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第六章

三 刻の記憶


 そろそろ動いても良いと医師からの許可が下りたとは言え、さすがに足の方は経過が腕ほど良くなく、移動はもっぱらロイエンタールに頼ることになっていた。使用人に任せれば良いようなものなのだが、彼はその役目を他人に譲る気は毛頭ないようである。
 その意味合いは計りかねるものの、逆らえばとばっちりがヘネラリーフェ自身に降りかかってくることは考えなくてもわかることなので、彼女も黙ってロイエンタールに躰を預けていた。
 階段を昇りある部屋の前を通り過ぎようとしたその時、階下から呼びかける執事の声にロイエンタールが歩みを止めた。
「旦那様、ヴィジホンが入っております」
 相手の名を聞き、用自体は対したものではないものの自分が出なければ収まりそうにないことを察し、ロイエンタールは仕方なさそうにヘネラリーフェをその場に降ろそうとした。
「ここで待っていろ」
「ひとりで戻れるわ」
「やれるものならやってみろ」
短いやり取りを経て、ロイエンタールはヘネラリーフェを廊下の床に座らせ壁に寄りかからせると階下に消えた。
(ったく……)
 たかが部屋に戻るくらい、しかも階段は昇りきっているのだ。確かにまだ足の傷は痛むしそもそも動いてくれないのだが、たかだか十数メートルを移動するのに男の手を借りる必要などないというものだ。だいたいあの男に頼ること自体ヘネラリーフェにとっては屈辱以外の何物でもないのだから。
「やってやろうじゃないの」
 半ばロイエンタールに対しての意地としか思えない行動ながらも、ヘネラリーフェは両手で寄りかかる壁の横にあるドアのノブに掴まろうとした。
 右手の自由が利けばそれでもなんとか立ち上がれたのだろうが、生憎とまだ残る痛みと力が入らないことによって躰を支えきることが出来ずヘネラリーフェの肢体がグラリと揺れた。ドアノブを掴んだせいでドア自体が内側に開いてしまったのだ。
「うわっ」
 悲鳴と共にドアが開き、ヘネラリーフェは部屋の中に倒れ込んだ。
「いてて……」
 痛みに顔をしかめながら躰を起こすと辺りを見渡す。初めて入る部屋だった。
 女性の部屋だろうか……豪奢で可憐な装飾品で彩られているその部屋は、だが随分長い間使われていないとわかった。家具には白い布がかけられ、その上にうっすらと埃がかかっているのが遠目にも見て取れたからだ。
「誰の部屋だろ?」
 この屋敷にはどうやら自分以外に女性はいないようである。(勿論メイドは別だが)だとしたら昔住んでいた人のものなのだろうか? 
 しかし、昔住んでいたと言っても現在の主人であるロイエンタールが全く見ず知らずの人間の部屋を(恐らく当時のままに)そのまま誰にも触らせずにしておくものだろうか。その辺りを考えると、恐らくこの部屋はロイエンタールにとって身近な人間或いは大切な人間のものという確率が高まる。だが、ヘネラリーフェはここである違和感に捕らわれた。
 このロイエンタールの屋敷の外観はともかくとして内装・装飾などはロイエンタールの趣味に近い。ここに連れてこられてまだそんなに日はたっていないが、それでもヘネラリーフェから見た彼のイメージに近い雰囲気と趣味で彩られていると思う。だがこの部屋はどうだろう?
 どう贔屓目に見ても彼の趣味とは思えない。だったら部屋の住人の趣味なのだろうが、ロイエンタールにとって部屋を当時のまま保管するほど大切或いは執着する人物とこれ程までに感覚がかけ離れているものなのだろうか……
「ま、私には関係ないけど」
 言いながらヘネラリーフェはとにかく不安定な態勢を立て直すべくどこか掴まる所はないものかと辺りを見渡した。するとドアの横にある作りつけの棚に目がいった。高さから見ても掴まるのに丁度良さそうと判断したヘネラリーフェは左手をそろそろと伸ばし棚に手をかける。と、何か箱のようなものに手が当たった。あっと思う間もなくその箱のようなものがカタンと音をたてて床に落ちる。
 見ると繊細な彫刻と装飾の施されているオルゴールのようである。芸術的価値も高そうなそれを手にとり上蓋をあけた瞬間ヘネラリーフェの顔がギョッとしたように青ざめた。
「鳴らない……」
 裏にあるネジを回してもうんともすんとも言わない。落ちた衝撃で壊れてしまったのだろうか。外観的には大丈夫そうなので壊れたとしたら内部だろう。
「ど、どうしよう」
 ロイエンタールは怒るかな、怒るとまた……いや、そうではなく、この部屋は彼にとってとても大切なのだと推測できる。そしてそこにある物も。
 ヘネラリーフェだって大切な大切な物を傷付けられたら哀しい。相手が敵とか嫌いな人間だからという次元で語れるものではないのだ。どんな人間であろうとその人の大切な物を奪ったり傷付けたりする権利はない。ロイエンタールの怒りが自分に向けられるということより、彼の心を傷付けてしまうだろうことをヘネラリーフェは恐れていたのだ。
 お人好しと言われればそれまでだが、レオンも、ビュコックも、そしてダグラスからもそういうことに気遣いを示せるようにと絶えず教え込まれていた。
「大丈夫か?」
 近付いてくる足音と共に一応気遣う言葉がヘネラリーフェにかけられた。一瞬ビクリと身を竦ませたヘネラリーフェだったが、意を決したように、オルゴールを手にしたまま彼を振り返った。
「それは……」
 ヘネラリーフェの手の中にある物を見てロイエンタールが瞬間言葉に詰まった。見られたくない物を見られてしまったという悔恨の表情を立ち上らせながら……
「ごめんなさい……ごめんなさい、壊しちゃった」
 ロイエンタールのその表情には気付かず(気付けないくらい必死だったとも言えるが)ヘネラリーフェは瞳を涙で潤ませながら謝る。それしか詫びる方法を見つけられなかった。
「気にしなくても良い。この部屋に鍵をかけなかった俺も悪い」
 意外にもロイエンタールが怒ることはなく、それどころか気にするなとでも言うようにオルゴールを持つヘネラリーフェの手に自分の手をそっと重ねた。
「でも……」
 大切でない筈はない。でなければ後生大事にとってはおかない。ヘネラリーフェに気を使う必要などないので恐らく彼の言葉は本心なのだろうが、だからこそその心の奥底にある想いが尚更気にかかった。
 そんな想いを込めた、真摯な瞳で見つめるヘネラリーフェの視線を痛いほど感じたものの、結局その場では何も答えずロイエンタールはヘネラリーフェを抱き上げ彼女の寝室へと運び込み、未だ傷ついた躰をそっとベッドに降ろすとその枕元に腰を落ちつけた。いつもなら強引にヘネラリーフェを押さえ込み事に及ぶ男が今夜はやけに殊勝である。
 ヘネラリーフェの性格上、そんな男に対してこれ幸いにと逆襲をしてもおかしくないのだが、今夜のロイエンタールは何処か思い詰めたような、それでいて何かを吹っ切ろうとしているようにも見え、結局彼女も何も言わずロイエンタールは口を開くのをただ待つしかなかった。
 時間にして数瞬、だがヘネラリーフェにとっては永遠に思えるほどの沈黙が流れた頃、ロイエンタールはやっと口を開いた。
「これは既に壊れていて音は出ないんだ」
 音の出ないオルゴールを大切に保管していたのか。では、やはり相当大切な物だったに違いない。ヘネラリーフェは思わず身を起こしかけた。それを目で制しながらロイエンタールは唐突にヘネラリーフェに問い掛けた。
「お前の両親はどういう人間だった?」
「どっちの?」
 どっちの? 言葉の意味が見えなかった。判らないという表情を見たヘネラリーフェは補足すべく再び言葉を紡ぐ。
「産みの親か、育ての親かってこと」
 ヘネラリーフェには二組の両親がいる。帝国貴族である実の両親と、同盟に亡命後自分を慈しんでくれたビュコック夫妻と……どちらも彼女にとっては大切な大切な両親である。双方のことを話しても良いが、恐らくロイエンタールの聞きたいのはそんなことではないだろう。
「では実の両親のことを」
 案の定ロイエンタールはそう言った。が、実は結構困る問いでもある。なにせレオンと死に別れたのでさえ僅か一〇歳の時なのだ。
「母のことは覚えてないわ。私を生んですぐ亡くなってしまったし、父も私が一〇歳の時に死んじゃったし……でも私は父が大好きだった」
 戦死とは敢えて言わなかった。言わなくても知っているだろうということもあったが、口にすれば未だに戦死の理由に心を掻き乱され冷静でいられなくなると思ったからだ。
 知ってか知らずか、ロイエンタールはそれに対しては何も言わなかった。
「どういう人だったんだ? お前の父親は」
 帝国軍随一の智将という答えを期待しているわけではなさそうである。軍人なら誰もが知っていることなのだ。
「優しくて大きくて暖かくて、でも怒らせると凄く恐かったわ」
 僅か十年分しかないレオンの想い出。ひとつひとつの想い出を話せと言われれば、それこそ一晩中でも語り続けられるだろうが、どういう人間だったと問われるとこれだけが精一杯、だが十分にレオンの人柄を表せていると思うそんな言葉だろう。
 母がいない分、亡き母の分まで自分を愛してくれたレオン……その父を失ったことは今でも哀しいが思い出すのは嫌じゃない。思い出すと優しい気持ちになれるのだ。

 

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