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        われわれはみんな落ちる この手も落ちる
          ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
          けれども ただひとり この落下を
      限りなくやさしく その両手に支えている者がある

              『秋』リルケ

 

第十三章

一 優しく殺して


 なんと美しいのだろう……琥珀の髪を、白皙の肌を、そして、軍服を返り血で朱く染め上げたヘネラリーフェの美しさにロイエンタールは息を呑んだ。 
 爆音と怒声の響くその空間で、彼の周りだけがまるで刻を止めたかのような静寂に包まれる。
 義父の命乞いの代償として帝国軍への従軍を強要されたヘネラリーフェがイゼルローンに攻撃を仕掛けたあの時、束の間ながらも着用した帝国の軍服も確かに一種独特の雰囲気と哀しい程の美しさを醸し出させていた。だが、今目の前にいる彼女の壮絶な美しさにはそれは到底及ばないだろう。
 その姿に惹き込まれた。彼女は自分を死へと誘う闇の女神なのだ。その手で、その腕の中で少しずつ生気を抜き取られ、虚ろな金銀妖瞳に最後まで最愛の女性を映しながら息絶える……甘美な誘惑がロイエンタールに襲いかかった。
 皇帝を守るために侵入者達に向けられていた銃口がゆっくりとおろされる。彼の目にはヘネラリーフェしか映っていなかった。そしてヘネラリーフェもまた……
 自らの本心を確かめたくてここまで来た。だが逢うことがとてつもなく恐かったことは事実だ。愛しているのか憎いのか……顔を見てしまえば自分がどうなるのかわからなくて、でも今こうして再会して、自分が奇妙なほどに冷静であることにヘネラリーフェは気付いた。だが躰は動いていた。答えが欲しかった……その為にここまで来たのだから。
 ロイエンタールが銃をおろすのとヘネラリーフェの足が動き出したのとはほぼ同時だった。白い手の中には銀色の鋭い輝き……
「ロイエンタール!!」
 ミッターマイヤーの絶叫が響く中、彼は微動だにせず、そしてヘネラリーフェはまるで抱き付くようにロイエンタールの胸にぶつかっていった。ロイエンタールがヘネラリーフェを抱き寄せるが如く腕を広げたと見えたのは気の所為だったのだろうか……爆音と鮮血に彩られた世界で、そこだけが映画のスローシーンのように静かにゆっくりと動いていた。
 呆然と見守ることしか出来なかった人間がハッと気付き二人に眼をやると、ロイエンタールがヘネラリーフェを抱き締めているように見えた。いや、事実抱き締めていたのだろう。
 鋭利な金属音が響きヘネラリーフェの手からナイフが落ちた。同時にロイエンタールの手の甲に一筋の血が流れ滴り落ちる。
「何故殺さん?」
「そっちこそ、何故私を殺さないの? 何故避けないの?」
 ロイエンタールの胸に顔を埋めながらヘネラリーフェは放心したような声で言った。
「避けたらお前が困るだろう?」
 ではあのままヘネラリーフェに殺されるつもりだったというのか? そのつもりで何もせず、いや、それどころか、まるでヘネラリーフェを抱き寄せるような行動をとったというのだろうか? ロイエンタールの胸に顔を埋めたままのヘネラリーフェの細い肩が微かに震えだした。
「ずるい……貴方ずるいよ。私が貴方を殺せないことくらいお見通しだったのでしょ?」
 殺すつもりだった。彼の胸に向かって歩を進めたときは、まだそのつもりだった。だが……結果的に最後の最後でヘネラリーフェの手にしていたナイフはロイエンタールの胸を貫かず、彼の肩口を切り裂いたにすぎなかったのだ。
「逆だろ? お前の方こそ俺にお前を殺せないことなどわかりきっていた筈だ。それに俺自身はお前に殺されるのも良いと思っていたさ」
 そう……わかっていた。彼がヘネラリーフェに殺されたがっていたことも、そして彼女を殺せないことも。でも、それでもロイエンタールなら私情を挟まずヘネラリーフェを敵として葬ってくれるかもしれないと一縷の望みを抱いていたのも紛れもない本心だ。
「やっぱり貴方ずるい……自分だけ殺されてやろうだなんて……」
「お前には生きていてもらわなくてはならない。それがダグラスの最期の願いでもあった」
 ヘネラリーフェが顔をあげる。青緑色の双眸に幾分険しさが加わっていた。
「だからあんたって嫌いよ!! いつも冷静で何が起きても平然と構えていて本当は凄く辛いくせに顔色ひとつ変えないで、寂しいくせに、哀しいくせにそんな素振りひとつ見せなくて、そうやって本心を隠して閉じ込めて……」
 支離滅裂……自分で何を言っているのか、何が言いたいのかわからない。頭と心がパニックを起こしていた。自分で自分を持て余し、その苛立ちをロイエンタールにぶつけるが如く拳を彼の胸に叩き付ける。
「莫迦……莫迦、莫迦、莫迦、莫迦……嫌い、大っ嫌い……」
 叩き付けるスピードが徐々に速くなる。その華奢な手首をロイエンタールがそっと掴んだ。弾かれたようにヘネラリーフェがロイエンタールを見上げる。
「でも俺はお前が好きだ」
 何度も何度も耳元に囁かれた言葉。だがその都度拒絶して……自分の心を頑なに閉じてきたのはロイエンタールではなく自分の方だ。本当は……
 青緑色の瞳から涙が零れ落ちた。
「優しくしないで……」
 消え入りそうな声だった。
「優しくなんてしないで……」
 本心を確信してしまえばこんなにも自分は脆い。優しくされれば、これまで精一杯張りつめ気を張ってきたのが無駄になってしまう。ギリギリまで耐えてきたのに、力が抜けたちまち甘えるだけの女になってしまう。
 そうなりたくないから苛烈な戦場に身を置いてきたのだ。ロイエンタールを愛してしまったことを認めたくなくて、だから彼を殺すことだけを考えてきた。そうでもしなければ心の均整を保てそうになかったから……
 ユリアンが皇帝の元に辿り着いたのだろう。キルヒアイス元帥の名で停戦を呼びかける声がスピーカーから流れる。それこそがラインハルトの御意であるとして……
 そしてそれは一五〇年にも及ぶ戦乱の歴史に終止符が打たれた瞬間でもあった。
 艦はイゼルローンに向かうらしい。正式な和平その他の会談は後日として、だがひとまずそこでヤンとラインハルトが今後のことを話し合うのだろう。
 艦橋からラインハルトが現れた。その後ろにキルヒアイスとミュラー、そして同盟軍を指揮した若き司令官ユリアンの姿がある。 
ユリアンの無事な姿を認めた瞬間ヘネラリーフェは全身から力が抜け落ちるような脱力感に襲われた。彼をを皇帝に逢わせるまでは、そしてロイエンタールに逢うまではと必死に張りつめていたものが緩んだのだろう。
 視界が急速に暗く狭くなっていく。足下がおぼつかなくなり、上体がふらつく。咄嗟に支えを求めて彷徨った華奢な腕をロイエンタールが掴み引き寄せると、あっけないほど簡単にヘネラリーフェの躰が彼の腕の中に倒れ込んできた。
「リーフェ?」
 ヘネラリーフェの異変にロイエンタールは眉を訝しげに顰めながら彼女の躰に視線を這わせ、瞬間的にその原因を突き止めた。返り血だとばかり思っていた軍服の鮮血の痕が拡がっている。
「お前……まだ治っていなかったのか?」
 ハイネセンで別れる時、いや、正確にはそれ以前、イゼルローン要塞攻撃時にヘネラリーフェが倒れた時既に彼女の躰の変調にロイエンタールは気付いていた。無論軍医に診察を受けさせていたが、だがその時はそれほど深刻に考えるところまで病状は進行していなかったのだ。
 ハイネセンで負傷したとき、出血を止めるのに時間がかかったと聞かされたが、その後彼女とは離ればなれになってしまい、だがビュコック夫妻にはそれを伝えてあった為、イゼルローンに帰ればきっと治療してもらえるだろうと信じて疑わなかったのだ。だがヘネラリーフェの性格を考えればそれはあまりに迂闊であったのかもしれない。
 この戦乱の中で、しかも同胞を攻撃しなければならなかったことに罪の意識を持つヘネラリーフェが自らの躰を治そうなどと考える筈がなかったのだ。
 愕然としたロイエンタールの声に、ユリアンと彼に合流したシェーンコップも異変に気付いた。脇腹の鮮血の痕がどんどん拡がり、そして血が滴り落ちるまでになっている。素人目にも立っていられるのが不思議なほどの出血と判断するのは、そう難しいことではなかった。
 既に意識も朦朧とし始めていたが、それをヘネラリーフェは気力だけで押しとどめようとしていた。
(まだ駄目……まだ大切なことを伝えていない)
 力の入らない腕でヘネラリーフェはロイエンタールの腕を掴んだ。それを支えに崩れ落ちそうになる躰と精神をなんとか保たせようとする。だがたったそれだけのことが今の彼女にはとてつもない苦痛として全身を貫き、口の端から苦鳴が漏れた。
 不意に全身が温かくなった。霞む眼にダークブラウンの艶やかな髪が映る。
「ロイエンタール……」
 声は声として届かなかった。だがロイエンタールはわかっているとばかりに彼女を抱く腕に更に力を込める。抱き締められる心地良さに酔いながらヘネラリーフェは震える細い指をロイエンタールの頬に向けて伸ばした。
 冷たく優しい感触がロイエンタールの黒い右目をそっとなぞる。それには彼女の精一杯の優しさと想いが込められていた。充分だった。言葉などいらない……これ以上の充足感と幸福感は銀河中探しても見つかりはしないと、ロイエンタールは心の底から思った。ヘネラリーフェがいれば、彼女さえいてくれれば、忌み嫌うだけだった己の存在が許せる、生きていけると……
 か細い声を途切れさせながらヘネラリーフェが言葉を紡いだ。
「……傷、痛くない? ごめんね……貴方が無事で良かった……逢えて良かった……これでもう……」
 だが、そこまで伝えるのが限界だった。全ての力を使い果たしたかのようにヘネラリーフェの躰がゆっくりと崩れ落ちていく。
(ヤン提督……もう眠っても良いですか?)
 意識が堕ちる間際にそう呟いた彼女の表情は満足気に微笑んでいた。
「誰か、医者を呼べ!!」
「いつ……いつからなんですか、中将!?」
 ロイエンタールの怒声が響き渡り、それに被さるように半狂乱になったユリアンの口から叫びにも似た声が迸った。
 これほどの重傷を負っていたとは全く気が付かなかった。いや、ヘネラリーフェが巧妙に隠し通したのだが、それでも気を付けていれば僅かなりとも異変に気付けたかもしれない。いや、やはり連れてくるべきではなかったのだ。そうしていれば……そんな想いがユリアンの心を揺さぶった。
「落ち着け、ユリアン」
 シェーンコップの落ち着いた声が戒めるが、そういう彼自身も顔を青ざめさせている。彼女と離れて行動するべきではなかった……連れてくるべきではなかった。そんな悔恨が彼を苛む。
 戦闘に従事しているのだ。負傷して当たり前、いや、死さえ覚悟していたことだった。しかも彼等が強襲したのは総旗艦ブリュンヒルトである。皇帝を守るために侵入者に対して苛烈な攻撃が加えられることはわかりきっていたことの筈だ。
 だがヘネラリーフェに限っては……誰もが覚悟していた事態でありながら、だが心のどこか別な所で彼女なら大丈夫だという想いを抱いていた。そう信じたかったのかもしれない。病をおして戦いに出たことでヘネラリーフェがもし出血を伴う負傷をするようなことがあれば、彼女の命が保たないかもしれないとわかっていただけに……
「こんな……こんなことって……やっと全てが終わったのに……」
 誰もが衝撃で動けない中、帝国軍総旗艦ブリュンヒルトはイゼルローン要塞に到着しようとしていた。

 

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