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             光を求める者は、
         暗闇の中へと突き進まねばならぬ。
           恐怖をつのらせるものが
           救いをつくりだす源となる。

          『黄昏への道』ハウスマン

 

第七章

一 微熱


「そこからここまで来い。ゆっくりで良いから」
 ロイエンタールの私邸の長い廊下、ヘネラリーフェがふらつきながらもソロリソロリと足を踏み出そうとしている。
 ヘネラリーフェがロイエンタールの元に連れてこられて数ヶ月、帝都オーディンはそろそろ秋の気配に包まれようとしていた。
 彼女の傷も快方に向かい、腕の方は力が入りづらかったり物が握りづらいという障害があるものの、ぎごちないなりに動かせるようになっており、経過が悪かった足の方もやっと歩行訓練ができるまでになっていた。
 その歩行訓練に絶えずロイエンタールが付き添っているということは驚愕の事態だろう。と言っても仕事があるので毎日というわけには勿論いかない。それでも、時間がある限り屋敷内の廊下を利用して根気よくリハビリに付き合っていた。しかも手まで貸してである。
 他人が聞いたら、いや恐らく実際に目の当たりにしても俄に信じられない情景だろう。屋敷内の人間も、日々目の当たりにするその光景に確かに唖然としていたのだから。
 だがそれ以上に大人しくロイエンタールに従うヘネラリーフェというのも不気味だ。何か良からぬ事でも考えているのではないのか? などと邪推したくもなる。無論『ロイエンタールを殴る!』という当初の目的はまだ持ち続けているようではあるが。
 ともあれ、思い通りに動いてくれない左足と苦闘しながら、ヘネラリーフェはロイエンタールがいる僅か数メートル先までをゆっくり時間をかけて歩いていった。
 もう少し、手を伸ばせばロイエンタールに届くというところまで到達したところで、彼女の躰がグラリとバランスを崩した。咄嗟に左足で支えようとしたが、自由が利かない方とあっては支えるどころの騒ぎではない。
「きゃっ!」
 短く悲鳴があがりあわや転倒とヒヤリとしたその瞬間、ヘネラリーフェの華奢な躰は逞しい腕に引き寄せられ抱き締められていた。
「大丈夫か?」
 耳元で囁かれる言葉と微かに感じる熱い息にドキリとして、慌てて躰を離そうとした。
 ここのところ、正確に言えばロイエンタールの生い立ちを聞かされてからというもの、やけに彼が優しいことに少々戸惑いを覚えていた。残虐さは影を潜め、と言っても元々ある冷淡なところは変えようがないが、とにかくヘネラリーフェの躰を気遣ってくれるのだ。
 もっともロイエンタールがヘネラリーフェに手を出さなくなったというわけではない。接し方は変わったものの、相変わらず寝室を共にすることは多々あるのだ。ただあの激しく追い詰めるような抱き方はなくなっていた。
 歩行訓練も然りである。仕事のある日はともかくとして、それ以外の日はことごとく彼女の為に時間を使うという具合なのだ。
(たかだか捕虜に……変な人)
 何か思惑でもあるのだろうか? だが逆はともかくとしてロイエンタールがヘネラリーフェに対して何か含むところがあるとは考えにくいことである。わざわざ親身に尽くしてくれなくとも、ロイエンタールの胸ひとつでどうとでもできる……ヘネラリーフェとはそういう存在なのだ。
 嬲り者にされるよりははるかにマシな状態であるが、些か気味が悪いと言えなくもない。変な考え方ではあるが、ロイエンタールに気遣われ優しくされる謂われなどないのだ。もっともこれでヘネラリーフェが考え方を変えるとも思えないので、結局
(これで私が大人しくしていると思ったら大間違いよ!)
ということになるのだが。
「あ、ありがとう……」
 それでも転倒を免れ躰の痣が増えずに済んだことは確かなので、取り敢えず素直に礼など言ってみる。が、ロイエンタールから離れようとする思惑は見事に阻止された。
「それだけか?」
「は?」
 一瞬彼が何を言おうとしているのかわからなかった。数瞬考えて礼のことを言っているのだとわかった。他に何かできることがあるのだろうか? と考えているうちにロイエンタールの優美な指がヘネラリーフェに伸びてくる。
 真剣に考えていたため目の前に迫るそれが目に入らなかったのは迂闊だった。気が付いたときは時既に遅し……ヘネラリーフェの顎はロイエンタールの指に捕らわれ、強引に彼の方に顔を上向かされていた。
 ギョッとする間もなく、ロイエンタールの端正な顔が近付いてくる。逃れる術もなく、ヘネラリーフェの柔らかな口唇にロイエンタールのそれが重なった。
「ん……」
 微かにヘネラリーフェが吐息を漏らした。僅かに開いた口唇の隙間からロイエンタールの冷たい舌がするりと忍び込み思うがままに蹂躙していく。拒もうと思えば拒めなくもないそれを、だが彼女は受け入れた。
 いつもいつも……拒もうとするヘネラリーフェの理性をロイエンタールが、その口唇と舌で食い破っていくのだ。心で必死に抗いながらもどこか甘美なこの生活。抜け出さなければと思いながらもどうすることもできないもどかしさと、それとは相反する気持ち……そう、どこかでこの生活が続くことを願っている自分がいた。
(慣らされて……流されていく……)
 長い長い口付けの後、金銀妖瞳と青緑色の視線が絡み合う。どんな表情をすればいいのか困り、ヘネラリーフェは咄嗟に窓外へと目を逸らした。
(あら?)
 目の端を車が過ぎった。白いベンツ、この帝国ではさして珍しくもない車種である。だが、ヘネラリーフェはそれを見咎めた。特に何か理由があったわけではない。如何に上級大将の私邸とは言え、その車が邸内にいたのならともかく、いたのは明らかに門の外側である。公道を通ってはならないという法律はない。
(止まっていたと思うのは気の所為?)
 ロイエンタールの顔を真正面から見ることができず、咄嗟に逸らせた視線の先にあった……つまり多少冷静さを失っていた為に少々自信はないのだが、あの車は停止していたと思う。そしてヘネラリーフェが視線を向けると同時に走り去ったように見えたのだ。
 ロイエンタールの私邸は前庭部分は車止めがあり噴水なども配されているが、それほど広くとってあるわけではない。むしろ屋敷の裏手に森に続く広大な庭園が広がっていた。その奥庭に向かって『コ』の字型の屋敷が建っている。
 前庭がそれ程広くとってないということは、つまり門までとそれより外も階上の部屋などからは見渡せるようになっていた。勿論、外からは見通しにくいように木々で遮られている。が、階上の部屋や廊下はやはり外から伺おうと思えば可能なのである。
 普通の通行人ならそうとわかっていても実行に移しはしないだろう。そんなことをする者がいるとすれば、それは敢えてする者……つまりロイエンタールの屋敷、または本人を監視しようとする者だけである。
 こちらから見通せるということはあちらからも見通せる。つまりヘネラリーフェが車に気付いたことに気付いたからこそ走り去ったのだろう。勿論、この件がヘネラリーフェの気の所為でなければの話だが。
 しかし、捕虜とはいえ傑出した同盟軍将校である。怪我で数ヶ月の療養を余儀なくされたとはいえ、その鋭い感覚が衰えるとは思えなかった。
 そっとロイエンタールを見やった。ヘネラリーフェが気付いたということは、ロイエンタールが気付かぬ筈はない。彼女は走り去る車に疑念を抱いただけに過ぎなかったが、彼の方は己をネットリと窺う視線を敏感に感じ取っていたかもしれない。だが、ロイエンタールはいつもとなんら表情を変えることはなく、それどころかヘネラリーフェに絡もうとさえする。
「外が気になるか? 言っておくが脱走しようなどと馬鹿なことは考えるな」
「馬鹿にしないで! ここを出ていく時は真正面から出て行くわ。勿論あんたを殺してからね」
 売り言葉に買い言葉……ついつい攻撃的な言葉をロイエンタールに投げつけていた。しかしそのまま誤魔化されるヘネラリーフェではない。ロイエンタールの冷静すぎる振る舞いと誤魔化しともとれる態度が、逆に今彼女が見たことへの疑惑を決定的なものにしたのだった。
(何かが起こっている?)
 それに自分が関係しようなどとは露ほどにも思わないヘネラリーフェであった。

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