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優しい雨【1】
 

 雨は嫌い……見るものすべてがもの哀しげに滲んで見えるから。そして、幸せだった頃を思い出させるから……

*****

「今日も雨か……」
 窓際に置いた椅子に座って、出窓の縁に頬杖をつきながらヘネラリーフェは鬱屈した様子で呟いた。
 ダグラスは出撃中、義父は統合作戦本部で会議、義母は買い物に出かけて不在。
 誰もいない家の中はシンとして、どこか冷たくて暗くて、狭くもないが広くもない家の中がまるでヘネラリーフェの見知らぬ異世界のようにも思える。
「ひとりは嫌い……」
 否応なく、帝国で暮らした日々を思い出させるから。父レオンが出撃した後、孤独に父の帰還を待ち続けた日々を思い出してしまうから……そして父の姿を思い出すと、それはあの最後の別れの日へとオーバーラップするのだ。
 胸がズキンと痛み、ヘネラリーフェは膝を抱えるようにして躰を丸めた。
 あれから四年、最近やっと自分の境遇を受け入れられるようになった。
 義父母の胸に素直に飛び込めるようになったし、義兄ダグラスにも甘えられるようになったと思う。が、だからといって、あの悲劇を忘れられるはずもなく。
 確かに父レオンのことには、彼女なりに心に決着をつけた。悲惨な記憶であることには違いないが、目を逸らさず父の最期を見届けたということが逆に現実から目を逸らさせなかったのだ。
 彼女の心にしこりとして残っているのは父の死ではなく、また別のことであった。
 あれ以来、誰かを失うという恐怖がヘネラリーフェの心のどこかに植え付けられてしまったのだ。だからひとりが嫌いだった。父のように、また自分ひとりをおいて大切な人が消えてしまうのではないかという不安がどうしても消えてくれないのだ。
「お義母さん、早く帰ってこないかな」
 帰りを待ちわびる人の姿を探すかのように、ヘネラリーフェは窓外に視線を彷徨わせた。硝子に映った青緑色の双眸の向こう側で、深緑の庭木や可憐な花が雨の滴を受けて震えているかのように揺れている。
 と、その景色が俄にぼやけた。硝子に映る自分の姿に何かが重なったのだ。正確には自分の姿の後ろに……
「俺には帰ってきてもらいたくはないのかな?」
 振り向くより早く、甘いテノールが頭上から降ってきた。
「ダグ!? どうして……」
 帰還までにはあと二週間かかるはずではなかったのだろうか? ヘネラリーフェは唖然とした表情で目の前にいる長身の男を見上げた。
「交代が早まったんだ」
 ダグラスは苦笑しながら言った後、拗ねたような表情をして『帰って来なくても良かったか?』と囁いた。
「まさか」
 ダグラスの表情にヘネラリーフェは一瞬吹き出しかけたが、なんとか押し留めて慌てて首を振った。
 二週間後までは帰ってこないと思っていたダグラスがいきなり現れたことに対して驚きはしたものの、無事に帰ってきてくれたことへの喜びの方が遙かに勝っている。
「おかえりなさ……」
 その言葉をダグラスは己の言葉で封じた。
「おかえりのキスはしてくれないのか?」
 ひょっとしたらダグラスはヘネラリーフェのくるくると変わる表情を見て楽しんでいるのかもしれない。彼は悪戯っぽい笑みを湛えながら、そんな注文をした。
 ヘネラリーフェの表情が一瞬困ったようなものになった。が、すぐに苦笑にすり替わる。
 ダグラスがヘネラリーフェの視線の己のそれをあわせるかのように少し腰を屈めた。それはまるでキスを強請っているようにも見えて……そんな彼の首に腕を回して抱き付くと、ヘネラリーフェは可憐な薄紅色の口唇を彼の頬に寄せて軽く口付けた。
「おかえりなさい、ダグ。無事で良かったわ」
 甘い吐息と囁きがダグラスの耳元を擽る。それは、彼が生きて帰ってきた喜びを噛み締める瞬間でもあった。
「……雨の香りがする……」
 抱き付いたまま、ヘネラリーフェが呟いた。
「ああ……少し手前で車を降りたからな」
 ダグラスの全身はしっとりと湿り気を帯びていた。それほど酷く降っているわけでもなかったので、歩きたくなったというのだ。ヘネラリーフェからすれは物好き以外の何ものでもないのだが、ダグラスは少々の雨なら傘もささずに平気で散歩するような男なのである。
 逆にヘネラリーフェは雨が苦手である。湿気のせいか躰が怠くなるし、何をするにも億劫になるのだ。外に出るなんて、それこそもってのほかなのである。
「雨は嫌いか?」
 ダグラスが静かに問い掛けながら、ヘネラリーフェの華奢な躰を抱き寄せた。
「…………」
 ヘネラリーフェはダグラスのその問いかけには答えず、されるがままに彼に躰を預けながら目を閉じた。
 雨の香り……嫌いなはずのそれが、なぜだか気にならなかった。それどころか、どこか心地良ささえ感じる。 
「優しい香りがする」
 ダグラスの濡れた髪から……逞しい体躯から……
 どこか懐かしいような優しく切ない香りがヘネラリーフェの鼻孔を擽る。
「明日、海にでも行くか?」
 唐突に放たれた言葉。海に雨が降る様子は、ちょっといい眺めなんだ……ダグラスはそう言って笑った。ヘネラリーフェを気遣っての言葉だろうが、戦闘から帰ってきたばかりなのだ。いくらなんでも体力的にキツイはずである。
「疲れているでしょ? 海はいつでも行けるから」
「まだ十四歳の子供のくせに、気を使うな」
 子供は大人に無条件に甘えればいいんだ。ダグラスはそう言うとヘネラリーフェの琥珀色の髪をクシャクシャと乱暴に掻き乱して笑ってみせた。
 十四歳は決して子供ではない。だが、ヘネラリーフェの生い立ちを思うとき、ごく当たり前の子供時代を過ごせなかった彼女だけに、ダグラスとしては自分のいるときくらい思う存分甘えさせてやりたいのだ。
 翌日、まだ止む気配を見せない雨の中、二人は仲良く家を出た。

優しい雨【2】
 

『リーフェ……そろそろ起きろ。海が綺麗だぞ』
 遠くからボンヤリとダグラスの声が聞こえる。
「もう少し……ダグ……」
 夢うつつで呟いた自分の声にビクリと反応してヘネラリーフェは目を開けた。一瞬バツの悪い表情が浮かび上がる。だが、彼女の目の前にいる人物はさほど気にとめた様子もなく、ヘネラリーフェの琥珀色の髪をクシャリと掻き乱した。
「体の調子が悪いんじゃないのか?」
 少々顔色が悪く見えるのは、何も部屋の中が薄暗いからばかりではないだろう。
 ロイエンタールはノロノロと躰を起こそうとするヘネラリーフェを抱き起こしてやると端的に聞いた。
 ロイエンタールが心配するのには無論訳がある。過去の戦闘で負った古傷もさることながら、ごく最近ハイネセンでロイエンタールを庇った為に撃たれて傷を負ってからまだ一ヶ月半経つか経たないかなのである。つまり、ヘネラリーフェはあまり無理がきかない躰なのだ。
「大丈夫」
 全然大丈夫そうに見えないのだが、ヘネラリーフェはそう言い切った。
「雨……」
 何気なく彷徨わせた視線が窓外の霧雨を捉えた。 
(だからか……)
 濤声と雨……どうやらこの二つの要素が夢の中にダグラスの姿を招いたようだ。
 それにしたって、ダグラスの夢を見るのは随分と久しぶりである。夢の所為ばかりではないのだが、どうも寝覚めが悪い。
 ヘネラリーフェは気怠げに、再びベッドに倒れ込んだ。
 雨は嫌いだ……かつて、いや今も愛するあの人を思い出させるから……
「やはり体調が悪いんじゃないのか?」
 枕に顔を埋めるようにしているヘネラリーフェの琥珀色の髪に、優美な指を絡めながら訊くロイエンタールを青緑色の目だけで見上げながら彼女はゆるゆると首を振った。
 体調が悪いわけではない。ただ気分が優れないだけなのだ。怠くて動くのが億劫で何も考えたくない。ただそれだけ……
「心配いらない……雨の日はいつもこうなの」
 ヘネラリーフェは呟くようにそう言って、眼を閉じようとした。
 頭上からロイエンタールの吐息が降ってくる。どことなく自嘲の響きを感じ取り、ヘネラリーフェは訝しげにロイエンタールを見やった。
「?」
 ロイエンタールの端麗な口元に自嘲の笑みが浮かんでいる。ヘネラリーフェはその笑みの意味を計りかねた。少なくともここは自嘲にしろ嘲笑にしろ、それとは別の意味合いのものにしろ、とにかく笑みを浮かべるような場面ではない。
「私、何か変なこと言った?」
 その笑みが、てっきり自分に向けられたものだと思ったヘネラリーフェは幾分首を傾げてそう問い掛けた。
「いや……」
 ロイエンタールの口元に浮かんでいた自嘲の笑みが、程なく苦笑へとすり替わる。
「お前を愛していると言いながら、俺はお前のことを何も知らないんだなと思ってな」
 一緒に暮らし初めてほぼ一年。もっとも、その大部分はヘネラリーフェを捕虜として扱っていたから、打ち解けた暮らしを営みだしたのは、ここ二、三ヶ月のことである。
 それだって、以前ほど頑なではないというだけで、完全にロイエンタールに心を許してもいない。自分の意志でロイエンタールについてきたとは言え、どこかにまだロイエンタールへの憎しみを引きずっているのだ。
 それにしたって、日単位でなく月単位を共に暮らしているのに、今の今までヘネラリーフェが雨を苦手としていることなど知りもしなかった。さすがのロイエンタールも自分の迂闊さに気付いたというわけである。
「捕虜だった頃もずっとそうだったのか?」
 あの孤独な日々、雨が降る度ひとり耐えていたのだろうか……そう考えると、屈辱的な日々を強いた自分自身が心底恨めしい。どれほど心細かったことだろう……
「うん……」
 今更ロイエンタールに気を使う気もなく、また使ったからといってロイエンタールの心が救われるとも思えず、ヘネラリーフェは事実のみを端的に言葉として紡いだ。
 あの頃は恐らく今以上に雨が辛かったと思う。なにせ命に関わる負傷をした後だっただけに、気分以前に体調が悲鳴をあげそうになっていた。そんなところに雨でも降ろうものなら、それこそ死人同然にベッドの住人と化す以外術がなかったのである。
 更にダグラスのことを完全には吹っ切れていなかったこともあり、雨は益々ヘネラリーフェの気を滅入らせ体力と気力を奪った。
「済まん……」
 ポツリとロイエンタールが呟く。だが、返答は口調も言葉も些か突っ慳貪なものであった。
「貴方が謝る必要などないでしょ。貴方は帝国軍の上級大将で、私は同盟軍の少将であり捕虜なんだから」
 立場が逆だったとしても、状況にそれほど変化があったとは思えない。表向きはどうあれ、実際には捕虜に人権などないに等しいのだ。それに見方を変えれば、ロイエンタールの捕られたことは幸運ととれなくもない。
 確かに散々慰み者にされはしたが、むしろ憲兵隊に突き出され薬漬けにされてボロボロにならなかっただけでもまだマシだろう。と、これは多分第三者の意見。
 当人にしてみれば、憲兵隊にでも突き出してくれた方が、逆に潔く自害してアッサリ果てられたと思っているに違いない。さすがに将官である自分が置かれた状況を軽視はできないのだ。意思がどれほど強かろうが、薬の力にどこまで抗えるか自信がないだけに、十中八九ヘネラリーフェは自らでその命を絶っていたことだろう。
「貴方達にとって捕虜なんて、所詮虫けら同然でしょ?」
 嘲笑ともとれる笑みを浮かべてヘネラリーフェはそう言い放った。皮肉にも聞こえる言葉がロイエンタールに突き刺さる。だが、彼は何も言い返せなかった。言えるはずなどない。ヘネラリーフェの言葉通りの非情な仕打ちを、明らかにロイエンタールはヘネラリーフェに対して行っていたのだから。
「温情なんてかけずに、殺してくれれば良かったのに……」
 伏し目がちにそう言うと、ヘネラリーフェは今度こそ目を閉じた。構ってくれるな……まるでそう言っているように、華奢な肢体が全身でロイエンタールを拒絶している。
 殺してくれさえすれば、今更ロイエンタールに対して心が揺れることもなく、ただダグラスを思って深淵の眠りにつけたのに……
 今はただ苦しかった。ロイエンタールの優しさが、そして自分を見つめる真摯な金銀妖瞳が。苦しくて苦しくて……雁字搦めにされた心が悲鳴をあげている。認めてしまえば楽なのに。ロイエンタールが好きだと……ただそれだけのことなのに、心が頑なに拒絶する。
 それでもヘネラリーフェはここにいてくれる。自らの意思でロイエンタールの傍に……だからこそ、どれほど罵られようと、そして皮肉を突き刺されようと、ロイエンタールには反論する余地もなく、またする気もなかった。
 ただヘネラリーフェを守りたい、哀しい顔をさせたくない。今のロイエンタールの心の中は、ただその想いだけが満ちていた。
「雨が上がったら海を見に行こうな」
 ロイエンタールは優しい声色でただそれだけ言うと、眠りに堕ちようとするヘネラリーフェに毛布をかけてやり、白さが際だつ頬にそっと口付けて部屋を出る。あとには潮騒の音色だけが室内を漂っていた。

優しい雨【3】

 

 暖炉では時折パチパチと乾いた音をたてながら火が燃えている。外は雨……鉛色の雲が重苦しく垂れ込め、空と同じ色の海は激しくうねり白い飛沫をあげている。
「どうだ、ちょっと良い景色だと思わないか?」
 壁一面はめ込み式にされた窓の向こうを見ながら、毛足の長い絨毯の敷き詰められた床に座り込んで、同じく窓外を眺めるヘネラリーフェにダグラスが囁いた。
「うん……」
 答えながら、ヘネラリーフェは窓外の景色に見とれた。
 晴れた日の真っ青に澄み切った海も美しいが、まさか目の前に広がる鈍色の海がこれほど魅力的なものだとは思わなかった。モノクロ写真のような風景は、一瞬時が止まっているのではないかとさえ思わせる。が、降りしきる雨とうねる波にそれが錯覚であることを教えられた。
「でも……ちょっと怖い」
 眼下に広がる海を見ているうちに、うねりに呑み込まれそうな恐怖に襲われたのだ。物音は微かに聞こえる潮騒の音だけということが、もしかしたら心細さを引き出していたのかもしれない。
 人の姿は皆無だった。あるのは濤声と雨の音だけ。鳥さえも避けているかと思うような何もないモノクロの世界がそこには広がっていた。
「まだまだネンネだな、リーフェは」
 ヘネラリーフェの横に膝をつくと、ダグラスは彼女の顔を覗き込みながらクスリと笑った。
「またそうやって子供扱いする」
 ヘネラリーフェが口を尖らしてむくれる。その様子に笑みを誘われながら、ダグラスは彼女の柔らかな髪をクシャリと掻き乱した。
 戦闘中はトマホークを握るガッチリとした腕と骨張った指が、だがヘネラリーフェに対するときは驚くほど優しく繊細になる。
 ヘネラリーフェの表情が僅かに曇った。
 彼女は知っていた。ダグラスはただ星の海の中に行きたかっただけなのだということを。決してトマホークを握り人を屠るために宇宙に出ようとしたわけではないということを。そして、彼が実は陸戦ではなく艦隊勤務を希望していたこともだ。
「ダグ……」
 このままでいいの? そう言おうとして動かした口唇はダグラスの指によって動きを止めさせられた。 
 ダグラスは士官学校首席卒業だった。艦隊戦のシュミレーションも次席を大きく引き離しての首席である。同時に、腕っ節の強さも凄まじいものだったらしい。そう、後にローゼンリッター連隊長であるワルター・フォン=シェーンコップに惜しい男だったと言わさしめたほどの、それは正にそういうものであった。
 だからだろうか……晴れて士官学校を卒業して任官してみれば、彼の配属は陸戦部隊という驚愕すべき事態になっていた。
『どこに配属されようが、戦争をしに行くことには違いないからな』
 当時ダグラスはそう言って笑い飛ばした。ほんの半年前のことである。が、誰よりも無念に感じていただろうことも間違いようのない事実だろう。
「死ぬときはどのみち死ぬさ。艦の中か地の上か、ただそれだけの違いだ」
 ダグラスはそう言うと、ヘネラリーフェの額に軽く口付けて笑った。大きな人だと思う……ヘネラリーフェはダグラスを無言で見つめた。
 いつもいつも大きな愛で包み込んでくれるダグラス。些細なことなど笑い飛ばせるだけの強さと覇気と優しさが、どれほどヘネラリーフェを救ってくれたことだろう。同盟という異世界に突然投げ込まれたヘネラリーフェが、どれほど彼の存在に力づけられたことか。だから……
「嘘ばっかり」
 ヘネラリーフェがポツリと呟く。いつもそうだ。ダグラスはヘネラリーフェの前では絶対に弱音や愚痴をこぼさない。本当は今でも艦(ふね)に乗りたいと思っているはずなのに、そんなことはおくびにも出さないのだ。
「私ってそれほど子供?」
 ヘネラリーフェがダグラスの存在に支えられているように、彼女も彼を支えてやれる存在になりたいと思うのは身の程知らずなのだろうか?
「どうせ私なんて貴方の重荷になるだけで……」
「そんなことはない!!」
 ダダをこねるようなヘネラリーフェの言葉に、珍しくダグラスが声を荒げた。
 そんなことはない……ヘネラリーフェの存在にダグラスがどれほど救われているか、ヘネラリーフェが自覚していないだけなのである。命の瀬戸際に立たされる戦闘から帰還する度に、零れるような明るい笑顔で迎えてくれるヘネラリーフェの存在こそが、ダグラスに生への執着を促しているのだ。
 もう一度あの笑顔が見たい……その想いこそがダグラスを支えているのである。
「どうせなんて言うな。俺には今のお前が必要なんだからな」
 言いながら内心苦笑が漏れた。己で己の言葉の足りなさに気付いたのである。考えてみれば、ヘネラリーフェに対して大切なことを言葉にして伝えるということをあまりしてこなかったような気がする。
 妹として見ているときは、それなりに何でも言葉にしてきた。だが、彼女の存在が至上のものとなったとき、どこか気恥ずかしさが勝ってしまい言葉にすることができなくなってしまったのだ。
 ダグラスはヘネラリーフェの華奢な躰を抱き寄せると、耳元にそっと囁いた。
「お前はお前のままでいればいい。無理して背伸びする必要なんてないんだ」
 やがて、嫌でも大人にならなければならない時がくる。それだからこそ、ヘネラリーフェの一瞬一瞬の煌めきを大切にしたかった。
「私、ダグの役にたってる?」
 広い胸に顔を埋めながらヘネラリーフェが噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「ああ、十分すぎるほどにな」
 ヘネラリーフェの言葉に笑みを誘われながらもダグラスは答えた。傍にいてくれさえすればいいと思える存在、そんなものが本当にあるとわかったのはヘネラリーフェに出逢ってからだ。
 ダグラスの言葉にヘネラリーフェはようやく安堵したような笑みを浮かべた。自分は決して彼に寄りかかるだけの存在ではなく、ちゃんと彼を支えることができているのだと、ようやく知り得ることができたのだ。
「ね、お散歩に行かない?」
 唐突に、吹っ切れたような笑顔でヘネラリーフェがそう提案した。驚いたのはダグラスの方である。なにせヘネラリーフェの雨嫌いは筋金入りなのだ。自分から雨に濡れにいこうなどと考えるなど、鬼の霍乱としか思えない。
「ダグの好きなものを私も好きになりたいの」
 唖然と見つめてくるダグラスに、ヘネラリーフェは少し頬を赤らめながらそう言った。ダグラスといれば嫌いなものも好きになれる。そう、自分自身さえも……
 これまでビュコック家の、強いてはダグラスの重荷としか思えなかった自分自身のことを、ヘネラリーフェはどうしても好きになれなかった。
 それは恐らく実の父を目の前で見殺しにしてしまったという悔恨と一種の罪悪感が生み出したものでもあるのだろう。だが、ダグラスはこんな自分の存在に救われていると言ってくれた。
 他の誰に言われても、恐らくその言葉を素直に受け入れることは出来なかったに違いない。だが、それがダグラスであるというだけで素直になれる自分がいた。同時にダグラスが好きな自分を好きになれそうな気さえしたのである。だから、ダグラスと一緒ならきっと雨が好きになる。
 抱き締められると、いつもダグラスからは雨の香りがした。あの切なくなるような優しい香りが好きになったのはいつの頃からだったのだろうか? あの香りに抱かれると、穏やかで安らかな気持ちになれる。だから……雨の中を歩いて、そして雨の香りを纏うダグラスに抱き締められたかった。
「私も雨が好きになれそうなの。だから……」
 ヘネラリーフェの真意を読みとったのだろうか……ダグラスはしょうがないなとでも言いたげに苦笑して頷く。
 降りしきる雨は、いつしか霧雨へと変化していた。

優しい雨【4】
 

 宇宙歴七九九年六月、ラインハルト・フォン=ローエングラムはローエングラム王朝初代皇帝の位に登玉した。名実ともにゴールデンバウム王朝は滅び去ったのである。
 首都星オーディンは祝賀ムード一色で彩られ、それは民衆のみならず軍人も、いやラインハルトと共に戦ってきただけに彼等の方がより浮かれていた。無論それは将官である軍上層部も例外ではなく……
 元来ラインハルトは華美なことが好きではなく、豪華な舞踏会や晩餐会などは旧貴族共の悪習としか考えていなかったのだが、さすがに自身の戴冠式ともなると本人の意思とはかけ離れたところで盛り上がってしまうものらしい。
 さしものラインハルトも「ローエングラム王朝開闢のお祝いですから」と言われると異を唱えるわけにもいかなくなり、結局公式非公式問わず祝賀関連行事が目白押し状態になってしまった。
 さて、この戴冠式と同時にロイエンタールは元帥に叙せられた。彼はそれこそローエングラム王朝開闢の功臣であるから、当然祝賀行事から外れるわけにはいかない。
 ただでさえ新王朝樹立と元帥号授与、更に統帥本部総長就任の煽りを喰って忙しいというのに、仕事の合間を縫うようにして祝賀行事への出席を余儀なくされてしまい、まさに忙殺されていた。
 その間、帰宅は深夜におよび、ひとりで(と言っても使用人はいるのだが)待っているだろうヘネラリーフェに気を回してやる余裕すらなくなっていたようだ。
 異変に気付いたのは、戴冠式に関連した公式行事や晩餐会も一段落した頃。既に二週間近くは経っていただろうか……
 自らの意思でロイエンタールにしたがってオーディンにやってきたヘネラリーフェだが、かといって同盟を捨てたわけではない。彼女はどこにいても同盟軍将校であり、そしてアレクサンドル=ビュコックの娘であり続けようとした。
 したがって、帝国中がお祭り騒ぎと化したラインハルトの戴冠もヘネラリーフェにとってはお世辞にも慶ばしいものとは縁遠く、だがロイエンタールと共にいることで否応なく行事に引っぱり出され(公式行事は男女同伴が原則なのだ)、その度に同盟に反感を持つ者からの謂われのない中傷やら誹謗を受けねばならず、ハッキリ言って理不尽この上なかった。
 それでもヘネラリーフェは一言さえも反論することなく、ただ黙ってそれらを受け入れた。ただ、さすがに出席したのは公式行事数回のみで、後は固辞したようである。
 ロイエンタールにしても鈍感ではないし、ヘネラリーフェが置かれた状況や無理の訊かない躰のことは痛いほどわかっていたので、敢えて無理に連れ回すこともなく、これ以上辛い思いをしないようにと計らってのヘネラリーフェの出席固辞であったようだ。
 が、それまでの段階で十分過ぎるほどヘネラリーフェには負担を強いていたらしい。関連行事が一段落した頃、ヘネラリーフェはすっかり調子を崩していた。
 感情の起伏が激しくなり、わけもなく怒ったり泣き出したりしてしまうのだ。いわゆる鬱状態である。おまけに、古傷が痛み出したりもして寝込むことが多くなり、心と躰のバランスが崩れているとしか思えない状態にまで陥っていた。
 そもそも帝国には頼る者もいないヘネラリーフェの孤独を思い、一計を案じたロイエンタールは同盟との戦闘にも一応終止符がうたれたことを逆手に取り、十日間の休暇をもぎ取ってヘネラリーフェを海辺の別荘へと連れ出したのである。
 当初軍務尚書オーベルシュタインは、敵将でありゴールデンバウムの血を濃く引く(←白状します……実は作者はスッカリ忘れていました、この設定=爆)ヘネラリーフェを傍に置くことにかなりの難色を示した。が、それらはキルヒアイス首席元帥の取りなしで皇帝公認のもと黙殺されている。
 が、兵士達の感情はそうもいかなくて、結局ヘネラリーフェは影からであれ面と向かってであれ、とかく攻撃対象になりやすい立場にあった。
 さすがに上級大将以上の者は低次元な罵詈雑言に耳を貸すこともなく、またこれ見よがしにヘネラリーフェを攻撃することはなく、見ようによっては好意的にとれなくもなかった。好奇心と言ったほうが正確かもしれないが……(なんと言っても、ロイエンタールとサシで勝負したような女だし)
 が、だからと言って友好的とも言えなく、このままでは遅かれ早かれヘネラリーフェの精神が壊れると判断したロイエンタールはオーベルシュタインの小言など何処吹く風といった体で強引に休暇へと突入したのだった。そして……
 
 湿気が古傷の痛みを誘うらしく、別荘の中では夏にもかかわらず暖炉に火が入れられていた。パチパチという乾いた音が安寧感をもたらす。
 暖炉の前に敷き詰められたクッションに埋もれるようにして、ヘネラリーフェは横になっていた。一見退屈そうにゴロゴロしているようにしか見えない。ま、ほぼそういう状態なのだが。
 あの後、結局雨は翌朝まで降り続け、ヘネラリーフェはあれから一度はベッドから起き出したものの何をするわけでもなく、かったるそうに窓外の雨と鈍色の海を見つめていた。
 ロイエンタールが近付くと華奢な躰を擦り寄せ甘えてみせ、彼にしてみればまんざらではないものの、ヘネラリーフェの真意を測りかね些か戸惑いを覚えたのは無理らしからぬことだろう。
 ロイエンタールは、ヘネラリーフェとダグラスがどう愛を育んできたのかまでは知らないから、実はヘネラリーフェの態度がタダ単に人恋しさと心細さからなのだということも当然わからないでいた。困惑するのは致し方ないことだろう。
 だいたいが、彼がもっとも軽蔑する「言い寄ってくる」女達が相手ならともかく、ごく普通の女性心理には実は疎い方なのである。ましてやそれがヘネラリーフェ相手となると、それこそ惚れた弱みでロイエンタールほどの男がいたって気弱になるのだから手に負えない。
 というわけで、気怠そうにクッションに埋もれたまま動こうとしないヘネラリーフェに対して何等手段を高じることもできずにいるという、ロイエンタールを知る者が見たら俄には信じがたい状況に陥っているというわけである。
 二人の間に会話はなく、ただ暖炉の前のソファの上と下でボンヤリと焔を見つめているだけの静かな刻がそこにはあった。
「雨、あがったみたいね」
 不意に、薄紅色の可憐な口元から呟きにも聞こえる言葉が漏れる。
「ああ、快晴だ」
 窓外にチラリと視線を彷徨わせながらロイエンタールは答えた。
 外は今朝方までの天気とはうって変わって、抜けるように蒼い空と真夏の眩しい陽光に彩られていた。ヘネラリーフェが嫌う湿気もなく、雨上がりのヒンヤリとした爽やかな風が波を弄んでいることだろう。
「そう……」
 そこで会話は途切れ、再び静寂が訪れる。
「外に出てみるか?」
 ここに来てからというもの、ヘネラリーフェの体調がいまひとつ良くないということと、どうも天候に祟られているようで、殆ど部屋に閉じこもり気味の生活である。たまには気分転換に外の空気をすわせてやりたい……ロイエンタールは純粋にそう考えて言葉を紡いだ。
「……………」
 ヘネラリーフェはすぐには返事を返さなかった。逡巡しているようにも見えるし、ただ動くのが億劫なようにも見える。
 ロイエンタールは、だが殊更に返事を急がせることもなく黙って焔を見ていた。彼にしてみれば、家に籠もっているだけでも十分すぎるほど満たされていたから。ヘネラリーフェがただ傍にいるだけで、いつもは味気なく見える別荘もまた別世界のように思えたのだ。
「行くわ」
 数分か、それとも数十分か……それは取り立てて気にならないのでわからないが、ともかくヘネラリーフェはそう返事を返し、ゆっくりと立ち上がった。

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