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第七章

五 REMINISCENCE


 リートベルク伯爵に関してのロイエンタールとヘネラリーフェのやりとりの最中、ミッターマイヤーがロイエンタールの屋敷を訪れた。そのまま三人で話を続けたが、それはなんとも奇妙な光景であった。なにせ双璧と呼ばれる帝国軍の重鎮に捕虜になった同盟軍将官という取り合わせである。
 それはそれとして、ロイエンタールより手渡された調書にはリートベルク伯爵の大まかな経歴が書かれていた。
「リートベルク伯爵、帝国歴四六三年生まれ。父方からゴールデンバウム家の血を引く」
 にもかかわらず彼の姓を聞いてもヘネラリーフェの記憶にない名なのだ。だが、それは数瞬後にあっけなく解決されることになる。調書を下へと読み進めていくと彼の父の婚歴について記載されていた。先代伯爵の妻、つまりリートベルク伯爵の実母の婚姻前と現在の名はミラベル・フォン=リートベルク。
「母方の姓を名乗っていたの……?」
 聞いてもわからないはずだ。てっきり父親の姓を名乗っていると思っていた。彼のような人間なら皇族の血を引く父方の姓を名乗るのが当然の心理だと信じて疑わなかったのだ。
 ロイエンタール達にしても、彼がリップシュタット戦役の際にローエングラム公の元にはせ参じた時には既に現在の姓名を名乗っていたから、遡って両親の姓名を調べようとは思わなかった。が、調書にはちゃんと記載されているのだから、気付けなかったのは迂闊と言えば迂闊である。
「この男、知ってるわ。ええ、とてもよくね……」
 ヘネラリーフェの暖かみを帯びた色合いの双眸が、氷河の深い割れ目に見えるような深く澄んだ冷たい青緑色に変化していく。同じ瞳の色とはとても思えないほど、それは冷ややかなものであった。ひょっとしたらとんでもない女を手元に置いているのではないのか……それはロイエンタールにそう思わせるに十分なものでもあった。
 知っているというより、よく覚えていたなという方がヘネラリーフェの正直な感想である。が、この言葉の持つ意味は言葉通りではない。覚えていて当然の相手ではあるのだ。なにせ相手は正真正銘ヘネラリーフェの従兄弟なのだから……
 覚えていたことが不思議な程というのは、つまりすっかり忘れていた存在だったということ。ヘネラリーフェにとって視界に入れる価値もない、彼はそういう男だったのである。
「悪い意味で昔と全く変わっていないと言うか、成長していないみたいね」
 殺伐とした冷笑がヘネラリーフェの口元に浮かぶ。どうやら従兄弟同士であるはずのリートベルク伯爵とヘネラリーフェの間には何かあるようだ。しかも決して仲が良いわけでなく、むしろ逆の感情が……である。
 調書を机に放り投げるように置くヘネラリーフェにロイエンタールとミッターマイヤーは無言の問いかけをした。厳しい眼差しが双璧を射抜いたが、その後微かな苦笑を浮かべるとポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「私が母方から皇族の血を引いているということはお二方ともご存じだと思うけど、要するに彼の父親と私の母は兄妹なのよ。しかも腹違いのね」
 兄妹と言えば聞こえはいいが、貴族の、しかも皇族の血を引く兄妹同士が腹違いとなると、世間一般のそれとは少々意味合いが違ってくる。猜疑心、疑心、恨み、辛み……この世のすべての負の要素を集めたかのような、それは醜悪な想いに彩られた関係であった。
「皇帝の従姉妹姫……その身分からか母の周りにいたのは媚び諂う人種ばかり。でも実際は……母は愛人の娘だったのよ。」
 だから虚飾に彩られた者達の表情の裏側には嫌悪と侮蔑の眼差しがあった。愛人の娘の分際で帝国屈指の名門侯爵家に嫁いだばかりか、その夫君は戦争の天才と謳われる名提督。部下から敬愛され上司からの人望も厚い夫と幸せな家庭を作って……誰もが羨むような理想的な夫婦の姿がそこにあった。
 母の母、つまりヘネラリーフェにとっての祖母はフリードリヒ四世の父帝のその弟の侍女として新無憂宮に仕えていた。そして皇弟の手がつき、ヘネラリーフェの母グロリエッテが生まれたのである。だがこの場合権力に屈した身分低き女性という悲劇的な要素はなかった。
 宮廷と言えば陰謀と謀略渦巻く人の心の暗部をそのまま写し取ったような場所だと思われがちである。事実そうであるのだが、だがそんな中で祖母は誰からも愛されるようなそんな愛らしい存在であったらしい。だが皇弟はある名門伯爵家の一人娘を正妻として迎えていた。
 皇族とは言え臣下に下る身分。結婚と同時に新無憂宮近くに用意された屋敷に移り住んだ。甘い初恋……その時憧れだけで終わる筈だったほのかな恋心は、だがそうはならなかった。静かに燃え続ける想い……皇弟と祖母のそれは正にそういう恋だったのだ。
 身分違いの恋は、だが二人に思い切った行動を諦めさせた。もしそれによって最愛の女性を危険な目に合わせるようなことになってしまえば悔やむに悔やみきれない。皇弟は彼女を傷付けないことだけを考えたのだ。
 そしてグロリエッテが生まれた。妻がありながら他の女性に手を出し子供まで成す。確かに許されることではない。それによって正妻が愛人に対して嫉妬と憎しみの炎を燃やしたとしても、誰も彼女のことを責めることはできない筈だ。
 妻には、既に夫からの愛情は失われているということはわかっていた。いや、最初から愛しあって結ばれた夫婦ではないのだ。だが名門貴族の家に生まれた者としての自尊心がそれを認めることを拒否した。
 妻は息子に夫を奪った女への憎しみと侮蔑の心を植え付けていった。その息子は腹違いではあるものの妹にあたる女に母から受け継いだそれらの暗い想いをぶつけていく。さらに自分の息子にも母から受け継いだものを手渡したのだ。
 だがその息子、つまりあのリートベルク伯爵はある意味切れ者だったのかもしれない。彼の父も、そして祖母にあたる女も己の想いをストレートに憎い相手にぶつけていた。だが、彼はそうはしなかったのだ。心の中では絶えず相手を嗤い侮蔑の眼差しを送るものの、それを表面にはおくびにも出さない。
 父の腹違いの妹であったグロリエッテは出産が元であっさりこの世を去ってしまった為、彼はその娘であるヘネラリーフェに正にそういう態度で近付いたのだ。
 伯父と違い優しい態度で接するリートベルク伯爵の本心を、だがヘネラリーフェは見抜いた。いや、最初は疑いもしなかっただろう。いかに今のヘネラリーフェが機知と胆力、そして他人を見る目を兼ね備えた有能な司令官だとしても、その頃はまだ幼かったのだ。
「弱い者虐めをして優越感を味わうガキだったのよ、あいつは」 
 立場の弱い者や子供、とにかく弱者を痛めつけることが当然とでもいうような振る舞い。所詮彼は血統至上主義を絵に描いたような貴族の甘ったれたガキだったのだ。
 それほど時間をかけることなくヘネラリーフェはリートベルク伯爵の本性を目の当たりにした。一見仲の良い従兄弟同士。だが同じ貴族でありながら、身分に関係なく人と接することのできるヘネラリーフェとは逆に、リートベルク伯爵にとっては自分以外は虫けら同然だとったのではなかったのだろうか。そんな態度がそこかしこに見られ……
「他人を傷付けることなどなんとも思っていなかったのよ」
 肉体的にではない。嗤いながら相手を精神的に追い詰めていくのだ。子供だからこそそれは尚残酷で……見かねて止めに入るヘネラリーフェにもそれは及んだ。そもそも最初からヘネラリーフェを嘲りの眼差しで見ていたのだから、単にそれが表に出ただけのことだ。その辺り、少し前からなんとなく気付いていたヘネラリーフェは……キレた。
「あの時ちゃんと言っておいたんだけどな」
 クスリと忍び笑いを洩らす彼女の表情にロイエンタールとミッターマイヤーは凍り付いた。あまりに凄惨なそれは、まさしく闇の女神に相応しい……正にそういう笑みだったのだ。
「あの眼差しの意味、やっと思い出したわ」
 それは今日の出来事のことを言っているようだった。ヘネラリーフェを見た途端浮かべた恐怖の表情と、それとは別の侮蔑の視線……
「所詮愛人の血を引く娘……そう思ってるのよ。まさか生きているとは思っていなかったからビックリしたんでしょうね」
 あれから既に十年以上の年月が流れている。あの嘲笑を込めた眼差しがなければヘネラリーフェが彼のことを思い出すことはなかっただろう。そういう意味では成長していないあの男に感謝しても良いくらいかもしれない。
 もっともヘネラリーフェなら感謝ではなく罵声とともに平手打ちのひとつやふたつに蹴りをサービスしてお見舞いするかもしれないが……

 

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