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Secret Kiss
 

 星明かりの中の仄かに蒼い闇の中、セレスはファーレンハイトの背中の小さなほくろを指でなぞりながら数える。
 彼の寝息が不意にリズムを変え、彼女は手を止めた。
 小さな溜息が薄く色付いた口唇から漏れる。
 セレスは、手近にあったファーレンハイトのシャツを羽織ると、そっとベッドを抜け出し窓際に立つ。
 そんなセレスの気配を背中で探るファーレンハイトであった。

***

 その日、皇宮では少し風変わりな夜会が開かれていた。
 と言っても、将官達の装いがいつものような軍服ではなくスーツというだけで、その他は取り立てて普段と変わりがない。
 あるとしたら、女性陣が仮装らしき衣装を着ていることくらいだろうか。それにしても、同盟のような突拍子のない衣装を着ている者はいない。
 せいぜい、ヘネラリーフェが悪戯心でブルネットのウィッグを付けているくらいだろうか。
 だが、それだけでもイメージがかなり違うらしく、目を白黒させる者も多かった。
 さて、人いきれの中で少し暑いなと思ったヘネラリーフェが、外の空気を吸おうと広間から中庭の見える回廊に出ようと歩き出した時にそれは起こった。
 突然後ろから腕を掴まれ、無理矢理振り向かされたのだ。
「セレスッ!?」
「え?」
 振り向いたヘネラリーフェは訳がわからず、青緑色の瞳を見開いて呆然としている。
「あ……すみません、人違いでした」
 明らかに意気消沈している目の前の将官は、ファーレンハイトであった。
「人違い?」
「ええ……」
 氷の驍将と呼ばれる美丈夫提督は弱々しく苦笑しながら、ポツリと呟く。
「フロイラインの後ろ姿が、ある人に似ていましてね」
 そういえば……と、彼は付け足す。
「貴女も同盟軍人で、相容れないれない相手との恋に苦しんだ経験の持ち主でしたね」
「あの?」
 ファーレンハイトの言いたいことがわからなくて、ヘネラリーフェは困惑気味だ。
「宜しければ、少し散歩でもしませんか?」
 ついでに、私の思い出話に付き合ってくれれば有り難い……
 ファーレンハイトの言葉に、ヘネラリーフェは元々広間から逃げ出す好機を窺っていたのだからと、あっさり承知したのだった。

***

 貧乏貴族ながらも名門の出であるファーレンハイトは、食う為だけに軍人になったと豪語するものの、本人自身に何か将来の目標があるわけでもなく、ただ一日一日を退廃的に生きる青年であった。
 そんな時、偶然場末のバーで知り合ったのが、ブルネットの髪に、それとは対照的な薄い紫の瞳を持つ一人の女だった。
 アンバランスな美貌に息を呑むファーレンハイトの姿が容易に想像できる。
 彼女はセレスと名乗り、二人は特に会話もないのに意気投合し、そのままなし崩しに二人でファーレンハイトの官舎へ帰り、そして同じベッドでまるで互いを貪るように愛し合い、眠った。
 それが馴れ初め。
 二人の関係は、まるでセレスの黒髪に絡め取られたかのように、ズルズルと続いた。
 セレスは、魅惑的だが、どこか謎めいた女だった。
 名前以外は何も語ろうとしない。いや、その名前にしたって、本名がどうかわからない。
 フリードリヒ四世が亡くなり、世情は益々怪しくなってきている昨今、こんな謎めいた人間を傍に寄せることは、自身の身の破滅に繋がりかねなかったが、それでもファーレンハイトは、彼女を手放すことが出来なくなっていた。
 過信でなく、恐らくセレスの方もそうだったのだろうと思う。
 二人は、互いの心の隙間を埋めるが如く、激しく愛し合った。まるで燃え尽きても構わないと思っているように……
 ファーレンハイトは、それならそれで良いと思っていた。
 毎日、官舎に帰れば彼女が薄紅色の口唇に微笑を湛えて出迎えてくれる。向かい合って食事をとって、そして愛し合う。明日のことは考えず、ただただ『今』を生きていれば、それで良いと……
 そんな退廃的で静穏な生活が一月ほど続いた頃、異変は起きた。
 一緒に抱き合いながら眠った筈のセレスが、夜中にふと目が覚めるとファーレンハイトの腕の中にいず、彼のデスクの引き出しをコッソリ開けていたりしていることに気付いたのだ。
 最初はたまたま目が覚めたから、部屋の中を見るともなしに見ているのだと思った。だが、何度も目撃するうち、彼女の見ているものがデスクやゴミ箱周辺だということに気付き、ファーレンハイトは内心愕然とした。
(もしや……)
 そんな疑惑が湧き出す。

***

「彼女はね、同盟の諜報員だったのですよ」
 ファーレンハイトは淡々と語った。
「あの頃、門閥貴族とローエングラム侯は一発触発の状態だった」
 もし戦闘となれば、自分はどちらに付くべきか……そんな不安が絶えず脳裏を駆け巡る日々だった。
「そんな緊迫した中での彼女の出逢いと行動を目の当たりにして、私はさすがに青ざめました」
 だが、逆に『このまま、流れにまかせてしまえ』という想いも湧き出す。
「私はね、あの時何者にも価値を見いだせない恋の煉獄に捕らわれていたのですよ」
 そして、家名ばかりを誇る貴族共に嫌気がさしていたのかもしれない。
「食う為に軍人になったイコール、結局家の為に自分の人生を犠牲にしなくてはならない……そんな自分自身の立場を投げ出したくなったと言った方が良いかもしれません」
 思えば、食う為なら軍人でなくても良かったのだ。
「ファーレンハイト提督……」
 ヘネラリーフェの微かな呼び掛けは、風が掻き消した。

***

「何をしている?」
 蒼い闇の中を、静かながらも冷酷な声が問いただす。
 ビクリと振り向いた薄紫色の瞳は、だが不適に笑っていた。
「なぁんだ、バレちゃったのか……」
 まるで、親に悪戯を見つけられた子供のように、桃色の舌をペロリと出す。
「答えになっていないな……」
 何をしていた?
 再度の問い掛けに、セレスの顔から微笑が消えた。
「見てわからない? 貴方のことを調べていたのよ」
 ついでに、門閥貴族とローエングラム侯を攪乱して、ファーレンハイトを無実の罪に陥れ、いずれ同盟に向かってくるだろう戦力を削ごうとした。
「ごめんね、これが私の仕事なの」
 諜報員として、女である自分でさえも武器にする。それがセレスのやり方。
 次の瞬間、俄に外が騒がしくなった。
「何事だ?」
「ああ、多分憲兵隊ね」
「なんだと?」
「アーダルベルト・フォン=ファーレンハイトは、同盟の諜報員と連んでいるという情報をばらまいたから」
 ふふっと笑いながら、セレスは銃を抜いて構えながらファーレンハイトに近付いてくる。
 彼は動かない。
 セレスは、ファーレンハイトのこめかみに銃を突き付けると、玄関へと向かった。
「?」
 その時、ファーレンハイトの中をある疑問が駆け抜けた。
(何を考えている?)
 自分を陥れるなら、人質にする必要などないではないか!?
 彼の疑問の答えはすぐに出た。
 ファーレンハイトに銃を突き付けたまま玄関に出ると、セレスが叫んだのだ。
「随分早くバレたものね」
 私もヤキが回ったかしら……
 そう言うなり、セレスはファーレンハイトを憲兵隊員の方に突き飛ばした上、更に彼の腕を銃で撃ち抜き、そのまま官舎の中へ戻った。
 追おうとする憲兵隊の目前で焔が上がる。
 ファーレンハイトは息を呑んでその光景を見ていた。
(何故だ?)
 セレスは確かにファーレンハイトを陥れる為に近付いたと言った。
 そして、彼が裏切り者であるという噂をばらまいた。
 だが、今セレスが取った行動は、明らかにファーレンハイトが被害者であると証明したようなものである。
(何故? どうして!?)
 自問自答する中で、ファーレンハイトの官舎から出た火は益々大きくなり、憲兵隊は、手つかずで眺めているだけだった。

***

「結局、彼女の遺体は見つからず、私は諜報員に騙された被害者とされ、何の咎めも受けませんでした」
 だが、セレスに裏切られ、にもかかわらず救われたことで、彼の心は均衡を失った。
「何もかもがどうでもよくなり、私はリップシュタットでは負けが見えていた門閥貴族方に付いた」
 だが生き残ってしまった。
 そして、ローエングラム侯に認められ、以来彼の下で生き恥をさらしながら功績を挙げてきたのだ。
 あの時、彼女は何を考えていたのか……
「ああ、すみません。こんなこと聞いても、貴女にわかる筈がないですよね」
 ただ、同じ同盟軍人として、セレスとヘネラリーフェを同一視してしまっているのだろう。
 だが、ヘネラリーフェは呟くように言った。
「これほど辛いと思った仕事はなかった……」
「え?」
「これほど途中で逃げ出したいと思った仕事はなかった」
「フロイライン?」
「……彼女の、セレスからの最後の通信です……」
「知っているのですか、彼女を!?」
 だがヘネラリーフェは答えずに踵を返して広間に戻ろうとする。
「フロイライン!!」
 追いすがるようなファーレンハイトの声に、ヘネラリーフェが足を止め、そして振り向いた。
「ファーレンハイト提督、私の副官をまだ紹介していませんでしたね」
 帝国と同盟の連合艦隊がシャーテンブルクに駐留して銀河の治安を守るという案は既に動きだしている。そしてその人員もほぼ決まっていた。(←既刊本『Moon Rudder』参照)
 ヘネラリーフェは同盟側の総司令官。そして、帝国側は上級大将が交代でその任に当たることになっている。その最初の帝国側司令官はファーレンハイトであった。
「閣下、お呼びですか?」
 不意にファーレンハイトの背後から、忘れたくても忘れられない声が耳に流れ込む。
 ゆっくりと振り向いた彼の水色の瞳に最初に映ったのは、艶やかなブルネットの長い髪。次いで、薄紫色の瞳。
「セレス……?」
「私の同僚であり副官の、セレスティーヌ=ウェルズリーです」
 セレスとはコードネームではなく、愛称。
「本名だったのか?」
「・・・・・」
 答えはない。だが、それが答えでもあった。
 言葉はいらない。今、止まったままの刻が動き出した。あとは空白を埋めるだけである。

 

Fin

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*あとがき*

キリ番『7777』ゲットのかんこさんからのリクエストで、ファーレンハイトの過去の恋愛話でした。
実はこれ、かなり長編になりそうなネタだったのですが、ひとまずキリリクとして、一部を考えてアップという感じにしてみました。
時間があるときに、もっと細かい成り行きや今後のことも練って書きたいなぁと思う作品です。
ということで、長編の中の一編的な作品になってしまいまして、かんこさんにはごめんなさいな作品になってしまいましたが、今後もちょっと格闘してみますね。
そうそう、セレスとはギリシャ神話の豊穣(大地)の女神のことでございます。

 

2004/02/26 かくてる♪ていすと 蒼乃拝

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