top of page

第七章

二 斜陽


 不審な車を見かけてから数日後、ロイエンタールの私邸を訪れたミッターマイヤーは不謹慎だと充分認識していながらも、目の前の情景についついクスリと忍び笑いを洩らした。
 居間のソファの上と下、どこか楽しそうにも見えるロイエンタールと、そんな彼の足下の床に座って憮然とした表情で髪を弄ばれているヘネラリーフェ。何も知らない者が見たら、仲睦まじい恋人同士だと勘違いしそうな光景である。
 クスリという忍び笑いに、ヘネラリーフェがチラリとミッターマイヤーを見やった。情景には似つかわしくない冷たい刺すような視線である。
(なるほど……伊達に生き残ってきた訳じゃなさそうだな)
 ミッターマイヤーがヘネラリーフェに関して認識していることと言えば、同盟軍有数の智将であり、あのヤン=ウェンリーの片腕だということ。そして、とびっきり気が強いだろうということだけである。トリスタン艦内で何度尋問してもついに口を割らなかったことは百戦錬磨である双璧をも驚嘆させたほどである。
 その後は、ロイエンタールがヘネラリーフェに執着するのを止めることもできず、そのままなし崩しに彼が彼女を傍に置くことを黙認してきた。ヘネラリーフェを傍に置くことでロイエンタールが窮地に立たされないよう祈りながらだ。そして、今夜久しぶりに親友の屋敷を訪れて、ミッターマイヤーは苦笑と共に色々な想いを味わうことになる。
 どこか楽しそうに見える彼にまず驚いた。そんな顔など十数年来の親友でさえ見たことがない、そういう表情だったのだ。そしていつもより幾分穏やかな気……他人が見れば恐らくいつもとどこが違うのだ? と問うだろう。それはミッターマイヤーだからこそわかり得たロイエンタールの僅かな変化であった。
 もしオーベルシュタインに知れたら……そんな危惧も確かにある。だが、私人としてのロイエンタールを想えば、ヘネラリーフェの存在は決してマイナスではないのかもしれない。ミッターマイヤーはそう思った。
 しかし、両手をあげて喜ぶこともできないだろう。ロイエンタールはともかく、ヘネラリーフェの方は表情から見てもこの状況を喜んではいない。捕虜として連れてこられたのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
 そして今はともかくとして、ヘネラリーフェを捕縛したあの時、彼女に対してのロイエンタールの所業を思えば(何故知っているのだろう?)彼女の怒りはもっともであるともわかる。殺してやりたいとヘネラリーフェ自身の口から聞いてもさして驚かないだろう。
 カプチェランカでの悲劇の後ミッターマイヤーが願った奇蹟は、願った本人さえもが難しいと思わざるを得なかった。
「フロイライン、お身体の具合はどうですか?」
 穏やかな声にヘネラリーフェはミッターマイヤーを見やったが、その目は決して友好的とは言えない。
(まるで鋭利な刃物だ)
 見る者を容赦なく切り裂くであろう細く鋭い銀色の刃物を思わせる。ロイエンタールが絶えず身につけているあのロケットの中のヘネラリーフェの暖かな青緑色の瞳とはあまりに違いすぎるその双眸にミッターマイヤーは一瞬ゾクリとした。
 ただ、当のヘネラリーフェは、ロイエンタールの最近の変貌以上に戸惑いを覚えていた。明るい蜂蜜色の髪、静かな湖水を思わせるブルーグレーの瞳。身に纏う気も穏やかで優しくて……ロイエンタールの親友ということも信じられないが、それよりも捕虜である自分に対して、嘲りも見下しもしない態度に驚いた。
 ヘネラリーフェ達同盟の軍人が持っているミッターマイヤーの情報は、疾風ウォルフの異名に相応しい迅速な用兵と、その公明正大な性格である。ミッターマイヤー達がヘネラリーフェに同盟軍に関して尋問したのと同じように、ヘネラリーフェ達同盟軍も捕虜にした帝国軍人から数々の情報を引き出しているのだ。
 どうやら彼等から聞かされた話に嘘はなかったらしい。自軍の人間には勿論のこと、つい先日まで敵として戦っていた相手にまでこうも公正に接することができるとは。帝国軍人に対して心を許すことはできないが、人間としては好きになれそうだとヘネラリーフェは思った。
「見ての通りよ」
 突っ慳貪ながらも返事を返してくれたヘネラリーフェに明るく微笑むと、ミッターマイヤーは俄に表情を引き締めロイエンタールに顔を向けた。
「例の調査だが報告書が上がってきた。見るか?」
「ああ」
 短いやり取りながらも、事の重大さがわかる。
「私は席を外した方が良さそうね」
「ここにいろ」
 言いながら立ち上がろうとしたヘネラリーフェを、ロイエンタールがこれまたいつものことで強い力で躰ごと引き戻しあっさりと行動を封じる。定番な成り行きで文句を言う気にもならないというのがヘネラリーフェの今の心境だろう。
 結局帝国軍内部のことなど自分にとっては預かり知らぬことだし、彼等にしてもヘネラリーフェに聞かれたところでなんてことはないのだろうと思うことにし、引き戻されたまま大人しくロイエンタールの腕の中におさまった。
 断片的に聞こえてくる二人の話を纏めると、どうやら獅子身中の虫がいるということらしい。それが軍内部のことなのか、はたまた帝室に関わった政治的なものなのかは計りかねるが、なんにせよ双璧と謳われる名将が顔を付き合わせて真剣に話し込んでいるところを見ると、ローエングラム公に関わりがあることには違いないだろうと推測できた。
 ならば尚更ヘネラリーフェには預かり知らぬことである。いや、むしろその獅子身中の虫の方に味方したくなったほどだ。帝国内が混乱に陥れば、それは同盟にとっては有り難いことと言えなくもないのだ。帝国の混乱に乗じて一気に攻め込めば……
(でも財政難だからなぁ。いっそのこと馬鹿な政治家が平和に目覚めてくれればね。そんな奇蹟は起こってくれそうにないけど……)
 脳裏にトリューニヒトの厚顔が浮かび、ヘネラリーフェは心底嫌な気分になった。あの男が寄生する限り同盟は腐敗していくのかもしれない。そう思うと、義父やヤン達には勝って生き残ってもらいたいが、ハイネセンの選挙狂いの政治家共を帝国に一掃させてみるのも案外良いかもと危ないことを考えてしまう。ヤンが軍部及び政府を牛耳ってくれれば戦争などさっさと終局を迎えてくれそうなものだが、生憎彼はそれを由としないだろう。
「何を考えている?」
 ボンヤリ考え込んでいたヘネラリーフェは、目の前のテーブルに書類が置かれるバサリという音にハッと我に返った。
「別に」
 同盟の未来は暗い……そんなこと口が裂けてもロイエンタール達には言えない。同盟の弱点を晒すようなものである。素っ気なく受け答えると、何気なく置かれた書類に目をやった。
(あれ? この男どこかで……)
 その書類、どうやら先程ミッターマイヤーが持参した調査報告書らしいが、それには一枚の写真が添えられており、ヘネラリーフェの目はその写真に吸い寄せられた。
 さすがに手にとってしげしげと眺めるのはロイエンタール達に憚られ、書類に記載されている説明の類は読みとれない。それ故この写真の男が何者であるかは知ることができないのだが、どこかで見たことのある男だった。
 しかし、ヘネラリーフェは数ヶ月前にこのオーディンに捕虜として連れてこられたばかりである。それ以来、ロイエンタールの屋敷からは一歩も外には出ていない。つまりこの数ヶ月間にロイエンタール以外の誰かと関わることはできなかったのだ。知っている人間などいよう筈もない。接点があるとしたらそれ以前、ヘネラリーフェがこの帝国で育った一〇歳までの間ということになる。
「その男がどうかしたのか?」
 そう問い掛けられても思い出せなければどうにもならない。もっとも知っていたとしても教えてやる義理などないのだが。その場はなんでもないと頸を振って凌いだが、心に棘が刺さったかのようにどこかスッキリしない気分だった。

「気を付けた方がいい。あの男、捜査の手が自分に伸ばされていることに気付き始めたようだ」
 翌日、元帥府に出府したロイエンタールを待っていたのはミッターマイヤーのこんな言葉だった。わかったと答えたその日から僅か数日のうちに事態は急展開を見せることになる。

 

bottom of page