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第八章

三 危険な瞬間


 侵入者対策の為にリートベルク等は一旦階上へと姿を消し、ヘネラリーフェは地下室にひとり残された。だが薬に支配された身体と精神では動くことも考えることもままならない。
 耳元で激しく鐘を打ち鳴らされているかのような不興和音が頭の中を縦横無尽に駆け巡ることで酷い頭痛と嘔吐、そして更に寒気にまで苛まされていた。
 リートベルク達が地下室から出ていったことにだけはなんとか気付けたが、だが誰もいないはずなのに彼女の耳に、いや、直接頭に、心を解き放て……堕ちてしまえと冷ややかに囁く声が響き渡る。
 発狂寸前のヘネラリーフェを救ったのは、だがあろうことかロイエンタールの幻影であった。
(だから……どうしてあんたの顔が出てくるのよ)
 声にならない声でいつまでたっても消えない幻覚に罵る。どうせならダグラスに会いたかった。そうだ……彼が迎えに来てくれればいいのだ。そうすればこれ以上苦痛に耐える必要はなくなる。楽になれるのだ。
(来てよ、ダグ……)
 屋敷内の騒然とした空気を、今のヘネラリーフェが読みとれるとは思えない。静かな闇が支配するその空間に小さな呟きが流れた。
「ダグ……ロイエンタール……」
 最初の言葉は意識して、だが次の言葉は無意識に放たれた言葉だった。色の無い、だが極彩色の、そして沈黙と不協和音が支配する混沌の世界に堕ちて彷徨う今の彼女にはそれに自分自身で気付く思考は残されていなかった。
 そして無意識だからこそその言葉は素直な本心なのかもしれない。
 このままでは心を失ってしまう……纏まらない思考の中でそう考えたヘネラリーフェは自らの意識を閉じようとした。いや、そもそも今こうして意識を保っていられることが不思議な程なのである。
 意識が堕ちる寸前にヘネラリーフェが虚ろな眼差しの向こうに見ていたもの……それは紛れもなくロイエンタールの姿であった。
 一方ロイエンタールは、屋敷の形状から(いや、そもそも古来から人間のやることはあまり変わり映えしていないのだ)ヘネラリーフェが監禁されているのは地下室だろうと見当をつけ、慎重に、だが侵入者を追っているであろう者達とわざわざ鉢合わせられるように路を選び、ゆっくりと階下へ進んでいく。
 さすがに戦略家としても名高いロイエンタールのこと。期せずして地下への階段で敵と遭遇した。ここからはロイエンタールの騙し戦法にかかっている。
 いかにリートベルク側が人数を揃えていたとしてもロイエンタールは白兵戦でも勇名を馳せる軍人である。まともにあたればそれほど時間をかけることなく全滅させられていたのだろうが、ロイエンタールの方としても手っ取り早く片付けてしまうわけにもいかないのだ。
 とにかく事件の根底にあるものが知りたかった。そしてヘネラリーフェ……
 答えを見つける為にも今は彼女に逢いたかった。そう、逢いたいと心底思った。
 こんなふうにロイエンタールが己の欲求を素直に現すのは、珍しいを取り越して驚嘆ものかもしれない。
 思いもよらぬ自分自身の想いにロイエンタールは状況には不似合いな苦笑を端麗な口元に浮かべた。
 だが敵はそれを不敵な嘲笑ととったようだ。ロイエンタールを囲み銃を突き付ける。内心してやったりとほくそ笑みながらロイエンタールはホールドアップしたのだった。
 グッタリと横たわるヘネラリーフェの姿がロイエンタールの左右色違いの瞳に飛び込んでくる。ざっと見たところでは外傷はないようだが、様子が普通でないことに彼は気付いた。
 意識があるのかないのか……だが時折激しく躰をしならせ仰け反らせるのだ。恐らく幻覚を見ているのだろう。吐く息は荒く苦しげで、可憐な唇からは呻くような苦鳴が漏れている。
 ふと見やったヘネラリーフェの、着衣を胸元まではだけられ露わになった白皙の肌の鎖骨の下あたりに紫色の変色した注射の痕を見てとった。
「薬か……」
 ヘネラリーフェの様子から見てもそう察するのは簡単なことだった。
幾分顔色を青ざめさせたロイエンタールの前に部下から彼を捕らえた旨を伝え聞いたリートベルクが現れる。
彼は部下に命じ、ロイエンタールを背後から羽交い締めにするとヘネラリーフェの傍らの床にまるで跪かせるようにして押さえつけた。
 そしてロイエンタールの視線の先にあるものを見ると彼は嗤いながら言った。
「強情を張るのでね、少しだけお仕置きをしたのですよ」
 だからと言って正体を無くすまで投与する必要があるのだろうか? 自白剤(だと思うが)はひとつ間違えば聞きたいことを聞き出すどころか相手の精神を破壊する恐れのある危険な薬剤なのである。
 そんな危険なものを抗うこともできない女に大量に投与するとは……しかもほとんど良くなったとはいえヘネラリーフェの傷はまだ完治したわけではない。身体も常人のことを思えば健康にはほど遠いのである。
 こんなことを考えるロイエンタールをこれまでの彼を知る者が見れば鬼の霍乱だとばかりに仰天することだろう。この時彼は確かに自分の中に怒りが湧き上がるのを実感していた。
 彼の纏う気が冷ややかさを増していき、蒼と黒の双眸には青白い焔が揺らめきだす。それは凡人なら逆に気付かないであろう冷酷な怒りの焔だった。
 だが、そんなロイエンタールの中に冷静にこの状況を分析する別の彼がいた。それがこの怒りに歯止めをかける。まだ動いてはいけないと……
 ミッターマイヤーが何らかの手を打ってくれるまで軽はずみに動くことはできない。下手をすれば彼をも窮地に立たせてしまうかもしれないのだ。怒りに早まる鼓動を息を深く吸うことでロイエンタールは無理矢理鎮めた。
 冷静さを取り戻した彼の耳が銃の安全装置を外す微かな金属音を聞き咎める。このまま殺されてしまうのだろうか。そうなれば全てが水泡に帰す。
 が、殺された後のことにまで責任を持ことはできないので、さっさと殺してくれるならそれも悪くないかもと不謹慎なことを考えるのもロイエンタールならではだろう。
 だがどうやら彼等には今はまだロイエンタール達を殺すつもりはなかったらしい。いや、現実はそれよりも厄介だったのかもしれない。
 銃を突き付けられたのはロイエンタールでなく彼の目の前に横たわるヘネラリーフェであった。
 ただ彼女の今の状態では銃を突き付けられていることにも気付けはしなかっただろう。それどころか目の前にいる人間さえ判別できず、いや、ひょっとすると人の気配さえも読みとれなくなっているのかもしれない。
 今の彼女はすぐ傍らにロイエンタールがいることにさえ気付いていないに違いなかった。
「やめろ!!」
 ロイエンタールの絶叫に耳を貸すことなく、リートベルクは彼女の左腕の付け根に銃口をあてがうと躊躇うことなく引き金を引いた。血がパッと飛び散り見る間にヘネラリーフェの上半身が鮮血に濡れていく。 
 だが、どうしたことだろうか……彼女は呻き声ひとつあげなかった。仮にも銃で撃たれているのだ。その衝撃が耐え難い激痛として全身を駆け巡ったはずである。
「そうか……薬の所為か」
 ロイエンタールは気付いた。恐らく自白剤が痲酔の役目をしているのだ。
彼女が痛みというショックを受けないだけでもともかく今は良かったのかもしれない。だがリートベルクの真意がわからない。何故この状態のヘネラリーフェを撃ったのか……
 考えを巡らせる間もなく、次の瞬間ヘネラリーフェを傷付けた銃口がロイエンタールに向けられた。ここまでかと戦慄がはしる。
 押さえつけられたままの彼を二度に渡る衝撃が襲い、それは切り裂かれるような痛みへと変化していき全身に脂汗が吹き出す。ロイエンタールの右腕と右足から鮮血が滴り落ちた。
「安心して下さい、まだ殺しはしませんよ。その前準備なんですよ、今はね」
「悪趣味だな」
 痛みを表情に出すことなく乱れた前髪を掻き上げながらロイエンタールは不敵に、そして冷然と嗤って見せた。
 気迫の眼差しに恐怖を覚えリートベルクは僅かに後ずさったが、すぐに気を取り直し己の悪趣味(本人はそうは思っていないのだろうが)な茶番劇の説明を得意げに聞かせはじめた。
「仲良く心中して下さい」
 リートベルクはそう言った。だったら心臓を撃ち抜けば良かったのだ。そうすれば手間をかけずに一発で仕留められる。
 だが嫌味を込めたロイエンタールのその言葉をリートベルクは一笑の下に伏した。
 それでは楽しみがなくなると……
 一発で殺してしまったら痛めつけられ動きを封じられたまま、じわじわとヴァルハラに追い立てられる二人の姿を見物できないではないかと彼は言ったのだ。
(狂っている……)
 ロイエンタールは己が他人に対して初めて恐怖という感情を抱いたことを悟った。殺されることに対してではない。彼の壊れかけた精神にである。リートベルクが何やら得体の知れない魔性の者にさえ思えた。
 同時にロイエンタールはまだ自分が精神を崩壊させていないことを確信した。まだ壊れていなかった……いつ壊れてもおかしくないと思い、またそうなることを望んでいるかのように自虐的で破滅的な行動をとってきた。
 何も、哀しみも痛みも恐れも感じない自分が既に向こうの世界に入り込みかけているのではないかと考えたことさえある。だが彼はまだ現世に足を留めていたのだ。そして、確かに傷の痛みを感じている自分がそこにいた。
 これがヘネラリーフェの存在によるものであるということだけはロイエンタールにでもわかった。
 嫌いな筈の他人の為に泣き、悪夢の苛まされる男をその温もりで包み込んだヘネラリーフェだからこそ成し得た、これは確かに奇跡だろう。
「お二人に相応しく熱く燃えたぎる炎の中で殺して差し上げますよ」
 遺体が見つかれば誰もがローエングラム元帥府のスキャンダルとして噂しあうだろう。
 元帥府きっての名提督ロイエンタール上級大将がこともあろうか行方不明になっていた皇家の血を引く侯爵家の姫君と一線を越えた関係であったこと。そしてそんな彼女を殺して火を放ち無理心中に及んだと……
「僅かですがお二人に時間をプレゼントしますよ。恋人同士の甘い刻をお過ごし下さい。私からのほんの気持ちです」
 それだけ言い残すとリートベルクはさも楽しくてたまらないとでも言うように嗤いながら立ち去ったのだった。

 

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