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第五章

二 闇の彼方に


 頬に触れる冷たい指の感触に、闇に堕ちた意識が浮上する。躰に力が入らず腕どころか指一本動かせない。瞼を持ち上げるのにさえ渾身の力を必要とした。ボンヤリとした視界に入ったのは、自分を見下ろす人の姿。
(だれ……?)
 紡いだ筈の言葉は、だが言葉にならず相手には届かなかった。手を伸ばそうとしたが微動だにしないそれは指先を僅かに動かすことができただけにすぎない。だが、薄れゆく意識が再び闇に堕ちようとする間際、その手が力強い腕に包み込まれるように握られたのを確かに感じとった。
 奇蹟は起こった。ヤンが、そしてシェーンコップが信じたヘネラリーフェの生存、神に委ねられた彼女の生命はまだ失われてはいなかったのである。

「救難信号が発信されています」
 そんな報告がロイエンタールの耳に入ったのは、ヘネラリーフェを残したままのニュクスがゼッフル粒子の引火によって広がる誘爆の炎に呑み込まれようとしているそんなときであった。
 敵ながらその戦術と覚悟に賞賛以外のどんな言葉も出ない。『闇のニュクス』と名高い敵の将帥に逢ってみたいとさえ思っていた彼にとって、この報告に対する決断は早かった。 
 その少し前に旗艦からシャトルが脱出したことはトリスタンでも確認していた。司令官がそれに同乗していたことも充分考えられる。帝国の腐敗した貴族共ならそれが当然であったし、貴族でなどなくてもイザとなれば自分の命可愛さに部下を見捨てる上官などロイエンタールはそれこそ掃いて捨てるほど見てきた。
 だが、おかしなものだが今目の前で瀕死の状態にある艦隊の司令官には、そんな者達とは違う何かがあるように思えるのだ。旗艦を敵と友軍の間にワープさせ自らが危険の真っ直中に突入してきたこと、機雷を艦の後方に投下したこと、それらを考え合わせれば自然と指揮官の人柄は判断できるのである。
 危険はこの際承知の上で、ロイエンタールは敵旗艦内へ救助の手を差し伸べた。そこにあるのが恐らく司令官自身なのだろうという確信にも似た想いを抱きながら。
 救命艇がトリスタンに着艦しハッチが開く。ストレッチャーに寝かされたその人物の姿に、敵の司令官をひとめでも見ようと集まっていた将兵達は思わず息を呑んだ。異様な雰囲気にロイエンタールが訝しげな表情でそれに近付く。
 驚愕、唖然、呆然……ロイエンタールに最も相応しくない言葉であるが、生まれて初めて彼はその言葉の意味を正確に悟ったとでも言いたげな表情をしていた。
「馬鹿な……女だと?」
 あれほどの優れた作戦を立案し、更に過激で無茶な戦い方をする人物がよもや女だったとは、洞察力に優れる彼にも予測不可能であった。そして、彼を驚愕させたのはなにも相手が女だったからという点だけに留められるものではなかったのである。
(この髪、この顔。よりによってこんな偶然がおこるものなのか?)
 医務室に運び込まれた女の長い髪が、白いシーツの上に波のように広がっている。閉じられた双眸の色はわからないが、だがロイエンタールは確信していた。極上の翡翠色、深く澄んだ海の如き青緑色だろうと……
 彼の優美な手が軍服の内ポケットを探った。取り出したのは銀の小さなロケット。開けると澄んだ音色が微かに響き渡る。
「ロイエンタール、敵の司令官を……」
 ロケットの内蓋をボンヤリと見つめるロイエンタールに、報告をもらって駆けつけたミッターマイヤーが声をかけた。いや、正確にはかけようとした、である。
 いつものロイエンタールとはどこか違っていることをいち早く見抜いた十数年来の親友は、声をかけることを躊躇ったのである。
 そんなミッターマイヤーを振り返ると、ロイエンタールは手の中のロケットを彼に差し出しながら、顎でしゃくるようにしてベッドに横たわる人物をミッターマイヤーに示した。
「!?」
 どんなに過酷で熾烈な戦場にあろうと常に冷静なミッターマイヤーが、その瞬間声を失った。その時、あそこまで勇戦した敵の司令官が女性であったということよりも、更に大きな衝撃がミッターマイヤーを襲っていたことは言うまでもない。
 そこに横たわっている人物こそこの数年間、そうあの過酷なカプチェランカから生還して以来一日たりとて忘れたことのない、そしてロイエンタールにとっては束の間とはいえ友誼をかわした人物から託された女性だったのである。
 カプチェランカで生還を喜び合ったあの夜のことがミッターマイヤーの脳裏に甦る。出逢ったらどうなるのだろう? あの時彼は確かにそう考えた。それがまさか現実のものになろうとは…… 
(こんな奇蹟が本当に起こるとは)
「ところで彼女の容態はどうなんだ?」
 最初の衝撃からようやく立ち直ったミッターマイヤーが聞いた。
「裂傷に擦過傷に火傷に打撲に骨折」
 軍医が言うには命があるのが不思議なほどであったらしい。確かに彼女のとった策は脱出を諦めてのいわば自殺行為だったのである。今頃宇宙の塵と化していたとしても何等不思議はないあの状態で命が助かったことだけでも奇蹟に近い。それでもまだ危険な状態だと付け加えることを軍医は忘れなかった。
「それにしても写真だけ見ていても凄く綺麗な娘だと思っていたけど、実物はまた凄まじいな」
 妙な感嘆をあげながら眠るヘネラリーフェを静かに見やる。華奢な躰は裸体を白い包帯に覆われ痛々しい限りであった。か細い息は、だが荒く苦しそうである。
 その時ミッターマイヤーはベッド脇に置かれたネームプレートに気付いた。彼女の物なのだろうそれにミッターマイヤーは何気なく目をやり次の瞬間凍り付く。
「ロイエンタール……これ見てみろ」
 絞り出したかのような親友の声に、ロイエンタールがミッターマイヤーの手の中にあるネームプレートを面倒くさげに見やる。今更彼女の名前など確認する必要などロイエンタールにはなかったのだ。
「ヘネラリーフェ・セレニオン・フォン=ブラウシュタット……ブラウシュタットだと?」
 ようやくミッターマイヤーの大きすぎる反応に合点がいった。
「ブラウシュタットって、あのブラウシュタットだよなぁ」
 同姓同名でない限り、彼女は十数年前戦死した当時の侯爵家当主レオン・ルーイヒの縁者であるに違いない。そして、侯爵の血縁はこの世にたったひとりしかいない。
「行方不明になっていた娘だということか」
 ミッターマイヤーの呟きにロイエンタールの冷静な声が応じた。二重の偶然にそれ以上言葉も出ない。
 賞賛に値する敵軍の司令官は、ロイエンタールがカプチェランカで遭遇した敵兵の婚約者であったばかりか、よりによって十数年前帝国軍元帥であった男の戦死と共に行方不明になっていた侯爵家の一人娘だった。そしてそれだけでは済まされない事実がまだある。
「確かブラウシュタット侯爵の奥方は先帝の従姉妹姫だったな」
 つまり今瀕死の床にある美貌の女性には、彼等にとって粛正の対象たる血が流れているのである。
 同盟軍の将校を捕虜にしたということだけでもローエングラム公への報告は免れない。これが尉官や佐官クラスなら元帥閣下にわざわざ報告するまでもなく各艦隊司令官にその身柄は一任される。だが、相手が将官ともなれば持っている情報の重要度が違うのだ。おそらく憲兵に引き渡され厳しく取り調べられるであろうことは明白である。
 そして下手に隠し立てすれば叛逆者と取られかねないのだ。ことに総参謀長オーベルシュタイン上級大将あたりなら、これをネタにロイエンタールに粛正の手を伸ばしかねない。
「どうする、ロイエンタール?」
 ミッターマイヤーがそう言いかけたその時、眠るヘネラリーフェが僅かに身じろぎした。言葉を呑んで見守る二人の前で思った通りの美しい青緑色の双眸がうっすらと開かれる。
「フロイライン?」
 だが彼女がその呼びかけに応えることはなかった。虚ろな眼差しがロイエンタールに向けられたが、どうやらよく見えていないらしい。そもそも意識自体がまだ朦朧としているのだろう。ここがどこなのか、自分の身がどうなっているのか……それを判断できるだけの認識力が今の彼女にあるとは思えなかった。
 見守る二人の目にヘネラリーフェの口元が僅かに動かされたのが見えた。何事かを呟いたようであるが、体力が著しく低下している身では声が声として紡がれることはまず無理といえる。
 そのまま彼女の意識は再び闇に呑まれていく。意識が堕ちる間際、細い指が微かに動いたことにロイエンタールは気付いた。恐らく手を差し伸べようとしたのだろう。それが彼を認識している故の行為でないことは容易にわかることである。だが、ロイエンタールは咄嗟に彼女の細い手をとり強く握り締めた。
 眠るヘネラリーフェが僅かながらも安心したような表情をしたのは気のせいだったのだろうか。
「ミッターマイヤー、少しだけ待ってくれ。せめて彼女が危険な状態を脱するまで」
 この時ロイエンタールの心中にどんな想いがあったのか、ミッターマイヤーにもそれを推し量ることはできなかった。ただ、感情でも理性でも説明できない何かがあったことだけは確かである。
 ミッターマイヤーは何も言わずにその場から立ち去った。そしてその無言の行為こそミッターマイヤーがロイエンタールの言葉を了承したという意味でもあった。

 

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