリーフェはこれがロイエンタールの気まぐれでないことを悟った。同時に冷笑を含んだ男の声が背後から投げかけられる。
「これはこれはロイエンタール上級大将、お取り込み中でしたかな?」
 声からも言葉からも友好的なものは何等感じられない……それは正にそう言うに相応しいものであった。そう、いわば探りでも入れていると思えるような気味の悪さを漂わせている。
 ヘネラリーフェは知らないが、帝国軍内ではロイエンタールの漁色ぶりがかなりの頻度で噂に上る。もし彼の弱点を探ろうとした時、恐らく懲罰や不祥事を洗い出すより女関係を調べた方が手っ取り早くそれを見つけることができる筈だと誰もが考えるだろう。何せ女のお陰で降格処分になったほどの実績(?)を持つ男なのだ。
 今日の無粋な訪問者が何を考えているのか……それはもはや一目瞭然。そして彼は、渡りに船とばかりにヘネラリーフェの存在を嗅ぎつけたのだ。
「仲のおよろしいことで……」
 下品た声と共に男のネットリとした視線がヘネラリーフェの躰の上から下まで嫌らしく這う。背中越しながらもその視線を感じとり、ヘネラリーフェの背筋が悪寒に震えた。
 どうやら男は、これまでの漁色の相手と違いヘネラリーフェがロイエンタールにとって特別な関係にあると確信したようだ。まあ、目の前で女を抱き竦めている姿を目撃すれば誰でもそう思うことだろう。それさえ掴めばあとはどうとでも料理できると踏んだ男は内心ほくそ笑んだ。これでロイエンタールを陥れる材料は揃ったも同然。後はヘネラリーフェの身元を洗うのみだ。
 ヘネラリーフェには甚だ迷惑な話だが、まさか自分は捕虜でロイエンタールに奴隷のように扱われているんですと説明するわけにもいくまい。
 それ以前にヘネラリーフェは思った。ロイエンタールの敵であろうこの男が、だが自分にとって味方にはなりえないと。この男は災いしかもたらさないだろうと……彼女は鋭敏な神経でそれを嗅ぎ分けると、咄嗟にロイエンタールの袖口を引いた。助けてやる義理も謂われもない。そもそも助ける気など毛頭ないのだ。だが、男への嫌悪感がヘネラリーフェの頭に警鐘を鳴らしていた。
 感情的にはなっていない筈だった。戦闘中や危険に晒された時、ヘネラリーフェの感覚は人一倍鋭くなるのだ。そしてそういう時の彼女は、普段の有耶無耶無茶苦茶状態な彼女とは一八〇度人格が変わるのである。怒れば怒るほど、追い詰められれば追い詰められるほど、冷たく冷静になっていく彼女だからこそ数々の絶望的な状況を生き抜いてきたのだから……
 男がロイエンタールとヘネラリーフェの仲を誤解しているのは個人的にはご免被りたいことではある。だが、この場合男が勘違いの上に更に勘違いを積み重ねてくれていってくれることの方が好都合でもあった。それが例え一時凌ぎにしかならないとしても……
「オスカー」
 一瞬、その声が誰の物なのかをロイエンタールは判断しかねた。それほどの、つまりこれまでのヘネラリーフェからは想像できないほどのか細い鈴の音のような声だったのだ。さすが天性の女優。男騙しのテクニックは未だに健在だ。(失礼ね!)
 もっとも当のヘネラリーフェはそんな自分に癖壁していたのだろうが。何が哀しくて大嫌いな男を『オスカー』などど猫なで声で呼ばなくてはならないのか……思わず砂を吐きたくなる。
(うっげ~~ 今後一切こいつのことを名前なんかで呼んでやるものですか!! こんな奴呼び捨てで沢山よ!!)
 と、当然ながら内心で中指を立てながら罵倒していた。もっともその間も思わず守ってやりたくなってしまうほどの可愛らしい女っぷりを演じ続けていたのはさすがイゼルローン仕込みと言ったところだろう。
 それはともかくとして、ハッと我にかえったロイエンタールは内心苦笑すると、それでもこの場合はヘネラリーフェの考えと同じく男に更なる誤解を与えるべく、彼女の策に乗った。
「どうした?」
 これまた他人が見たらぶっ飛ぶほどの優しげな表情と声音でロイエンタールはヘネラリーフェを見やると、更にぶったまげたことに彼はヘネラリーフェの躰をそっと抱き上げた。
 やることにソツがないというか、そこまでやらなくてもというか……ともかくどっちもどっちの騙しっぷりである。唖然とそんな二人を見やる男の表情に彼等はあくまでも内心でニヤリと微笑んだ。
「申し訳ないが彼女の気分が優れないようだ。今日のところはこれで……」
 悪ノリしているとも思えるロイエンタールが、抱き上げたヘネラリーフェの頬に口付けながら男に言い放つ。
(ちょっと何すんのよ!)
 内心で罵声を浴びせながら、それでも負けじとヘネラリーフェはロイエンタールの首に手を回す。しつこいようだが、まったくもってどっちもどっちの性格である。
 ただしこの場合ロイエンタールの方がヘネラリーフェに影響を受けたと思えなくもない。こういう、人をおちょくったり騙くらかしたりすることにかけては、ヘネラリーフェの右に出るものはいないのだ。イゼルローンでそうだったのだから、帝国ではそれは尚更だろう。ともあれなんとかやり過ごせそうな雰囲気になり、取り敢えず利害が一致した共犯者の男女は内心ホッと溜息つく。
 ヘネラリーフェを抱き上げたままロイエンタールが身体の向きを変えようとしたとき、彼女と男の目が合った。途端に男の顔色が変わる。青ざめ、そう、まるで恐ろしいものを見たと言わんばかりの形相に変貌していく。
 訝しげな眼差しを送るヘネラリーフェとロイエンタールに、だが男はそれ以外に侮蔑と勝ち誇ったような眼差しを投げかけると、アッと言う間に屋敷から出ていったのだった。
 さすがのロイエンタールも何が起きたのかわからず、ヘネラリーフェにしてみれば尚更あの侮蔑の眼差しの意味するものなどわかるはずもなく、ただそれがやけに気になる出来事として彼女の胸に残ったのだった。

 

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