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第十一章

五 切なさを抱き締めて


 カーテンの隙間から、明るい朝の光が差し込んでくる。だが、ヘネラリーフェが重い瞼を開いても、ボンヤリとしか辺りは見えてこなかった。彼女は目を閉じもう一度開いたが、状況はあまり変わらない。
 全身が重く、まるで水の中に沈み込んでいくようにも感じられる。手足にも力が入らず、ヘネラリーフェはノロノロと頸だけ動かして辺りを見渡した。白い天井、腕から伸びる点滴の管……それでなんとか自分の居場所だけは知ることができた。
(病院か……)
 だが、どうしてここにいるのかが思い出せない。再び頸を巡らせると、艶やかなダークブラウンの頭髪が目に入った。持ち主は顔を俯かしているのだろう、その表情は伺い知れない。
 思った通りに躰が動いてくれないことに閉口しながらも、ヘネラリーフェは腕をそろそろと彼に伸ばした。白く細い指が黒に近いダークブラウンの髪に絡まる。指の感触に彼は俯かせていた顔を上げた。
「痛むか?」
「少し……」
 ロイエンタールの声は掠れていた。恐らく寝ていないのだろう。心配そうな金銀妖瞳がヘネラリーフェを真っ直ぐに見下ろしていた。
「私……」
 何があったのか問おうとしたとき、ロイエンタールの言葉がそれを遮った。
「どうして俺を庇った? 俺のことなど放っておけば良かったのだ」
(ああ、そうか……私、ロイエンタールを庇って……)
 漸く思い出した。人の気配を正面に感じたと思ったら、その手の中に小型の銃を認めたのだ。咄嗟のことで何も考える余裕はなかった。ただ、銀光が閃いた瞬間、無意識に躰が動いていたのだ。
「さあ……どうしてかしらね……少なくとも今死んでもらっちゃあ困るってのはあるわね」
 無意識の行動だからこそ、ヘネラリーフェは自分自身の行動がショックでもあった。いや、答えは簡単だ。死なせたくなかったから……ただそれだけだ。だが、たったそれだけのことがどうしても認められない。だから必死で自分に言い聞かせるのだ。
 あれは自分がロイエンタールを殺す為には必要なことだったのだと……他の人間に殺させてしまったら、復讐できないじゃないかと……だがそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸が苦しくなるのも事実だった。 
 扉の開く気配がして、両親とヤンが入って来る。それを機にロイエンタールは立ち上がり立ち去っていった。そんなロイエンタールの背中を見送る青緑色の瞳に涙が光ったのを、ロイエンタールは勿論のこと浮かべた本人でさえも気付いていなかった。
「痛むかい?」
 ビュコック夫妻が医者に娘の様態の説明を受けるために立ち去った後、ようやくヤンが口を開いた。
 シェーンコップとアッテンボローは警察の事情聴取で今は来られそうになく、後から顔を出すということを伝えると、ヤンは急に照れたような顔をヘネラリーフェに向けた。
「実は、昨日言えなくてね……グリーンヒル少佐と結婚することにしたんだ」
 ヘネラリーフェの表情が緩んだ。ヤンを想うフレデリカの気持ちにはヤン艦隊全員がほぼ気付いていた。しかも、何せヤンに惚れるくらいだからフレデリカは余程奇特な人間と思われている。そして、だからこそ誰もがその想いが通じることを願っていた。中には、なかなか進展しない二人に苛つきを感じた者もいたようだが……だが、めでたくヤンとフレデリカは想いを通じ合わせた。これ以上めでたい話があるだろうか?
「おめでとうございます、ヤン提督」
 面と向かって言われると照れるよな……ヤンはそう言って頭を掻きながら苦笑した。
「私は本当にこういうことには疎くてね」
 ヤンがポツリと言う。フレデリカにも周りの人間にも随分ヤキモキさせただろうと思うとヤンは付け加えた。他人のことには意外と敏感なのに、自分のこととなると実は昨日の夕食のメニューさえも思い出せない有様なのである。だが、そんな彼だからこそ知り得たこともある。
「ねえ、少将。人間どんなに惹かれ合っていても、それを言葉にしないとなかなか想いは伝わらないと思うんだ」
 フレデリカの自分への気持ちは彼女の視線からなんとなく気付いていた。自分のようなものぐさ者を好きになってくれるなんて奇特なものだと思わなくもなかったが、内心は嬉しかった。ヤンもフレデリカに想いを寄せていたからだ。初めて会ったのはまだ中尉の時、エル・ファシルでだった。サンドイッチを喉に詰まらせた自分にコーヒーを運んで来てくれた少女がフレデリカ=グリーンヒルその人だったのだ。
 その時、どうせなら紅茶の方が良かったと言ったことも、そもそも彼女と出逢ったことも彼の記憶には残っていなかったが、それから八年後副官として配属された美しく成長したフレデリカに心を奪われなかった言えば嘘になるだろう。あれから三年……陰日向にヤンを支えてくれるフレデリカに彼はごく自然に恋をした。
「でもその気持ちになかなか気付けなくて、気付いてもそれを言い出せなくてね。そのうち、彼女は私の気持ちなどお見通しだくらいに思ってしまっていたんだ」
 言わなくてもヤンのことを好きなフレデリカなら彼の気持ちをわざわざ口にしなくてもわかってくれているに違いないと勝手に解釈した。その結果、待たせに待たせることになってしまったのだとヤンは再び頭を掻いた。
「ヤン提督……提督はあの時のことを……」
「シェーンコップの手を離したことかい? それなら彼から聞いているよ」
 ヘネラリーフェの問い掛けにヤンは柔らかな微笑を浮かべながらそう返した。それ故のこれまでのヤンの言葉なのだ。
「人の心は難しいね。だが自分の心はもっと難しい」
 ヤン艦隊に配属されたばかりのヘネラリーフェの姿がヤンの脳裏に甦った。どこか人を寄せ付けない冷ややかな気を纏い、でもその裏では人の温もりを欲していた。いつも他人に一線を画して接し、なのにそれを越えたくてたまらないのだ。元来の自尊心の強さも災いしていた。自分の心になかなか気付こうとしなかったのだ。
「私はグリーンヒル少佐に恋しているのに、まずそれに気付くのに時間がかかってしまった。気付いてから結婚までの道のりは早かったけれど、でも三年という月日を私は無駄にしてしまったような気がする」
 バーミリオンを前にヤンはフレデリカにプロポーズした。この戦いで命を落とすかもしれない。だから、今やるべき事は今しよう……悔いは残したくないという一心で彼はフレデリカに告白したのだ。
「結果的に生き残ったが、戦闘がなければ今頃まだウジウジ悩んでいたかもしれないね」
 戦闘が告白の切欠になるとは些か皮肉なものだが、だが命の瀬戸際では誰も嘘はつけない。そう……自分にもだ。
「君はロイエンタール提督を……」
「違う! そんなこと絶対にありませんっ!!」
 ヤンの言葉を遮るようにヘネラリーフェは激しく言い放った。違う……そんなことある筈がない。自分はロイエンタールを憎んでいるのだ。
「君がロイエンタール提督の元から離れたのはラッキーだったのかもしれないね」
 ヤンは今もしここにシェーンコップがいたらきっと口にしただろうことをヘネラリーフェに伝えた。大きければ大きいほど、広ければ広いほど、山も海も景色も遠く離れなければその全容を見ることはできない……
「元々彼の方が色恋沙汰にかけてはエキスパートだからね」
 自分にはこんな話は向かない筈なんだが……ヤンはそう言って笑った。
「少しだけで良い……自分の心を見つめ直してみないかい?」
「…………」 
 いくら敬愛するヤンの言葉とは言え、直ぐにはYesと言えないところがヘネラリーフェらしいところだろう。
「例え相手が誰であっても、惹かれることを止められる人間はいないよ」
 そして相手が誰であっても、恋をしたらそれが正義……ヘネラリーフェを責められる者はいないのだともヤンは言った。悩み苦しむことは少なからず必要だろう。だが、これ以上苦しむヘネラリーフェを見ていられないというのが、ヤンの、シェーンコップの、そして義父母の正直な気持ちだった。

 

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