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第二章

二 潮満ちて


 アスターテ星域会戦から約一月後の三月某日、第四・第六艦隊の残存部隊に新規の兵力を加えて第十三艦隊が発足された。司令官はヤン=ウェンリー少将。
 ヘネラリーフェは第六艦隊の残存兵であるから当然この話しに関係している筈だったが、実は第十三艦隊の発足が決まった時点で彼女は第5艦隊への配属が決定していた。つまり、彼女にとってこれは所詮他人事だったのである。
 あくまでもこの時点では……
 アスターテ会戦の慰霊祭でもそうであったが、国防委員長ヨブ=トリューニヒトという厚顔無恥な人間は、軍のセレモニーを余程自分の政治ショーにしたいらしい。
 第十三艦隊の結成式も当然の如く主役は十三艦隊の要員ではなく、司令官のヤンでもなく、ただトリューニヒトという人間ひとりであった。無論彼のような男がテレビ中継を忘れる筈もなく、同盟中に結成式の映像が流されることになっている。
 トリューニヒトの空々しい美辞麗句を並べ立てた耳を塞ぎたくなるような演説に興味はなかったが、司令官のヤンへの興味は日々追うごとに膨れ上がるばかり。そんなヘネラリーフェが口先三寸の演説者と軍人らしくない司令官を天秤に掛けたときどちらに傾いたかと言えば当然ヤンの方にである。
 演説の最中はボリュームを落とせばいいのだからとヘネラリーフェはソリヴィジョンのスイッチを入れた。会場の壇上でほとんど自己陶酔に浸って喋り続ける国防委員長の姿に最初からゲンナリとしながら、だがそこにいる筈の人間がいないことにヘネラリーフェは唖然とした。
「司令官がいない? 逃げ出しでもしたのかしら」
 そんな疑問を抱く中ようやく政治ショーは終わり、セレモニーは新たに着任した司令官の訓辞へと進行していく。
「まさかと思うけど、この司令官遅刻したとか?」
 画面を見ながら呟かれた独白は呆然とした響きを含んでいた。が、それが程なく忍び笑いに変わっていく。訓辞とはとても言えないようなヤンの訓辞が終わっ頃にはそれは大爆笑という形容が一番相応しいと思えるものに変わっていた。
「な、なに~~これ~~! おっかし~~~ この司令官最高~~」
『え~と、どうもこういうのは……つまりその、国の為とか命をかけてとかじゃなくてそのぉ、旨い紅茶を飲めるのは生きている間だけだからみんな死なないように戦い抜こう』
 ヘネラリーフェを爆笑の渦に巻き込んだのは、軍人の常識では考えられないようなこんな言葉であった。軍上層部や参戦に大義名分を抱く選挙狂いの政治家共はさぞや度肝を抜かれたことであろう。
 義父であるビュコックが帰宅したのは、居間のソリヴィジョンの前でヘネラリーフェが笑い転げているまさにそんなときであった。
「随分楽しそうじゃな。面白いことでもあったか?」
「ヤン提督って最高~~ あの人の下でだったら楽しくお仕事できそうだわ」
 仕事上は直属の上官にあたるビュコック相手によくもまあそんなことが言えるものだと他人が聞いたら思うだろうが、ビュコックの見解は違った。まあ、義理とはいえ娘に対しては大甘な父親だからというのもあるが、別なところでビュコックはヘネラリーフェの変化を見たのだ。
(お前が他人に興味を持つとはな)
 ヘネラリーフェを手元に引き取ってから彼女が他人に興味を持ったのはビュコックが知る限りはただ一度きり、彼の息子ダグラスに対してだけであった。
 一見前向きで明るいかに見えるヘネラリーフェは士官学校に入るまでも入ってからも、そして従軍した今でも友人が多い。だが、その笑顔と静穏な雰囲気に巧みに隠されてほとんどの人間が気付かないものの、彼女は己の総てを彼等に見せているわけではない。計算されつくした表情と会話……ヘネラリーフェは誰にも心を許さず、絶えず一線を画して人に対していた。
 アッテンボローにも、いやそれどころかひょっとしたら最愛のダグラスにさえ彼女自身の本来の顔を見せていなかったのかもしれない。そしてそれはヘネラリーフェを一〇年間育てたビュコックだからこそ気付き得たことであった。
 他人に心を許さないヘネラリーフェに絶えず心を痛めてきたビュコックにとって、これは思わぬ所からの援軍のようなものである。未だに笑い続けるヘネラリーフェの姿はビュコックにとってはダグラスを亡くす以前からの本当に久々のものであり、彼は娘のそんな様子を暖かい眼差しで見守り続けた。(それにしたって笑いすぎである。何分笑っているんだ?)
 同日の昼過ぎ、ようやく笑いのツボから解放されたヘネラリーフェは統合作戦本部ビルのラウンジに来ていた。同僚との待ち合わせのためであるが、実はこの場に来た直後にその約束はキャンセルとなっていた。が、折角出てきたものをさっさと帰るのも勿体ないと時間を潰していくことにしたのだ。
 先刻見た第十三艦隊の結成式のヤンの言葉が印象的だった所為か、いつもならコーヒーを頼むところを紅茶にしたヘネラリーフェが所詮は軍のラウンジ制としか言えないようなそれを一口すすったところで騒ぎは起こった。
 ヘネラリーフェの背後でカップの砕ける音と悲鳴と怒声が響き渡る。普段ならやっかいごとはご免とばかりに知らぬ顔を決めつけるヘネラリーフェだったが、背中で気配を読む限りではトリューニヒト直属の将校がラウンジのウェイトレス、つまり女性相手に何やら絡んでいるようである。どうやら軍服にコーヒーを零されただけでそんな暴挙に出たようであった。
(軍人のどこか偉いって言うのよ。所詮人殺しじゃないの)
 彼等の軍人でございという言葉も気に入らなかった。しかも相手は軍の施設で働く民間人である。
 ヘネラリーフェは短気な方ではないし、特に虫の居所が悪いわけでもなかったが、軍人軍人とふんぞり返っている男達に神経が逆撫でられていた。
「いい加減にしろ!」
 イスを蹴り飛ばすようにして立ち上がると振り向きざま怒鳴りつけた。ウェイトレスに向けられていた方向違いの権力意識が、その一言でヘネラリーフェに向けられる。
「なんだとこの女。我々を誰だと思っている? 仮にも……」
 自分達の身分をひけらかそうとする言葉は最後まで言わせてもらえなかった。ヘネラリーフェがグラスの水を頭から浴びせたからである。瞬間辺りは静まり返った。そこにヘネラリーフェの声が響く。怒声でも罵声でもなく静かすぎる程の声音は、逆に彼女の怒りの大きさを思わせた。
「な、何をする!?」
「コーヒーのシミが気になるようでしたから水でもかければ良いと思ったんですけど、お気に召しませんでした?」
 相手がいきり立てば立つほどヘネラリーフェはどんどん冷静に、冷ややかになっていく。ついでに場に不釣り合いな極上の微笑が付け加えられた。が、それが相手の気に障ったようである。所詮相手は女とばかりに、彼等は暴力に訴えようとヘネラリーフェの襟元を掴むべく手を伸ばした。
「何をする!?」
 悲鳴を上げたのはヘネラリーフェではなく、暴力に訴えようとした者達の方であった。突如現れた屈強の腕に己の手を捻りあげられたのだ。
「女性相手に喧嘩を売るとは情けない限りですな」
 恭しい口調はかえって小馬鹿にされているような気分にさせられる。言われた方にしてみればさぞ不愉快極まりないだろう。どんな人間が吐いた言葉なのだろうかと、その場にいた全員の視線が闖入者へと向けられる。
 グレーかかったブラウンの髪と瞳、彫りの深い顔、長身で洗練された容姿の男が部下とおぼしき人間をふたり連れて立っていた。立っているだけで他人に威圧感を与える様相のその男は、先程の恭しすぎる口調とはかけ離れた不敵な笑みを湛えている。
「なんだ、貴様は!?」
「ワルター・フォン=シェーンコップ。薔薇の騎士連隊の隊長と言ったら少しは聞き覚えがあるだろう? どうやら貴官はそのシミが気になるらしい」
 言葉と同時にコーヒーが引っかけられ、相手が怯んだ。
 泣く子も黙るローゼンリッター連隊の隊長の名と辛辣な意趣返しは、トリューニヒトの権勢に乗ずる軍人にさえ動揺を抱かせるに十分なものであったらしい。それでも相手は尚も自分達の力を誇示しようと今度はシェーンコップ相手に罵詈雑言を吐きかけ、更に拳で殴りかかった。
 だが所詮勝負にはならない争いごと。突き出した拳をいとも簡単にシェーンコップに封じられ、挙げ句の果てに軽く突き飛ばされてしまう。結局彼等には大人しく引き下がるという方法しか残されていなかった。
 騒ぎがおさまったところで、シェーンコップの意識がヘネラリーフェへと向けられる。
「無茶をする奴だな。俺がいたから良かったようなものの下手をすれば痛い目にあっていたのはお嬢ちゃんの方だったぞ」
「誰がお嬢ちゃんなのよ。大体助けくれと頼んだ訳でもないのに」
 仮にも助けられた恩人に対して、だがヘネラリーフェは冷淡な口調と非友好的な眼差しを返した。彼の『お嬢ちゃん』という言葉にカチンときていたこともある。
「見かけによらず気が強そうだな。だが所詮世間知らずのお嬢ちゃんだ。そうだろう? 大佐殿」
 どう見ても階級に合わない若さだと踏んだのだろう。シェーンコップの言葉にはヘネラリーフェは所詮形だけのエリート軍人なのだという響きが込められていた。
 先程までの冷ややかさはどこへやら、ヘネラリーフェは咄嗟に腕を振り上げていた。士官学校首席は伊達ではない。首席卒業とは用兵学だけでなく戦闘全般に優れている言えるのである。つまり、ヘネラリーフェは見かけによらず白兵戦技でも首席あるいはそれに近い成績をおさめていたことになる。
 だがシェーンコップの頬に確実にヒットするはずだった彼女の腕は、見事にかわされた。正確には目的の場所に行き着く寸前で逞しい腕に捕らえられたという方が良いのだろうが。
 敏捷な動きをそれを上回る敏捷さで避けたシェーンコップは、だがヘネラリーフェへの印象をかえたようである。つい先程まで嘲笑ともとれる色しか浮かんでいなかった彼の双眸には感嘆の色が確かに加えられていた。
「ほぉ~~ 見かけだけのお嬢ちゃんではないようだな」
 今度会うときまでに腕を磨いておけよ! それだけ言い残すとシェーンコップは忍び笑いを残してヘネラリーフェの前から立ち去って行った。
「二度と会いたくないわよ!」
 毒づくヘネラリーフェの耳に不敵な高笑いだけが流れ込む。莫迦にされたというより、はなっから相手にされていないということに無性に腹がたった。
 だが、この時点で彼女自身気付いていないことがある。見る者が見れば明らかにそれとわかるヘネラリーフェの変貌。思わず感情的になってしまった彼女のその『感情』こそ、彼女が無意識に心の奥底に封印した筈のものであり、義父ビュコックが心を痛めていた原因そのものであるのだ。
 ヘネラリーフェにそれを取り戻させたのは、皮肉にも彼女が二度と会いたくないと思う男の功績であった。
 その出逢いは突然で急激で、どこか人の多く生まれる満ち潮を思わせた。

 

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