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          私はおまえを愛するからこそ、夜
          こんなに狂おしくおまえのところに来て、
              ささやくのだ。
       おまえが私を決して忘れることのできないように、
         私はおまえの魂を持って来てしまった。

         『私はおまえを愛するから』ヘッセ

 

 

第九章

一 それぞれの思惑


 キルヒアイスがラインハルトと彼の姉アンネローゼの住むシュワルツェンの館近くにあるフラットに帰宅したとき、一人暮らしの筈の彼を出迎えたのはなんとラインハルト・フォン=ローエングラム元帥その人であった。
「ミッターマイヤーの用向きはなんだったのだ? 外出に関係あることか?」
 なんてことだ……事が事なだけにラインハルトにではなくキルヒアイスを尋ねてきたミッターマイヤーの苦労は何だったのだろう? キルヒアイスは思わず脱力した。
「ずっと待っていらしたのですか?」
 お前が出掛けるのが見えたから……ラインハルトがポツリとそう言うのが聞こえた。なのに後を追うこともせずにここで待っていてくれたのだ。いかにラインハルトがキルヒアイスを信用しているかが伺い知れるというものである。が、明日の朝まで待とうと思わないところが彼の人の悪いところでもある。大方キルヒアイスを驚かしてやろうという悪戯心でも芽生えたのだろう。
 それはともかくとして、さすがにこうなってはラインハルトに黙っているわけにもいかず、そもそも最初から今夜のことは明日の朝一番にラインハルトの耳に入れるつもりだったキルヒアイスは、睡眠時間分早まったものの事の次第を報告した。
 話を聞き終えた直後はラインハルトも激昂しかけたようだ。ロイエンタールの態度には勿論のこと、リートベルクなどを重用した自分自身に……だがキルヒアイスが宥めるうちに落ち着きを取り戻し、そして一言いった。
「俺はそんなに物わかりの悪い上官に見えるか?」
 その言葉にキルヒアイスの口元からクスリと忍び笑いが零れた。ラインハルトはロイエンタールがいの一番に自分に相談してくれなかったことにそれなりにショックを受けているのだ。
「仕方ないですよ。なにせ相手が同盟の将校で尚且つブラウシュタット侯爵の御息女だったのですから」
 ロイエンタールが保身を考えて行動するような人間ではないということはわかっているので、恐らくそれ以外の、ロイエンタールにとってどうしても譲れない想いがあったのだろうとキルヒアイスは考えた。
「それにしても水くさいじゃないか。俺は好きあっている男女を、いくら相手の身元に問題があるからとはいえ、引き離したり粛正したりするつもりはないぞ」
 キルヒアイスは絶句した。好きあっている? だからロイエンタールは彼女を手放さず、そして存在をも隠し通そうとしたのだろうか……ワザと捕らえられようとしてまで彼女を助け出そうとしたのもその為なのだとしたら、確かに全ての辻褄が合う。しかしロイエンタールに最も不釣り合いな言葉でもあった。
「愛し合っているから俺に言えなかったのだろう? 違うのか、キルヒアイス?」
 違わない。この場合ラインハルトの言っていることが一番理に適っていた。それをロイエンタールが自身で認めていれば……
 キルヒアイスも、そして当然ラインハルトもまだ知らなかった。他人にでもわかるロイエンタールの心理を、実は当の本人が一番掴みかねているということを……
「リートベルク伯爵だが、実はさっき俺のところに連絡を入れてきた。ロイエンタールが皇族の血を引く大貴族の令嬢を私邸に匿っているとな」
 キルヒアイスがラインハルトの口元を見つめる。予測はしていたことだった。リートベルクは今や薄氷の上に立たされたようなものだ。助かる為にはより早く手を打たねばならない。その為にはローエングラム公にいち早くロイエンタールに叛意ありの情報を流し込むのが一番の上策だと考えたのだろう。
 それが真実であったとしても、実はラインハルトはこの手の手合いが一番嫌いなのだ。ラインハルトはキルヒアイスと違って目的の為に手段を選んではこなかった。数々の辛辣な陰謀を企てたこともある。だが全て自分の手を汚して相手を陥れてきた。自分の手は血塗れている、だからこの先も躊躇うことなくその手を夥しい血で染め上げていくだろうと彼はそう納得し、そして戦っているのだ。だがリートベルクは違う。
 確かに今回はロイエンタールも迂闊だった。他人の反感を買うという面ではラインハルトも劣っていなかったが、上級大将の要職にある者が自らの保身を考えなくてどうするのだ? そう、ロイエンタールはあまりに保身を考えなさすぎなのだ。
 弱味を掴みやすいと思わせる彼の私生活にも責任はあるだろう。だがそれとは関係なく、リートベルクのしていることは自分の手は一切汚さず他人を陥れるという極めて卑劣且つ卑怯な行為なのだ。許すことはできなかった。
「詳しく報告を聞きたいから明日出府するようにリートベルクには申し渡しておいた。で、ロイエンタールの怪我はどの程度なのだ?」
 右腕と右足の銃傷……だが、心配するまでもなく恐らく明日ロイエンタールが出府してくるだろうことは明白であった。
「どうされるおつもりですか?」
「己の馬鹿さ加減を思い知らせてやるまでだ。俺が奴とロイエンタールのどちらを信用しているかなどどわかりきったようなことを聞くような身の程知らずにな」
 知れたこと……ラインハルトに絶大な信頼を置き、親友の明暗を託し、それ以来片時も離れることなく彼の麾下で死線を共にする男と、昨日今日陣営に加わったばかりの世間知らずの貴族……そのどちらを信じているのかなど、わざわざ答えてやるまでもないだろうがな。ラインハルトはそう言って嗤った。

 あの後、車の中でまるで張りつめたものが緩んだかのように意識を手放したヘネラリーフェが目覚めたのは、翌朝の既に日も高くなった頃であった。
 頭がボンヤリして、視界がぼやける。ここが何処なのかもわからないまま無意識に躰をベッドの上に起こそうとした。
「痛ッ」
 躰を激痛が貫いた。わけがわからずひとまず痛みをやり過ごしたヘネラリーフェは己の左腕が動かないことに気付いた。左肩から胸にかけて白い包帯がキッチリと巻かれている。何がどうなっているのかサッパリわからず、ヘネラリーフェは横になったまま夕べからのことを順を追って考えはじめた。
 確かリートベルクに連れて行かれて、彼の別荘らしき屋敷の地下室に監禁された。それから自白剤を投与されて……二本目のアンプルを打たれたところまではなんとなく覚えているのだが、それから後のことが思い出せない。
 ずっと混沌の闇の世界を彷徨っていたような気もする。あの場にロイエンタールがいたと思うのも幻想の世界での夢なのだろうか……
 あれほど意識がはっきりした状態で銃撃戦までやらかしているというのに、やはり薬物の副作用なのだろうか。ヘネラリーフェはそれを覚えていなかった。というより思い出せないのだ。体力が著しく低下していることもあるのだろう。だがヘネラリーフェは焦った。何かとても大切なことを忘れているような気がしたのだ。
「なんだったっけ」
 呟きながらなんとか思い出そうとするものの、それを酷い頭痛が阻もうとする。それだけでなく躰中を不快感が駆け巡っていた。頭痛、悪寒、吐き気、そして肩の激痛。それらがヘネラリーフェの精神を揺さぶり切り刻む。思考を纏めることなどまともにできるような状態ではなかった。
 ミッターマイヤーが入ってきた時、ヘネラリーフェは躰中を吹き荒れる不快感に耐えかねベッドの上でまるで蹲るように躰を丸めているという正にそういう状態だった。
「気が付いたようですね……が、大丈夫ですか?」
 気分が悪いですと全身で訴えているようなヘネラリーフェに対して、余程の朴念仁でもないかぎり『御気分は』と問い掛けられるような人間はいないだろう。
 穏やかな声に、入ってきたのが予想に反してミッターマイヤーだということを、枕に押し付けていた顔を僅かにあげることでようやく悟ったヘネラリーフェは、憮然と言い放った。
「これが大丈夫そうに見える? それよりロイエンタールは?」
 だがミッターマイヤーの答えを聞いた途端、彼女は愕然となった。
「あいつなら、今朝早くにローエングラム公より呼び出しを受けて元帥府に……」
 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。ヘネラリーフェの射るような視線がミッターマイヤーの口を凍り付かせたのだ。
「行ったというの、あいつは?」
 あの身体で、ひとりで……思わずベッドから起きあがろうとして、だがヘネラリーフェは激痛に呻いた。
「動いては駄目だ」
「うるさい!!」
 痛みを堪えてベッドから降りた。自分を私邸に、しかも上官であるローエングラム公に報告することなく置いていたことでロイエンタールがどう糾弾されるのか気にならないわけではないが心配してやる義理などない。どういう結果になろうと、ざまあみろと嗤ってやれる筈だった。
 だが思いも寄らぬ方向に事件が進み、結果的に彼は怪我までして自分を助け出そうとしてくれた。ヘネラリーフェの性格上、そんな彼をこのまま見殺しにはできる筈がない。
 それに大切なことを忘れたままというのは気持ちの良いものではない。それがなんであれ、自分の躰をこういう状態に陥れたことに関わるものであることだけは確かなのだ。
(ここまで躰を痛めつけらるような目にあっていて、どうして思い出せないの!)
 内心で自分に罵声を浴びせる。
 ヘネラリーフェの躰の力という力が主の意志に逆らい抜け落ちていってしまっているのだろうか。ベッドから降り立ち上がろうとしたその瞬間に彼女の躰は足下から崩れ落ちた、
「無茶だ、フロイライン」
 ただ撃たれただけでも脆弱な人間の躰ではショックから立ち直るのに時間がかかる。彼女の場合まず出血が多かった。その上得体の知れない麻薬系の混合薬を投与されている。さらにそうなる以前から彼女は健康体ではなかったのだ。
 助け起こそうとするミッターマイヤーの手をヘネラリーフェの細い手が叩き落とすように振り払い、揺らめく躰を立ち上がらせ気力だけで支えると、彼女はそろりそろりとクローゼットに向かった。 
 その間もずっと考えていた。一体何を思い出さなければならないのかを……
「それに恐らく元帥府にはリートベルクが……そんな場所に貴女は乗り込むつもりですか?」
 ミッターマイヤーが彼女を気遣って言ったその言葉、その名を聞いた途端、ヘネラリーフェの頭にこれまでとは比べものにならないくらいの激痛がはしった。
「うっ!!」
 昨夜のことが頭の中に洪水のように押し寄せ渦巻き、ヘネラリーフェを怒濤の坩堝へと叩き込む。思わず頭を抱えるようにその場に座り込んでしまった。動悸が激しく胸を打ち息が荒くなる。
 気持ち悪い……目の前がグルグルと回っているような感覚を覚えヘネラリーフェは目を閉じた。
「大丈夫か?」
 ミッターマイヤーの声が虚ろに聞こえたと思ったら、別の声が耳の奥で重なって響き出す。
『宝刀はどこにある?』
 聞き覚えのある、だが嫌悪感を抱かずにはいられないその声にヘネラリーフェの意識が覚醒した。
「……どうしてこんな大切なことを忘れて……」
 ケリをつけるつもりだった筈だ。ロイエンタールのいる先にはリートベルクもいる。このまま黙って見ているわけにはいかなかった。ロイエンタールの為ではない。自分の為に。十数年前から、いや生まれた時からヘネラリーフェを縛る柵を断ち切りに行くのだ。その為には……
 痛みを堪えて立ち上がると、ヘネラリーフェは思わず赤面しながら視線を逸らすミッターマイヤーなどお構いなしに着衣を脱ぎ捨てた。が、着替えを出そうとクローゼットに手を伸ばしたところで、状況には相応しくないもののヘネラリーフェは脱力した。
 そうなのだ。この屋敷に連れてこられてからというもの、ヘネラリーフェの衣装は全てロイエンタールが用意していた。ヒラヒラにビラビラにキラキラ。なんてったってベルサイユのバラ顔負けの華やかさである。これから元帥府に乗り込もうとするには些か不釣り合いな衣装であった。
(大体、歩きにくいから嫌だって言っているのに聞いてくれないし)
 リハビリが必要な程の足の怪我を目の当たりにしながら、裾を長く引くドレープたっぷりのお嬢様然としたフンワリドレスを着せるのだ。確かにヘネラリーフェによく似合っているが……恐らく趣味ではなく女物などよくわからん=豪華な物や可愛らしい物なら女は喜ぶという安直な発想の元に選んだ代物なのだろう。そう考えると彼の不器用さが微笑ましくもある。
 が、今はそんなことを考えている時ではなく、とりあえず元帥府などというお堅さ一二〇パーセントの地へ乗り込むのにまだ許容できそうな物を選んでサッサと着替えると、ミッターマイヤーが止めるのも聞かず外に飛び出した。
 が、ここまで来てヘネラリーフェは自分自身の迂闊さを思い知らされることになる。どうやって元帥府まで行くかを考えていなかったのだ。歩いて行ける筈もないし(この躰と足では一日かかっても辿り着けないだろうし下手をすれば道端でのたれ死にだ)車はもっと駄目だった。
 今時どんな車もオート機能がついているから路を知らなくても辿り着けはするだろうが、そもそもヘネラリーフェはこの国での免許は持っていないのだ。
 目眩がしそうになった。八方手詰まりとはこういう時のことを言うのだろう。玄関先で立ちつくす彼女にミッターマイヤーが追いつく。これで諦めてくれるかと内心安堵の溜息を吐きかけた彼の前でヘネラリーフェが突如動いた。
 諦めなければおのずと路は開かれる。ヘネラリーフェのとった手段にミッターマイヤーは呆然としながらも、数瞬後にはハッとしたように彼女の後を追いかけるべく動き出したのだった。

 

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