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第三章

四 戸惑い


 結局その後の訓練はお流れとなったが、ユリアンにとっては貴重な時間だったに違いない。
(僕はまだまだ甘い)
 そう思えるだけのものを今日のたった数時間で思い知らされた。いくら優しく笑っていても人間それだけではないのだということを。
 ヘネラリーフェの才能は才能だけではなかったと実感していた。どれほどの辛さと哀しみに彼女は耐えてきたのだろうか? それこそが彼女をあそこまで成長させたのだ。 
 聞かなくてもダグラス=ビュコックという人物と彼女の関係はわかる。そう、義兄妹以上の関係だったのだ。だからこそ、一体彼女がどんな気持ちで今日あの場にいたのだろうかと考えずにはいられなかった。
 ヤンに参謀はいらない。だが、大脳に小脳が必要なようにユリアンは彼を支えられる、守れる存在になりたいと思っていた。それにはまず強くなることと考えていたが、それだけでは人を支えることはできないのだろう。
 ヤンがヘネラリーフェを必要とするのは、何も彼女の艦隊司令官としての能力だけではなかったのだ。それは他の者達、そうシェーンコップにもアッテンボローにも無論言えることである。
 この世の辛酸を舐め尽くしてこそのヘネラリーフェの現在なら、ユリアンにはまだまだ遠い道のりであった。そして彼女の味わったその辛酸を知りたいと思うことはごく自然の欲求なのかもしれない。
「それは彼女本人に聞くべきだな」
 だがアッテンボローはそう言ってユリアンをやんわりと突き放した。となれば、他の誰に聞いても同じ反応を示されことは明白である。いや、そもそも他力本願な自分の方が悪いのである。コソコソと探るような真似は、あのヘネラリーフェに対して恥ずかしいだけのことである筈だった。
 そう思い始めた頃、思いもよらぬ誘いをユリアンは受けた。見晴るかされていた……それはそう思えるような状況でもあった。
「これから呑みに行くがお前さんも来るか?」
「ブラウシュタット少将はいらっしゃるのですか?」
「なんだお前さん、あのお嬢ちゃんに興味があるのか? まあいい、実はお前さんを呼べと言ったのは彼女の方だ」
 思わず胸が高鳴る。自分を誘ってくれたのは他ならぬヘネラリーフェの方だったのだ。ユリアンが二つ返事で誘いを受けたことは言うまでもない。
「ご免なさいね、全然訓練にならなかったでしょ」
 初めて顔を合わせた時と変わることのない静穏な笑みでユリアンは迎えられた。
 彼女の哀しい一面を目の当たりにした後だけになんとなく目を逸らしかけたが、あきらかに何事もなかったかのような彼女の態度に同時に戸惑いをも覚えた。
 掴み所のない人……そんなフレーズが頭の中を駆け巡る。
(一四歳の若さにしては人を見抜く目を持っている)
 ユリアンの頭の中をアッテンボローなりシェーンコップなりが覗いたなら、恐らくそう思ったことだろう。
 酒宴にはアッテンボローも参加していた。アッテンボローとヘネラリーフェが知己であるということは知っていたが、二人の間に先刻聞かされたばかりのダグラス=ビュコックの存在があることを、この時ユリアンは初めて知ることとなる。
 別に隠すことでもないし、その気もないからとヘネラリーフェはユリアンに何もかもというわけではないだろうが自分の生い立ちを掻い摘んで話したが、最初からそのつもりで酒宴に誘ってくれたのかもしれない……と、ユリアンはそう思った。
 酒量に関してはヤンで見慣れているはずのユリアンから見ても、ヘネラリーフェの量とピッチは多すぎ且つ早すぎるように思えるものであった。
 それを裏付けるかのようにアッテンボローが何度となく制止させようとするのだが、どうやら人の言うことを素直に聞くような性格ではないらしい。ことにこうと決めたことならテコでも動かないであろうヘネラリーフェの頑固さがユリアンにはなんとなく読めた。ヤンにも似たところがあるのである。
 さすがに未成年を酒場に遅くまで拘束するのは教育上宜しくないということで、ユリアンは早々にヤンの待つフラットへと帰宅させられたが、その頃にはヘネラリーフェはかなり酔いつぶれているようにも見えた。
 シェーンコップとアッテンボローの様子からどうやらこんなことは初めてのようである。気にしつつも席を立つユリアンの耳にヘネラリーフェの微かな呟きが流れ込んだ。
「身を守る術なんて身に付けるもんじゃないわ。死ぬ間際に生きろって言われたら生きるしかないじゃない。結局この躰は私の思い通りには動かないようになってしまった」
 今日目の当たりにしたヘネラリーフェの戦闘能力は凄まじいものであった。訓練された流麗な躰の動きは美しくさえあったのである。が、逆に死を望む者にとってそれは忌まわしいもの以外の何物でもないであろう。躰が勝手に危険を回避してしまうのだ。そして訓練とはそういうものなのである。
(彼女は死を望んでいる?)
 衝撃と不安を抱きつつ、ユリアンは後ろ髪を引かれる想いでその場を後にした。
「やれやれ、完全に潰れたな」
「珍しいんだがな、こんな荒れ方は」
 酔いの欠片も感じられない二人の声は微かな苦笑を含んでいる。明日になればヘネラリーフェが何事もなかったかのように振る舞うであろうことがわかるだけに、たまにはこんな風に荒れさせてやることも良いのではないかという二人の意見は一致していた。
 問題はこれからである。アッテンボローにしてみれば彼女をひとりにしておきたくなかった。まあ、これはシェーンコップも同意見であろう。ではどちらが? ということになると、これが一番の大問題なのである。
 日頃の素行から見ても、シェーンコップに任せるには大いに不安があった。もっとも、真面目な話しシェーンコップが正体をなくして眠りこけている女に手を出すとも思えないのだが。
 あくまでも彼はフェミニストを気取っているだけのことはある筈なのである。そういう意味ではまあ信用できるのかもしれない。が、そういう問題ではなく、彼はヘネラリーフェを近くで支えられる存在でいたかったのだ。しかし、同時にダグラスとアッテンボローがあまりに近すぎる存在であったことが不安でもあった。
 アッテンボローの存在が、ヘネラリーフェにダグラスを断ち切らせない要因となっているのではないのか? そんな考えが確かにあったのだから。
「俺は自制に不安があるからな、後は貴官に任せる。彼女に不埒なことをするなよ、不良中年」
 心とは裏腹の言葉を残し、結局アッテンボローが立ち去った。それはヘネラリーフェを思うが故の行動でもあった。
「まったく脱帽するね、アッテンボロー提督。それほどこのお嬢ちゃんが大切か?」
「それはあんたもだろ」
 少々皮肉を込めたやりとりが、誰もいなくなった士官クラブに微かに響き渡った。

 翌朝のヘネラリーフェの気分は最悪であった。二日酔いではなくもっとショックな、見知らぬ寝室のベッドの中で目覚めてみれば半裸状態、しかも横にはこれまたほとんど全裸に近いシェーンコップ、な状況にである。
「★!◇#?×▲$%」
「悲鳴を上げるなら、自分の身体を見回してキスマークのひとつでもついてることを確認してからにしてくれよ」
 わなわなと震えるヘネラリーフェに苦笑を含んだ言葉が投げかけられる。余裕綽々のその言葉と態度に、ヘネラリーフェはムカツクと同時に自分の身が無事であったことを確信しこっそり安堵の溜息をついた。
 別に今更貞操がどうのとか言う気はないのだが(かといって遊びまくっているわけでもないのだが)知らぬ間にというのだけはなるべく避けたかったのだ。
「まだ早い、もう少し眠ったらどうだ?」
 逞しい腕が伸びてヘネラリーフェの細い肩を抱き寄せようとする。
「あのね、准将……私これでも一応嫁入り前の娘なんですけど」
 額に温泉マークを浮き上がらせながら、それでも努めて冷静にと言い聞かせながらヘネラリーフェは言うだけ言ってみた。何を言っても暖簾に腕押しだと思いながら。
「嫁入り前の娘が正体なくすほど酔い潰れることの方が問題あると思うがな」
 言い返せなかった。
 シェーンコップは俯きかけるヘネラリーフェの髪をクシャリと掻き乱すとそのまま自分の胸に抱き寄せる。華奢な躰はあっさりとシェーンコップの腕の中に収まった。
「ちょっ!?」
「大人しくしていろっ!」
 易々とシェーンコップの術中にはまったことに慌てたヘネラリーフェは彼の腕から逃れようと藻掻いたが、それは彼の滅多に聞かれることのない一喝によって封じられた。いつも冷静で、そして不敵に笑む姿を見せつけられている身にこれは効く。
 未婚の女性としては歓迎し難い状況ながらも、ヘネラリーフェは大人しくシェーンコップの言葉に従うしかなかった。
「昨夜自分が言ったことを覚えているか?」
 恥ずかしながらそのあたりの記憶はあやふやだ。シェーンコップの方にしてもヘネラリーフェの返事を期待していたわけではないらしく、特に返答を待つことなく話しを続けた。
「死ぬ間際に生きろと言われたら生きるしかない。身を守る術など邪魔なだけだ。そう言ったんだ、お前は」
「…………」
「お前が生きているのは、生きろと言われたからか? 義務や強制で生きているのか、お前は? それはダグラスに対して失礼じゃぁないのか? 彼も恐らく死ぬ間際にお前の父親と同じことを願ったはずだ。生きろと……お前だけは生きてくれと。それでも尚お前は生ける屍でいるつもりなのか!? そんなに死にたければ俺が今ここで殺してやろうか」
 抱き締められていた躰を仰向けにされ押さえつけられたと思ったら、シェーンコップの指がヘネラリーフェの細い頸にかけられた。冗談などではなく本気でその指に力が加えられていく。
「表情が違っているぞ、お嬢ちゃん。殺されようとしている女の表情じゃぁない」
 グレーかかったブラウンの厳しい眼差しを真っ正面から受け取った青緑色の双眸には恐怖ではなく、澄んだ輝きがまるで海の底に届いた光のように深く揺蕩っていた。
 その深海を思わせる美しい瞳から見る間に透明の雫が流れ落ちる。誰にも見せたことのない、そう実の父親を目の前で亡くした時にも、そして最愛のダグラスを亡くしたときでさえも見せなかった、それは確かに涙であった。
「やっと泣いたな」
 その言葉で、ヘネラリーフェは自分が涙を流していることにようやく気付き、自分で自分の心がコントロールできないことにパニックを起こしかけた。 
 慌てて泣き顔を隠そうとするが、その手はシェーンコップの手によって阻まれる。
「やっと人間らしい反応を見せてくれたんだ。そのままでいろよ」
 イゼルローン攻略戦で再会したときに、この男には敵わないと思い知った筈であった。だが、それを再び思い知らされようとは。
(今だけ)
 頑なに閉ざした心に易々と入り込み戸惑わせ振り回し甘やかす。そんなシェーンコップに今だけ自分の総てを託そう。
 ヘネラリーフェは彼の胸に躰を預けると一〇年分の涙を流しきることに専念し、シェーンコップはそんな彼女の躰を抱き締めてやることでヘネラリーフェの心を受け入れてやったのだった。

 シェーンコップとヘネラリーフェが仲良く遅刻という噂は瞬く間に要塞内を駆け巡ったものの、一緒に出勤する二人の、特にヘネラリーフェのあまりに晴れやかな表情に誰もが戸惑ったようである。
 何かあったのか何もなかったのか? いくら女たらしでも一回り近くも年下の女に手を出すほど不自由しているわけじゃないだろうとか、いやあの男は野獣だとか、噂の類のほとんどがシェーンコップのことに一貫しているところが、なんとも彼の人柄を物語るところである。
 ただアッテンボローだけは二人の関係の真相を確信していたらしく、幾分憮然としながらもシェーンコップに何事か囁いていた。
「吹っ切らせたのか。さすが女にかけては名うてのたらしだな」
 どうも素直に礼を言えない性格らしい。だがこれは相手にも言えることなのでフィフティフィフティということにしておこう。
 なにせこのイゼルローンにいる人間の名簿だけを見れば軍のブラックリストなんじゃないのかと勘ぐりたくなるようなそんな人種の宝庫なのである。簡単に御せないのは自分も他人も同じであった。もっともその急先鋒がヘネラリーフェであることは万人の頷くところなのであるが。
 とにかく、その日からヘネラリーフェの質の悪い性格に更に拍車がかかったことは言うまでもない。影響を受けるならもう少しマシな人間のものにして欲しいと、ご意見番のムライあたりなら頭を抱えたかもしれない。
 ひとつ付け加えるなら、益々パワフルになったヘネラリーフェからは自虐的という要素は、内面はどうあれ表向きは完全に取り払われていた。ただし無茶・無謀が彼女の専売特許であることに変わりはない。

 

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