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第一章

三 父と娘


「結局止められなかったか」
「はい」
 会話の相手はアッテンボローの士官学校の先輩でもあるヤン=ウェンリー。ヘネラリーフェと会う前に、アッテンボローはヤンに彼女のことで相談を持ちかけていたのだ。

「俺の友人の婚約者なんですけど、何を考えているのかわからなくて。最愛の男を戦争で亡くしていながら、戦争屋になろうとしているんです。凄く綺麗で優しい目をしていたのに、今ではまるで冴えた海のようで。心が麻痺しているとしか思えない。血を見てもいつか平気になっていくような。でもそんな彼女をあいつは喜ばない」
「その娘のことが好きなのかい?」
「ええ、多分……」

「でも見事に振られましたよ。二度と恋はしないってね」
 あの夜のことがまざまざと脳裏に甦る。
「それで諦められるのかい、彼女のこと?」
 ヤンのその言葉がアッテンボローの心に突き刺さる。意地っ張りで強がりのくせにどこか脆くて危なげなヘネラリーフェ。そんな彼女を簡単に忘れられるくらいなら、そもそも恋などしなかっただろう。
「当初の予定通り、俺は独身主義で通しますよ」
 冗談とも本気ともとれない口調でアッテンボローは笑った。
 それでもアッテンボローは思う。離れるべきではなかったのかもしれないと。彼女の姿を常に視界の中にとどめられる距離にいるべきでなかったのかと。
 それは単に好きだからというだけではなく、このまま戦闘に従事した結果ヘネラリーフェがどんな風に変化するのか恐かったから。
 アッテンボローは彼女の周囲で三番目くらいにヘネラリーフェのことに詳しい人間といえる。
 初めて出逢ったのは士官学校へ入学して間もない頃だった。断片的にダグラスから聞いて自分なりに想像していたヘネラリーフェ像とは違い、彼女は明るく力強い光を湛えた目をしていた。彼女の生い立ちを聞けば誰もが陰のあるどこか危うい女性を想像するところを、よい意味で裏切ってくれたのだ。
 しかし、その想いは早いうちに覆されることとなる。彼女の脆さや危うさはダグラスの存在があればこそ、その陰を潜めていたのだ。ダグラスの前で見せている顔は勿論作り物ではない。だが、傍らにダグラスのいないヘネラリーフェも確かに彼女自身であった。
 春の日差しを思わせる暖かく柔らかな色を湛えた瞳が、冴えた冬の海を思わせる冷たい色へと変化する。同じ青緑色の瞳でもこうも違うものなのか……
 冷たい誰にも心を許していないような気を纏う彼女に惹き付けられた。そしてそれはダグラスを失うと同時に決定的なものへとなっていったのである。
「それじゃあ彼女の変化は必ずしも恋人を亡くしたからとは言い切れないということかい?」
 ヤンの言葉はそれなりに確信をついていた。そうなのだ。彼女は元々生への関心が薄いところがあったのだ。それは恐らく……
「実の父親の死因?」
「ええ。戦闘中に目の前で父親を亡くしているんです。彼女はその時まだ十歳だったと聞いています」
 ヘネラリーフェの実の父親は帝国軍随一の名将と謳われた人物である。戦死時の階級は元帥。そして侯爵家当主でもあった。
 彼の妻、つまりヘネラリーフェの母親は皇帝の従姉妹姫で、要するにヘネラリーフェはよりによって帝室ゴールデンバウム家の血を受け継いでいることになる。
 帝国にいればそれこそ何不自由なく暮らせ、それどころかありとあらゆる権力・冨・名誉を有することができたであろう。それを本人が望むと望まざるとに限らず。
 ヘネラリーフェの生家は帝国屈指の大貴族ブラウシュタット侯爵家である。母親は皇帝フリードリヒ四世の従姉妹姫グロリエッテ。実際ならここで貴族としての自尊心も誇りも満たされる筈であった。
 だが生涯一軍人でという自らの思想を抱くヘネラリーフェの父レオンにとっては、皇室との縁組みによって手に入れた力は望まぬ権力でもあったのだ。
 本人の意思とは関係なく、彼は皇宮内の権力闘争に嫌がおうなく巻き込まれていく。
 欲望渦巻く皇宮内ではいかに大貴族であろうと、いや、だからこそレオンの存在は疎ましいものであった。
 皇帝の気まぐれな厚意もレオンにとっては甚だ迷惑なものでしかなかったのだが、欲に憑かれた者達にはそれは自分達が権力を握り損ねるのではないかという危惧へと膨らんでいく。そして、ヘネラリーフェが産まれたときその危惧は現実のものとなったのである。
 当時、皇帝フリードリヒ四世の従姉妹姫であるヘネラリーフェの母グロリエッテは、実は皇帝の愛妾ではないのかという噂がまことしやかに囁かれていた。
 確かに皇帝のグロリエッテへの寵愛は並々ならぬものがあった。勿論それ自体は単なる噂話である。そもそもそんな噂があるにも限らず、ヘネラリーフェの両親の仲は極めて良好であった。故に皇帝のグロリエッテへの想いがどんなものであるのか、それは本人以外にはわからないことでもあるのだ。
 ともかく、グロリエッテへの寵愛はそのままレオンへと注がれる。そしてヘネラリーフェが産まれた。
 不幸なことにグロリエッテは出産時の出血がもとで帰らぬ人となってしまったが、皇帝の想いは母を亡くしたヘネラリーフェへと向けられていったのである。 
 同時にそれは欲の亡者達に危機感を与え謀略を生む機会を与えることにもなっていく。そして悲劇が起こった。
 ヘネラリーフェにとって父レオンこそが世界だった。血縁に薄い父子にとって互いこそが総てであったのだ。
 軍人であるからには出撃しなければならない。レオンを見送るヘネラリーフェにとってそれは辛く哀しいことだったに違いない。
 出撃するレオンの旗艦にどうやって忍び込んだのか。ともかくヘネラリーフェは誰に見咎められることなく艦に忍び込むことに成功してしまった。それが悲劇への序奏であるとも知らずに。
 いや、例えそこに彼女が居合わせなくても、その悲劇は起こるべくして起こったことであろう。それどころか、もし彼女に悪戯心が芽生えていなければ、悲劇は更なる悲劇を呼び起こしていたかもしれないのだ。
 気付いたときには時既に遅く、レオンの艦は同盟軍のただ中に孤立していた。艦隊司令官の旗艦を孤立させるなど、これはもう策略以外のなにものでもない。
 しかしどこか予感めいたものがあったのだろうか、レオンは冷静だった。
 その時既に部下によって発見されていたヘネラリーフェを呼び寄せると彼は諭すように言った。
「よく聞きなさい。もう私はお前と一緒にいてあげることはできない。今日からお前はひとりで歩いていかなければならないんだ。でも、どんなことがあろうと私の心はお前の傍にあるということを忘れるんじゃないよ。それを忘れずに前を向いて強く生きていきなさい。それから、これから起こることを目を逸らさずに見届けなさい。私の死から目を逸らすんじゃない。いいね」
 十歳の少女にはあまりに酷な言葉だった。泣き叫びここに残ると暴れるヘネラリーフェを半ば強引に部下に、そして敵将であるビュコックに預けたレオンは、自ら自爆装置を作動させ宇宙の藻屑と消えた。
 その時レオンとビュコックとの間にどんなやりとりがあったのかはわからない。だが、託された少女をビュコックはハイネセンに連れ帰り、我が子以上に愛情を注いで大切に守り慈しんできたのだ。
 そのビュコックの実の息子と養女がいつしか恋に堕ち婚約までしたとき、養女が実の娘になるのだと一番喜んだのはビュコック自身である。しかしそれが脆くも崩れ去るまでそれ程時間は必要ではなかった。
 息子を失ったビュコック夫妻の哀しみは計り知れないが、それ以上にヘネラリーフェの変貌に彼は心を痛めた。
 ヘネラリーフェの実の父親の死を彼女が目の当たりにしたときの反応を知っていたのは彼だけである。そしてダグラス。 
 過去と現在、ヘネラリーフェの心の崩壊を最も危惧していたのはアッテンボローよりビュコックの方だろう。そして、そんな彼女が戦場に出ることでどう変わるのか、それも心配の種であった。  
 父親と恋人、ふたりの大切な人間を亡くしたのが戦場である限り、彼女が戦場で精神のバランスをとっていくことができるのか。考えれば考えるほど危惧は泥沼に陥っていくのだ。

「これが俺の知っている限りのリーフェの生い立ちです」
 アッテンボローが話し終えてすぐは、さしものヤンも言葉が出なかった。
第五艦隊のビュコック提督に血の繋がらない養女がいるという話は知っていたが、彼女の出自がどういうものであるかなど、知りもしなかったし知ろうとも思わなかった。
 尊敬するビュコック相手にそんなことは大して意味を持たないと思っていたし、元々ヤンという人間はその手の噂だのには疎い性格なのである。
「彼女は決して弱い人間ではありません。でも、強ければ良いというものでもない。強ければ強いほど、途中でポッキリと折れてしまいそうで」
 聞いているうちにヤンはヘネラリーフェという人間に興味を持ち始めた自分に気付いた。ビュコックが実の子同然に育て、アッテンボローがここまで気にする人間の存在。
 それは、ヤン自身がトラバース法によって戦災孤児の保護者となっている所為もあるのかもしれなかった。
 そしてこの後、思いもかけない場面でヤンとヘネラリーフェの人生が交錯するのである。

 一年後、アスターテ星域会戦の残兵と新兵からなる文字通りの寄せ集め集団で、ヤンを司令官として第十三艦隊が発足された。

 

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