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第十二章

六 蜃気楼


「ヤン=ウェンリーは助かったらしい」
 だからお前も……続く言葉をロイエンタールは呑み込んだ。自分もそうだが、他人に言われて生きる気になるなら、そもそも命を絶とうとは思わないだろう。
 横たわるヘネラリーフェの枕元に腰を降ろすと、ロイエンタールはそっとヘネラリーフェの髪を撫でた。優しい感触にヘネラリーフェは安心したように目を閉じたが、それは彼女の心が弱っていることの現れでもある。少なくとも、ロイエンタール相手に彼女がそんな態度をとることはどんなことがあってもないだろうことを彼は知っているのだ。それでも一縷の望みをかけてしまうのは男の我が儘だろうか。ロイエンタールはそんな想いを抱いた。
 命を取り留めたとはいえ、ヤンの様態はお世辞にも良いとは言えないものらしい。その間、ラインハルトとの会見も無期延期に持ち込まれる。よって、停戦はしたものの状況自体は変わったわけではなかった。だが、ヤンがこの状態では話を進めることもできない。結局苦肉の策として、ハイネセンには総督を置くことにし、後はヤンが健康を取り戻した時に話し合うことになった。尤も、そうなった時に再び戦端が開かれる可能性も大いにある。
「俺はハイネセンへ行くことになった」
 新領土総督としてハイネセンに赴く旨をロイエンタールはラインハルトより命じられたのだ。これにより、ロイエンタールは艦艇三万五千八〇〇隻、将兵五二二万六四〇〇名という大軍を統率する身となった。これは皇帝ラインハルトに次ぐ、銀河帝国における第二の強大な武力集団である。
「お前も来い。どのみちハイネセン以外に帰る場所はあるまい?」 
 またしてもヘネラリーフェの路はロイエンタールの一言によって決められたのである。六月も終わりに近い頃、二人はハイネセンへと旅立った。

 そして八月……
「ごめん、それからありがとう」
 ハイネセンの総督府での執務中、不意にヘネラリーフェが呟くように言った。その言葉の意味を測りかね、ロイエンタールは数瞬ヘネラリーフェを見つめたが、すぐにそれを把握した。ずっと言おうと思っていたのだろう。だが、今日までもつれ込んだ。
 ヘネラリーフェの言葉は、ヤンと戦ったあの時、皇帝の御前であることも考えずヘネラリーフェを止めてくれたロイエンタールに対してのものだったのだ。
 付け加えるなら、恐らくマル・アデッタでビュコックの命乞いをするヘネラリーフェを庇ったことへの感謝も含まれているに違いない。 ロイエンタールはただ微かに笑みを湛えた顔で頷いたにすぎなかったが、素直に気持ちを現してくれるヘネラリーフェの態度は嬉しかった。
 一見平和に見える日々だった。ヘネラリーフェはハイネセンのビュコック邸で両親と昔のような暮らしをしながら総督府に通っている。戦いは終わってもラインハルトの麾下に入った事実は消えない。だから彼女は今でも銀河帝国軍の元帥閣下なのだ。
 さすがに捕虜帰りの時よりも世間の風は厳しかった。ヘネラリーフェを見る人々の目は明らかに殺意さえ含んでいたのだ。だが、ビュコックが同盟最後の司令官として戦場にその身を捧げようとしたことがプラスに作用したようだ。これまでの間で、ヘネラリーフェが殊更に面と向かって傷付けられたという事実はなかった。
 そういった人々の感情を考慮したわけではないだろうが、ヘネラリーフェがあの戦い以来帝国軍の軍服を着ることは遂になかった。自分の所為でないことはわかっているが、あの戦場でヤンが暗殺されかかったということが、彼女の感情を揺さぶっていたのだろう。それに関しては、ロイエンタール自身何も言う気がなく、似合っているとは思ったが気に添わぬのならと敢えて彼はそれを黙認した。勿論、彼のそれに対して部下からの不満の声が皆無だったわけではないが……
 そんな安寧と静穏な日々の中、ロイエンタールとヘネラリーフェはロイエンタールの執務室で二人だけの刻を送っている。変な意味ではない。あくまでも職務上仕方がないことなのだ。だが、ヘネラリーフェはともかく、それはロイエンタールにとっては至福の刻だったに違いない。そして、彼は自分の中にある破滅と死への誘惑を忘れかけた。
 そう……自分でも不思議なほど穏やかになれたのだ。ヘネラリーフェも以前ほどロイエンタールに逆らうこともなく、およそ素直とは言えないながらも彼を受け入れてくれる。完全に受け入れたわけではない。だが、完全に拒絶しようともしなかったのだ。
 戦場で苛烈に戦うヘネラリーフェも壮絶な美しさを見せつけていたが、だが、凛とした笑みを湛えるヘネラリーフェは尚美しい。それが自分に向けられるものなら尚更だろう。
 だが、そんな日々は長続きしなかった。ロイエンタールの中の矜持と高みへの上昇志向は失われてはいなかったのである。それはヘネラリーフェの穏やかさに触れ、ただ眠っていたに過ぎなかったのだ。
 だが彼ひとりを責めることはできないだろう。彼は自分の中にあるものを利用されたにすぎなかったのだから。

 

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