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第十一章

三 硝子の世界


 別れ際、ヘネラリーフェの義父であるアレクサンドル=ビュコックに明日会えないかと言われたとき、ロイエンタールは彼らしくもなく内心動揺した。
 退役したとは言え、つい昨日まで同盟軍の宇宙艦隊司令長官の座にいた男が一体なんの用なのか? いや、ヘネラリーフェの義父と思った方がこの際良いのだろうか? と落ち着かないまま一夜を明かしたのだ。
 そして翌朝、ロイエンタールは約束の場へと向かいビュコックと対峙した。敗戦国の元帥が戦勝国の将官を飛びつけるというのもおかしな話だが、そうでもしなければ落ち着いて話せる場が持てるとは到底思えない。
 しかし、呼び出したとは言えビュコックがこの時ロイエンタールに何を言わんとしていたのか、実は本人でさえも明確に決めていたわけではなかった。ただ、別れ際のヘネラリーフェの様子と、たかだか捕虜の為に連絡を寄越したロイエンタールとの間に何かがあっただろうということしかわからなかったのだ。
 街をそぞろ歩きながら一言も口を聞かないまま刻は流れていく。口火を切ったのはロイエンタールの方だった。
「これをお返ししておきます」
 そう言ってロイエンタールがダグラスの遺品であるあのロケットを差し出したのだ。ビュコックの目が軽く見開かれた。目の前の金銀妖瞳の男が、ヘネラリーフェだけでなく息子ダグラスにまで関わっていたことを知り運命の妙を感じたのだ。
「貴官はダグラスを……」
 知っているのか? 問い掛けは最後まで紡がれなかった。
「ダグラス=ビュコックの最期を見とったのは私です。本当に……惜しい男でした」
 皆まで語らせる必要はない。その言葉だけで、ロイエンタールとダグラスの関係がどういうものであったのかをビュコックは的確に悟ったのだ。
 ロケットを開けてみた。現れたのはまだ少女らしさを残す笑みを湛えたヘネラリーフェの澄んだ青緑色の瞳……星に願いをのメロディーがもの哀しさを誘う。
「最期の最期までヘネラリーフェが傍にいてくれたんじゃな」
 ポツリと言った言葉は震えていた。一人きりで逝ってしまったとばかり思っていた息子の傍には、絶えずヘネラリーフェが寄り添っていてくれたのだ。そして思った。大切な大切な、恐らく命よりも大切なヘネラリーフェへの想いが宿るこのロケットをロイエンタールに預けたダグラスの心を……
「貴官は何故ヘネラリーフェを手元に置いたのかな?」
 捕虜なら去勢区に送り込むのが常だろう。ヘネラリーフェが将官であるなら尚更、手元に置かず憲兵隊の手に委ねるべきだろうし、それでなくとも彼女は最前線にあるヤンの幕僚だ。聞き出すべき事も多かろう。
「最初はただの興味からでした」
 ロイエンタールがこれまでの経緯を淡々と語り始めた。
 最初は興味だけだった。自分にあそこまで肉薄したダグラス=ビュコックという男が愛した女への純粋な興味しか抱いていなかったのだ。それが次第にそれだけではなくなったのはいつからだったのだろうか? いや、もしかしたら自分でも気付かない心の奥底でロケットの中のヘネラリーフェの青緑色の双眸に捕らわれていたのかもしれない。何よりも、彼女のまた色々な意味でロイエンタールに肉薄した一人なのである。軍人として、そして人間として惹かれるのも無理はない。
「私には両親がいませんでした」
 それは物質的な意味ではなく、精神的なものとして……話はロイエンタールの生い立ちにまで及ぶ。
「幼い頃の生い立ちの所為か、私は人間というものに対して今一歩踏み込むことができず……」
 その結果、人恋しいくせに人を信じられず、抱き締めて欲しいのにぶつかることもできず、ただ見えないガラスに阻まれた死と隣り合わせの世界に引きこもっていた。
「私は人を受け入れられないかわりに、人に対して冷淡でした」
 だから抵抗できないヘネラリーフェを、まるで猛禽が小動物にするかのようにいたぶり続けた。だがその度にあの強い眼差しがロイエンタールを真っ直ぐに射抜いてくる。戸惑い、苛立ち、それをまたヘネラリーフェにぶつける。絶える事なき悪循環。それを断ち切ったのは……
「どうして憎むべき相手に優しく出来るのか、何故私のような者の為に泣けるのか、それが不思議でなりませんでした」
 実の親でさえもロイエンタールの為に何かしてくれたことはなかった。それどころか精神を殺されたも同然だったのだ。
「彼女のあの心の大きさ、広さ、優しさに惹かれたとして何の不思議がありますか? 初めてです、私が自分から人を欲するのは……」
 だが、その為に随分とヘネラリーフェを傷付けた。自分の気持ちを正面からぶつければぶつけるほど、彼女を傷付け哀しませたのだ。
「私は、とてもダグラスのあの度量の大きさには敵わない……」
「だからあの娘を儂の手元に帰してくれたのかな?」
 ビュコックの静かな一言にロイエンタールは一瞬口を噤んだが、次の瞬間ゆっくりと頷いた。
「敵わない……私では駄目だ。私では彼女を激情に巻き込んでしまう……」
 まるで自分を責めるようにロイエンタールは呟いた。ロイエンタールがヘネラリーフェに自分の想いをぶつけるのは、男のただの我が儘でしかなかったのだと気付かされたのだ。
「束縛することで自分の心を満たしているにすぎなかったのです」
 だがそんな言葉にビュコックは静かに頸を横に振った。誰も他人にはなれない。自分が最上だと思うやり方で相手に心をわかってもらうしかないのだ。決してダグラスが正しくてロイエンタールが正しくないなんてことはない。
「確かにダグラスは度量が桁外れに大きな男でなぁ……親に似んできた息子じゃった。儂は息子に一度聞いたことがあるよ。あれは確かリーフェが士官学校に入ると言い出した時じゃった。何故やめさせないのかと……なぜそんなことを許すのだと問い詰めたんじゃ」
 愛しているなら、束縛することになっても止めさせるべきだと……
「じゃが、ダグラスはこう言った。束縛できないほど愛していると……」
 言葉もなかった。ただ、ダグラスのヘネラリーフェへの強い想いが痛いほど伝わってきた。
「ヘネラリーフェが儂の手元に帰ってきたのは貴官のおかげじゃな」
 いや、ダグラスの人間性と言うべきかもしれない。あのダグラスの大きさがなければ、どんなに軍人として傑出した男だったとしてもロイエンタールの心を掴むことは出来なかったかもしれないのだ。そして、そんなダグラスが愛した女だからこそ、ロイエンタールはヘネラリーフェに惹かれたのだろう。
「あの娘が生きているという報告は実は既にイゼルローンから届いていたんじゃが……」
 だが状況がビュコックに喜びを与えなかった。生きてはいた。だがシェーンコップの言葉は、それが「生命」という意味合いの上ではと思わせるに充分なものだったのだ。
「あの娘は昔からひねくれ者でな。儂もダグラスもよく振り回されたもんじゃ」
 懐かしむような口調に言いしれない愛情が含まれていることにロイエンタールは気付いた。やはり思った通りだった。ダグラス=ビュコックを、そしてヘネラリーフェを育てた人物は想像した通り、彼等以上に大きくて優しくて暖かい人物だったのだ。
「だが、どんな状況に陥ろうと、あの真っ直ぐな気性が失われるとは思えん。あの娘が自らの意思で貴官の元に残ったからには、それなりの理由がある筈だと儂は思っておる」
 そして、それが単に足が不自由だからという理由だけではないということも……ヘネラリーフェがそんな理由で自らの信念を曲げたりしないということは育てたビュコックが一番よく知っていることなのだ。そうではない何か……そう、シェーンコップが考えた通りのことをビュコックもまたこの時考えていたのだった。
「家へ来ないかね?」
 たじろぐようなことをビュコックは突然言い放った。
「近すぎては見えないこともある」
 抽象的な言葉……だが、ロイエンタールはビュコックの真意を読みとった。もう一度あの娘に逢ってみないか? ビュコックはそう言っているのだ。その行動は、娘の為に最上のことをしてやりたいという、彼の考えそのものでもあった。

 ドアを開けた瞬間、目の前に壁ができたような感覚をヘネラリーフェは味わった。急速に室温が下がったようにも思える。顔を見るまでもなく、正面にいる人間の纏う冷ややかな気でそれが誰なのかを彼女は悟った。
「ロ……イエンタール……」
 一瞬、刻が止まったような気がした。

 

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