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第十三章

四 DECISION


「今、何と言った?」
「ハイネセンには私が行くと申し上げたのです」
 ヤンが静かな眼差しで軍服姿のヘネラリーフェを見つめる。
「本気なのか?」
 問いかけはヤンではなく、その場にいたアッテンボローからのものだった。信じられないという想いが表情と口調に顕著に現れている。
 言葉には出さないながらもヤンの隣に控えるシェーンコップも同じ表情をしていた。そして義父ビュコックも……
 そんな彼等を見渡しながらヘネラリーフェは頷いた。
「フェザーンに同行する人員を考えると、ハイネセンに行けるのは小官しかいません」
「だったら、俺がハイネセンに行く! お前はフェザーンに行け!!」
 ようやくだ……ようやくロイエンタールに逢えたというのに、意地を張ることなく奴の腕に己の全てを預けることができるようになったというのに、何故それをわざわざ壊そうとするのか、アッテンボローには理解できなかった。
「行きたいの! 私が行きたいの……だから……」
 あまりに強い決意を湛えた青緑色の澄んだ瞳の色合いに誰もが呑まれた。
「即答はできない。少し考えさせてもらっても良いかな?」
 静かなヤンの声音に、やるせなさを含む緊迫した空気が落ち着きを取り戻す。ヘネラリーフェは頷くと敬礼してその場から退出した。 その後を追うようにして、アッテンボローとシェーンコップも退出していく。
 残されたヤンとビュコックはただ顔を見合わせるしかなく、苦笑と溜息を洩らした。まったくヘネラリーフェらしいことだ……恐らく二人の胸中にはこんな言葉が浮かんでいたことだろう。
 司令官室の前にはロイエンタール、ミッターマイヤー、そしてどういうわけかキルヒアイスが待ちかまえていた。ハイネセンの混乱の原因と責任の一旦は帝国軍にもあるということで、イゼルローンの誰が赴くことになるにしても帝国側からも最高司令官代理であるキルヒアイス元帥が同行する旨がヘネラリーフェに伝えられる。
「フロイライン、本気でハイネセンへ行く気か?」
 職務上の伝達を終えた後で、親友を横目で見やりながらミッターマイヤーが遠慮がちに口を開いた。彼の心境は恐らくアッテンボローと同じだろう。問いに答えようとしたヘネラリーフェは、だが背後からの怒声によってそれを阻まれた。
「どういうつもりだ!?」
 振り返るとアッテンボローとシェーンコップの姿。だが激昂しているのは予想に反してシェーンコップの方であった。滅多に冷静さを崩さない男が熱くなっている……さすがのヘネラリーフェも一瞬言葉を失った。
「ロイエンタール元帥、貴官はそれで良いのか!?」
「ロイエンタールと話し合って決めたことよ!」
 ヘネラリーフェが叫ぶように言い放った。だがそれで納得できるくらいなら、そもそも彼程の男がここまで怒りを露わにすることはないだろう。
「それをあんたは了承したのか? 納得したというのかっ!?」
 俊速の拳が怒声と共に繰り出されるのが見えた。
「やめて!!」
 次の瞬間シェーンコップの拳は、それを認めながらも微動だにしなかった金銀妖瞳の数ミリ前で所在なく留まり、そして、拳を繰り出した張本人の身体はヘネラリーフェの躰で押し留められていた。
「聞いて!! 中将……聞いて下さい。ううん、みんなも……」
 シェーンコップに抱きつき、顔を彼の胸に押しつけながらヘネラリーフェの口から呻くような声が零れ落ちた。
「まだ必要としてくれているんです……ヤン提督が、まだ私が必要だって……」
 シェーンコップが脱力したように腕を降ろした。
「ブリュンヒルトから戻った後、私暫く寝込んでいたでしょう? あの時、病気ってことと負傷していたってことも勿論あるんだけど、それだけではなくて……脱力っていうのかしらね。自分の躰からどんどん気力と生気が抜け落ちていくのがわかった。でもそれならそれで良いと思ったの。このまま逝くのも悪くないって……」
 本気でそう思っていた。
 戦争は終わった。バーラト星域の自治は認められた。たったそれだけのことではあるが、だがそれは自由惑星同盟にとってとてつもなく大きな勝利だった筈だ。
 捕虜になり服従を強要され、義父を守る為とはいえ帝国軍への従軍を余儀なくされたばかりか司令官としてヤンに刃を向けなければならず、それでも最期の最期に同盟軍司令官としてヤンの下で働くことができた。そして、ロイエンタール……
 硝煙と血の匂いの中、己の心を縛ることなく正面から向かい合い、そして抱き合えた。あの幸福感と充足感は人生最高のものだろうと思う。だから……
「もう良いと思った……もうこれで良いと……もう眠っても良いと……眠らせて欲しいと」
「…………」
 シェーンコップは勿論のこと、ロイエンタールも、ミッターマイヤー、キルヒアイスそしてアッテンボローも、ヘネラリーフェの言葉をただ静かに聞いていた。この時彼等に何が言えたというのだろう? ヘネラリーフェの言っていることは、それほど重い言葉でありつい先刻までの彼女の紛れもない真実の心なのだ。
「この戦いでどれほど私が役に立てたとしても、かつて共に戦場に立った同胞を裏切った私の罪は消えない……私は一生かけても償いきれないようなことを、貴方達に、そしてヤン提督にしてしまった」
 義父を助けたい一心での行動だった。イゼルローンにヘネラリーフェを非難する者はいないだろう。だからこそ……それがわかっているからこそ、自分が許せないのだ。彼等の優しさに甘えている自分が心底許せなく、そして憎かった。
 ブリュンヒルトでロイエンタールを殺そうとした時、彼なら自分を殺そうとする女を必ず殺してくれると思っていた。躊躇うことなく自分を討ってくれるだろうと……あれはまさしく他人の手を借りての自殺行為になる筈だった。いや、もしかすると心中と言った方が良いのかもしれない。
 同胞に刃を向けたばかりか、亡きダグラスを忘れ、よりによってダグラスを殺し、自分を捕虜にしたばかりか絶対服従を強要しヘネラリーフェを滅茶苦茶にした敵将帥を愛するなど絶対に認められない。だが心に嘘はつけない。辛くて哀しくて憎くて、でも愛しくて……相反する気持ちを持て余すそんな自分を消してしまいたかったのだ。
「でも結果的にロイエンタールは私を殺してはくれず、私もまた彼を殺すことはできなかった……私はまた生き残ってしまった」
 死んでしまうことでしか詫びる方法が見つからない……そんなヘネラリーフェにヤンは言ったのだ。まだ君が必要なのだと……混乱し衰弱しきった同盟を元通りにするには、そしてこれから手を携えて歩んでいくだろう同盟と帝国の未来に、ヘネラリーフェの力は必要不可欠なのだと。
「だからハイネセンに行きます。ヤン提督に、いえ、今の自由惑星同盟に私の力が必要なのだというのなら、私のいる場所はハイネセンしかない……」
 シェーンコップの腕を掴む細い指に力が込められ、彼の胸に顔を埋めたままのヘネラリーフェの華奢な肩が微かに震え出した。
「私ね、自分の意志でロイエンタールの元にいたわけじゃなかったでしょ? でも、愛してしまったから……愛しているから……だから今度は自分の意志で彼の前に立ちたいの。自分の足で歩きたいの。ロイエンタールはわかってくれたわ。だから……お願い……」
 もし、この時まだヘネラリーフェが死にたいと、そうすることでしか罪を償う方法がないと言っていたら、恐らくシェーンコップはヘネラリーフェを許さなかっただろう。それこそ俺達への裏切りだとばかりに殴り飛ばしていたことだろう。どんな状態、状況であれ、彼女が生きていただけで確かに彼等は嬉しかったのだから……
 そして、彼女は愛していると言った。確かにロイエンタールを愛しているのだと。それだけで今は充分なのかもしれない。一度は未来を捨て去り、そして生きながらも従属する人形となり果てたヘネラリーフェが再び人を愛するようになったことだけで今は……
「まったく……何度も死にかけた割に成長していないな。相変わらず不器用な奴だ」
 溜息に苦笑を混じらせながら、シェーンコップがヘネラリーフェの髪に口付ける。
「貴官はこいつを待っていられるのか?」
 グレーがかったブラウンの双眸が真摯な色合いを帯びてロイエンタールの左右色違いの瞳を射抜いた。
「ああ……リーフェにその気がなくなっても俺は待つつもりだ」
 もとより覚悟の上だ。今自分がここにあるのも、すべてはヘネラリーフェが捨て身で守ってくれたからこそなのだ。
 ヘネラリーフェに同胞への罪の意識と共に死への誘惑を植え付けさせた最大の原因であり諸悪の根元と言えるのはそもそもロイエンタールである。その気持ちが彼にある限り、いや、それを永遠に己の心の中に閉じ込めていくつもりのロイエンタールにしてみれば、彼女の決意をただ静かに見守ってやることしかできない。
 ヘネラリーフェを信じて待つこと……それも彼の強い愛情なのだ。
「負けたよ……」
 俯いたままのヘネラリーフェの頬を己の掌で挟むようにして、シェーンコップは彼女の顔を上向かせた。
「いい男を捕まえたな、お嬢ちゃん」
 いいざま、シェーンコップはヘネラリーフェの涙を湛えた翡翠を思わせる美しい瞳にそっと口付けた。
「!?」
 口付けられた当の本人は一瞬唖然としたものの、慣れている(?)ということもあって苦笑しただけに留まった。イゼルローン組の人間もヘネラリーフェと同じく見慣れていたこともあり『またやっているよ』くらいにしか思わなかった。問題はそれ以外の人間である。
 瞬間息を呑む気配が伝わった。同時に誰もがロイエンタールを見やった。気温が下がったかのようにそこだけ冷ややかに感じられたのは気の所為だけとは言い切れないだろう。
 険しい目付きながらも表情だけは寸分も変えることのない金銀妖瞳の男に対して、だがシェーンコップは挑発するかのように嘲笑ともとれる笑みを贈った。勿論ヘネラリーフェの華奢な肢体を腕の中に閉じこめたままである。それは、大切な妹(のような存在)をかっさらっていく相手に対しての彼独特の祝福だったのかもしれない。(単なる嫌がらせとも充分とれるのだが)
 二人の視線の真ん中で火花が炸裂したような、そんな気がした。
 やれやれとでも言いたげな表情をしていたのは実はヘネラリーフェである。彼女にしてみればシェーンコップがいつもの調子を取り戻したというただそれだけのことであるのだが、ロイエンタールにそれは通じないだろう。
 ヘネラリーフェがロイエンタールの元にいる間、彼女はいわばロイエンタールの独占状態であったわけだし、知らぬ者が見ればヘネラリーフェとシェーンコップの仲は疑いを持ちかねないようなものでもあるのだ。いや、実際この二人が一線を越えた仲であるのか否かは本人のみぞ知る……に近い状況なのだが。ともあれ、つまりは洒落にならないということだ。
「中将……」
 シェーンコップの天の邪鬼的な祝福は心底嬉しかったが、さすがにロイエンタールに対して(何せ下手なことをすれば勝手に孤独になってくれるような性格なのだ)気が咎めたのかヘネラリーフェがシェーンコップを諫めようと口を開きかけた。が、それは達成される前に阻まれることになる。
「どうです? ハイネセン行きを承諾されては?」
 シェーンコップがヘネラリーフェを抱いたまま背後を振り返る。いつの間にかヤンがビュコックと共に立っていた。
「しかし……」
 難色を示したのはヤンの方だ。確かに適任者は彼女しかいない。だがそうは言っても、はいそうですかとヘネラリーフェをハイネセンに送ることは躊躇われた。とにかく何が起きても不思議はないくらいに荒れているだろうと予測できるのだ。
 それにハイネセンには彼女のことを裏切り者呼ばわりして受け入れない人間もいるだろう。わざわざ傷付けられに行かせるなど避けるべきではないのか? ヤンはそう思い悩んでいたのだ。
「小官も同行しますよ」
 シェーンコップがサラリと言い放った。固まったのはヤンではなく、ヘネラリーフェであり、アッテンボローであった。
「な、何言ってるの~~!?」
 思わず叫びながら、ヘネラリーフェはシェーンコップの腕の中で藻掻いた。
 要塞防御指揮官が要塞を離れてどうするというのだ? いや、それに関しては帝国との戦闘がなくなった今、それほど重要に考える必要はないかもしれない。が、ならばフェザーンに赴くヤンの護衛として同行すべきだし本人もそう思っているだろうと誰もが考えており、それはヘネラリーフェも例外ではなかったのだ。
「ヤン提督にはユリアンもアッテンボロー中将もついている。ま、俺には遠く及ばんだろうが、彼等も護衛としてはかなりの強者だ」
 自信満々の不敵な態度と口調が、逆に彼が本気だと悟らせた。
「でも……」
 尚も言い募るヘネラリーフェを後目に、シェーンコップは再度ヤンを振り返りながら言った。
「大切なお嬢ちゃんをひとりでハイネセンにやるわけにはいかんでしょう」
 この言葉でヤンの心も決まった。確かに地に足をつけている限り、シェーンコップほど頼もしい味方はいないだろう。ヘネラリーフェを支えるにこれほど相応しい援軍はいないのかもしれない。
「わかった……ブラウシュタット中将ならびにシェーンコップ中将にハイネセンへの進駐を託すことにする」
「そういうことだ。ヤン提督命令ということで大人しく言うことを聞くんだな、お嬢ちゃん」
 言いながら、シェーンコップはその大きな手でヘネラリーフェの髪を乱暴に掻き乱した。乱暴な割に優しいその感触……ヘネラリーフェはそれ以上固辞することは控え、素直に(?)好意を受け入れた。
 結局最終的にこの二人と共にビュコックも同行することとなり、後に彼が統合作戦本部長としてハイネセンにおいて軍部を実質的に統率することになる。一度は軍を引退し、復帰後は帝国軍の大軍と渡り合い、そして思想の為に命を捨て去ろうとさえした宿将は、命長らえたが為にまだまだ当分は休ませてもらえそうにはなかった。

 

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