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 眠りに墜ちていた意識が不意に覚醒する。
 ヘネラリーフェは、闇の中で目を開けた。
 軍人としての鋭敏な感覚に何かが触れたわけでもなく、ただ何となく目が覚めてしまっただけなのだが、眠りを妨げられたことが酷く惜しいような気分に陥ってしまう。
 往生際悪く再び眠りに身を任せようと青緑色の瞳を閉じたヘネラリーフェだが、どうやら睡魔は彼女を見放してしまったらしい。
 数分後、無駄な努力を放棄したヘネラリーフェは再び目を開いた。
 夕刻窓を開けた名残だろうか、室内を満たす甘酸っぱいような香りは多分金木犀のもの。 
 そんな秋の香を漂わせるシンと静まり返った漆黒の闇の中、コトリとも物音のしない静寂の中から聞こえてくるのは、隣で眠る愛しい人の安らかな寝息だけだ。
 そっと躰の向きを変えると、穏やかな寝顔を見せるロイエンタールの端正な面が目に映る。
 とても綺麗な顔立ちの人。ぶっきらぼうで傲慢で思いっきり真面目なのに、他人には容赦がなく て。時と場合によっては手段さえ選ばない、そんな強かさを持った人。
 今、ヘネラリーフェをしっかりと、だが彼女が苦しくないよう柔らかく腕に抱き締めながら眠る彼の表情は、どこか切なくて優しくて、そして、ほんの少し乱れた前髪が閉じてる瞼に掛かっていてとても無防備だ。
 出逢ったばかりの頃、ロイエンタールは気配にとても敏感だった。元々眠り自体浅い体質であったようだが、それでも微かな物音に、そして当時まだ捕虜として扱われていたヘネラリーフェが彼の腕の中で身じろぎすることににさえ必ず目を覚ますその反応は病的と思えたほどだ。
 決して他人に心を許さなかったロイエンタールのその病的なまでの反応は、だがヘネラリーフェへの気持ちを自覚し、そして彼女の心を本当の意味で手に入れて以来、彼の中から消え失せた。
 いや、完全に消え失せたわけではない。今も時折、彼の腕の中のヘネラリーフェが身じろぎすると目を覚ますことを彼女は知っている。
 ただそれは、絶えず何かに恐れを抱いていたあの頃のものとは違う。だが、ヘネラリーフェの存在がまた別の意味で彼を不安にさせていることは確かで、それが彼女には切なかった。 
「ごめんね、不安にさせて……」
 寝乱れて額に落ちかかる前髪、スッキリ通った鼻梁、端麗な口元、そして今は閉じられているヘネラリーフェを魅了して止まない希有な二色の双眸……ロイエンタールの端正な貌を指でなぞりながら、ポツリと呟く。
 大切な、命よりも大切な存在だから、そしてそういう存在を得ることがこれまで生きてきた中で初めてのことだから、だからロイエンタールはそれを失ってしまう不安に絶えず恐れ戦いているのだろう。
「私の存在は、貴方にとって弱味にしかならないのかしらね」
 守るべきものを持つ者は強い。それが人であれ、信念であれ、人間とは決して失いたくはない何かを得た時、信じられないほどの強さを見せつける。
 嘗てのダグラスも、そして今現在のヘネラリーフェも然り。だが、ロイエンタールは逆だ。
『莫迦なことを言うな、お前は俺の強みだ』
 恐らく、ロイエンタールはへネラリーフェの言葉に、端麗な口元にちょっと皮肉っぽい笑みを湛えながらこう応えるだろう。
 確かに、ヘネラリーフェの得て以来、彼の中の危ういまでの自虐性は形を潜めた。相変わらず、自分と自分以外の世界との間を薄い玻璃で隔てているような所はあるが、だが今の彼は明らかに熱い血の通う『人間』だ。
 だが脆さは増長している。
「どうしたら、貴方のその不安を取り除いてあげられる?」
 これまでの彼は失うものなど何もなかった。それがある意味強みだったのだ。だが今は違う。
 失うものを得てしまった今の彼の心は、以前にも増してガラス細工のように脆くて繊細だ。恐らく、ヘネラリーフェの身に起きた些細な事柄ひとつで、いとも簡単に彼の精神を破綻させることができるだろう。
(考えてもしょうがないことなのかもしれないわね)
 ロイエンタールを守る為なら命をかけることも厭わない。その信念で、彼の心をも守ってやれば良いだけなのだ。そして、それはつまり、自らの身を大切に愛うことでもある。
 闇の中で微かな溜息をひとつ吐くと、ヘネラリーフェは華奢な躰に絡みつくしなやかな腕をそっと退け、ベッドの上に半身を起こした。
「今、何時だろう?」
 ベッドサイドの灯りを灯せば簡単に時間など確認できるのだが、ロイエンタールを起こしてしまう危険性も伴う。彼の安らかな眠りを妨げたくはない。
 そう思った時、階下から柱時計が刻を打つ重厚な音色が二つ響いてきた。
「二時か……」
 金木犀の香り漂うこの季節、夜が明けるまでにはまだ間がある。ヘネラリーフェは逃げ出してしまった睡魔をもう一度呼び戻すべくベッドに横になろうとした。
「あらあら、風邪引いちゃう」
 横たわろうとして、だが上掛けの中から零れ落ちたロイエンタールの肩と腕が目に入った。
 そっと、彼を起こさぬように上掛けの中にしなやかで力強い腕を入れてやり、更にそれを肩まで引き上げてやる。そして、寝乱れたダークブラウンの髪を細い指で梳くようにして撫でながら、そのまま暫くロイエンタールの寝顔を眺め続けた。
 執務中や戦闘中の彼の姿からは恐らく誰も想像できやしないだろう。こうしてヘネラリーフェの温もりに包まれながら幼子のように無防備な寝顔を晒す彼など……
(そういえば……)
 ふと気付いた。深夜二時ということは、既に日付が変わっているということだ。
「今日はもう一〇月二六日なのね」
 一〇月二六日、ロイエンタールがこの世に生を受けた日……決して望まれて生まれてきたわけではなかった彼の存在がとても愛おしく、そして生まれてきてくれたことに感謝せずにはいられない。
「・・・・・」
 不意に、何かを思い立ったかのように、ヘネラリーフェはベッドを降りた。
「ちょっと待っててね」
 ベッドの上のロイエンタールに振り返ってこう囁くと、ヘネラリーフェは足音を偲ばせながら部屋を出ていく。
 暫く後、彼女は外の冴えた空気と一緒に花を付けた金木犀の枝を腕一杯に抱えて戻ってきた。
 枝一杯に付いた黄金色の小花を摘み取り、ロイエンタールの眠るベッドの上に広げていく。十数分後、甘酸っぱい芳香を漂わせるそれらに埋もれるようにして眠るロイエンタールの姿がそこにあった。
 上掛けを持ち上げて眠る人の横にそっと忍び込むと、ヘネラリーフェは華奢な指で額に落ちかかる彼の乱れた前髪を掻き上げ、そしてロイエンタールの身体に覆い被さるようにして彼のこめかみにそっと口付ける。その口唇が額から頬を滑り落ち、耳朶を甘噛みした。
「ハッピーバースデー、ロイエンタール」
 彼の耳元に、可憐な薄紅色の口唇が、雨音の調べのような柔らかく甘いアルトの囁きを吹き込む。
「今日は貴方の言うことを何でも聞いてあげるわね」
(大好き……)
 面と向かって言うには照れくさい一言を心のなかで囁いて、そしてヘネラリーフェは睡魔の優しい腕に抱かれるべく、ベッドに横たわった。
 ロイエンタールの身体に華奢な身を擦り寄せると、無意識なのか意識してなのか、逞しい腕が絡みつき、抱き寄せられる。
「ロイ?」
 起きているのではないかと思い、思わず声を掛けたが、だが彼は相変わらず安らかな寝息をたてるのみだ。
 その規則正しい寝息と、そして彼の鼓動を聞くうち、ヘネラリーフェの意識をヒュプノスの腕が包み込みだす。
 今暫く、金木犀の香りと愛しい男の温もりの中で微睡む為に、彼女は青緑色の双眸を閉じた。


 

 隣で眠っている愛しい人の華奢な指に触れられる感触に、ロイエンタールの意識が覚醒した。もしや悪夢にでも苛まされて飛び起きたのではないのだろうかと一瞬不安になったが、だがヘネラリーフェからは特に刺々しい気は感じられない。
 漆黒の闇の中、ただ穏やかで切なげな色の揺蕩る青緑色の眼差しで自分を見つめているのが目を閉じていてもわかる。
 ロイエンタールは、希有な二色の瞳を開けてヘネラリーフェの様子を伺いたくなるのを辛うじて堪えると、そのまま寝たふりを続けた。
 細くて冷たい指が、閉じられた瞼に掛かっている少し乱れたダークブラウンの前髪に絡みつき、鼻梁から口元へ、そして瞼を優しく慈しむようになぞっていく。
 くすぐったいような指の動きに、ロイエンタールの心拍が跳ね上がった。
(眠れないのか?)
 心の中で心配げに問い掛けてみるものの、だが一度寝たふりをしてしまった手前、今更目を開けることもできない。ヘネラリーフェの様子を全身で感じ取ろうとするかのように、ロイエンタールは神経を研ぎ澄ました。
『ごめんね、不安にさせて……』
 不意に、甘酸っぱい金木犀の香り漂う闇の中に、雨音の囁きのような甘いアルトの呟きが放たれる。
 気付いているのだ、ヘネラリーフェは。ロイエンタールが絶えず彼女を失う不安に恐れ戦いていることを……
 或いは彼女には隠し事はできないと認識しつつも、だが余計な心配をかけてしまったことに舌打ちを禁じ得ない。
『私の存在は、貴方にとって弱味にしかならないのかしらね』
 莫迦なことを……ヘネラリーフェの切なさを伴う囁きに飛び起きてこう言いたいのをぐっと堪える。
 ヘネラリーフェの存在は、確かにロイエンタールを不安に陥れるものではあるが、だが紛う方なき強みだと彼は信じている。
 少なくとも彼女を置いて逝くつもりはないし、以前よりはという観点ではあるものの、保身を心掛けるようにもなった。
 ヘネラリーフェを守る為なら命をかけることすら厭わないが、同時に彼女を哀しませることだけはしたくないと思っている。それはつまり、自身を愛うことでもあるのだが、これまでのロイエンタールからすれば少々皮肉ではある。
 尤も、守られているのはいつも己の方なのだが……
 そう思い心の中で苦笑を零した時、ヘネラリーフェが起きあがる気配に気付いた。その直後、階下から柱時計が刻を打つ重厚な音色が二つ響いてくる。
(二時か)
 秋深まりゆくこの季節、夜明けまでにはまだ間がある。
 晩秋の冷たい空気の漂う闇の中、ヘネラリーフェの細い腕がロイエンタールの腕を上掛けの中に入れ、そしてそれを肩まで引き上げてくれた。髪を撫でられる感触が哀しいくらいに優しい。
(リーフェはまだ起きているつもりなのだろうか……)
 そろそろ寝たふりをするのが苦痛に感じられてきたその時、ヘネラリーフェが小さな囁きを残して部屋から出ていった。
 待っててね……そう言って出ていった彼女の身が急に心配になる。もし、このまま戻ってこなかったら……そんな不安がロイエンタールを襲ったのだ。
 咄嗟にベッドから降り、窓にかかる分厚いカーテンを開けて瀟洒なフランス窓から外を見やる。と……
「リーフェ?」
 秋の冴えた夜空の下、青白く輝く星々に見守られながら、ヘネラリーフェは庭で花を付ける金木犀の木の下に佇んでいた。
 星明かりを受けて、彼女の琥珀の髪が淡く輝いている。
(まるで『月』だな)
 遠い昔、写真で見た地球の衛星『月』。青白くて、辺りを仄かな乳白色の光で優しく包み込む深夜の月にヘネラリーフェの姿を重ね合わせ、ロイエンタールは暫し夢見心地で藍色の薄闇の中で佇む彼女の後ろ姿を眺め続けた。
 時間にして十数分、彼女は花を一斉につけた金木犀の枝を腕一杯に抱えて踵を返す。それから更に数分後、階下から足音を偲ばせながら寝室に近付いてくる気配を感じ取った。
 慌ててベッドの中に戻りながら、彼は内心で苦笑する。まるで隠れん坊に興ずる子供のようなことをしている……そう思ったのだ。
 寝室とは続き間になっている私室の居間のドアが軋む微かな音が響き、そして数瞬後、寝室の重厚なドアが軋んだ音を立てて開かれ、そして閉まった。
 瞬間、部屋の中に漂う甘酸っぱい香り。強いその芳香の持ち主は、多分金木犀。それを手にしたヘネラリーフェがベッドに近付いてくる気配と、そして感じるハラハラと何かが降りかかる感触。同時に更に強くなる金木犀の香り。
(花だ……)
 ヘネラリーフェの優しい手から、花が降り注いでいる…… 
 目と閉じているのに、その光景はに鮮やかにロイエンタールの瞳に映った。
 細い指が彼の乱れて額に落ちかかる前髪を書き上げ、そしてこめかみに触れた柔らかな口唇が額から頬を滑り落ち、耳朶を甘噛みする。
 ゾクリとした快感がロイエンタールの背中を駆けめぐった。
『ハッピーバースデー、ロイエンタール』
 甘く掠れるアルトの囁きが、熱い吐息と共に耳元に吹き込まれる。ヘネラリーフェの躰の重みと温もりから与えられる充足感と幸福感にロイエンタールは酔った。
『今日は貴方の言うことを何でも聞いてあげるわね』
 秋の冴えた空気をまとわりつかせた彼女の少し冷たい躰がロイエンタールの横に滑り込んでくる。
 擦り寄ってきた華奢な躰を、つい条件反射で抱き寄せていた。
『ロイ?』
 もしや起きているのか? と、ヘネラリーフェがロイエンタールの寝顔をマジマジと見つめてくるのがわかる。跳ね上がる心拍にどうか気付かれませんようにと祈りながら、ロイエンタールは相変わらず寝たふりを続けた。
 やがて、腕の中に愛しい人はヒュプノスの腕に抱かれながら、安らかな寝息を立て始める。
「・・・・・」
 暗闇の中で、ロイエンタールはその金銀妖瞳を開けた。
 身体の向きを変えると、目に映るのは彼の腕の中であどけない寝顔を見せる最愛の女性。
「誕生日のことなど、すっかり忘れていたな」
 自嘲じみた呟きが端麗な口元から放たれる。
 決して望まれて生まれてきたわけではない自らの存在が忌まわしく、呪うことしかできなかった彼にとって、誕生日などあってなきに等しい最悪の日だった。
 当然祝う気にもならず、祝って欲しいとも思わず、やがて彼の記憶層からそれは完全に抹消される。故に恥ずかしながら、ヘネラリーフェの囁きを耳にするまで、今日が自分の誕生日だということをすっかり失念していたくらいだ。
 金木犀の黄金色の小さな花からもたらされる甘酸っぱい香は、ヘネラリーフェの優しさそのもの……恐らく、どんな高価な品よりも価値があると思える彼女からの思いもしないバースデープレゼントを素直に喜べるロイエンタールがそこにいた。
 出逢ったばかりの頃ロイエンタールは、捕虜である彼女に対して嗜虐の限りを尽くし、その華奢な肢体を思う存分蹂躙した。重症を負い、躰の自由が利かない女を力ずくで手に入れ、奴隷のように縛り付け、人形のように彼に従わせたのだ。
 にもかかわらず、ロイエンタールが夜毎悪夢に苛まされると、ヘネラリーフェは憎いはずの彼をその優しい温もりで癒し、そして、ロイエンタールはごく自然に彼女に惹かれた。
 その頃の優しさと気高さはそのままに、だが彼女の心が今この瞬間本当の意味で自らの手の中にあることを素直に幸福だと思える。
 生意気で勝ち気で、紅葉を思わせる華やかさと、秋の草花のような可憐さと、晩秋の憂いと、そして心の中に少年のような繊細さと脆さを潜ませている艶やかな女神が、今はただ切ないほどに愛しかった。
 やがて、肌に感じる甘い吐息を数えるうち、ロイエンタールの意識を睡魔が包み込みだす。
(今日は、俺の傍から離さないからな)
 俺の傍で、俺の為だけに微笑んでいてもらおう……端麗な口元を微かに綻ばせながらそんなことを考え、今暫く金木犀の香りと愛しい女の温もりの中で微睡む為に、彼はヘネラリーフェの薄紅色に色付く可憐な口唇に軽く口付けると、二色の双眸を閉じた。

 

Fin

*かいせつ*

ようやっと、ロイのバースデーネタをアップすることができました。
がぁ!! なんじゃ、これ・・・的な、中途半端な出来上がり(^^;;
すみません、オンリー用新作で力を出し切ってしまったのか、なんだか呆けてしまい、こんなものしか書けませんでした~~ いや、いつも稚拙なんですけどね、私の創作って(溜息)
おまけに、バースデーには遅れるし・・・(汗) ごめんね、ロイ<(_ _)>
それにしても、実際にベッドの上に金木犀の花なんて散らして眠ったら、翌日間違いなくシーツが染まっていることでしょう(^^;;
シーツどころか、お二人さんの着衣も髪も・・・翌朝は、起き抜けと同時にバスルーム直行ですね(笑)
メイドさん達も洗濯で大わらわかも・・・(爆)
でも、一度金木犀ネタってのをやってみたかったのですよ。秋の代名詞的な花ですし、ホント良い香りですよね~~♪
金木犀の香りにつつまれて、きっとお二人さんは良い夢が見られたことでしょう(笑)
でも・・・来年は、もうちょっとマシな金木犀ネタにチャレンジしたいものですわ(爆)
ちなみに、本当は『比翼』ではなく、『鳳凰』というタイトルにしたかったのですが、『鳳』が雄で『凰』が雌なので、話の順番上(リーフェ視点のお話の方を先に持ってきたかったので)泣く泣く諦めました(T.T)

さて、遅ればせながらでゴメンナサイだけど・・・

お誕生日おめでとう、ロイエンタール♪
 

2002/10/31 かくてる♪てぃすと 蒼乃拝

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