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           彼は、黒い木立のかさなる影が
          彼の夢を冷やす闇の中を好んで歩いた。
         だが、彼の胸の中には、光へ、光へと
          こがれる願いが捕らえられて悩んでいた。
                                 彼の頭上に、清い銀の星こぼれる
          晴れた空のあることを、彼は忘れていた。

                                『彼はやみの中を歩いた』ヘッセ

 

第六章

一 闇夜


「何をしている」
 豪奢な屋敷の中に低音のよく通る声が響いた。瞬間屋敷中の空気が凍り付いたと思うのは気の所為ばかりではないだろう。そうするだけの力と冷たさを秘めた声だったのだ。
 屋敷内の者は勿論だが、ロイエンタールにそう言わせた張本人もさすがにビクリと躰を硬直させると声のした方にそっと振り返る。
だが素直とはお世辞にも言い難いヘネラリーフェの性格はここでも発揮され、 その口から放たれた台詞は如何にも彼女らしい不敵なものであった。
「なにしているかって、見ればわかるでしょ? 歩いているのよ」
 正確には歩こうとしている……もっと正確に言うと、あてがわれた寝室の前でドアのノブに掴まって立とうとしていると言った方がいいだろう。
 自らの命を楯にしての作戦は、当然ながらヘネラリーフェの躰を死の一歩手前まで叩き込むほど痛めつけた。躰中のあちこちに骨折・擦過傷・裂傷・火傷を負っており、さらに右腕と左足の神経断裂とくればそう簡単には完治しない。
 軍医にも、そしてロイエンタール家の主治医にも絶対安静を言い渡されていたが、ヘネラリーフェが『はいそうですか』と大人しく言うことを聞くような人間の筈がない。これは相手が敵将だからと言うわけでなく、恐らくハイネセンでもイゼルローンでも態度は同じであっただろう。
 ともかく、重傷で安静を必要としながらもヘネラリーフェは躰の自由を取り戻すべく、手術は成功したとはいえ未だ動かぬ手足で早すぎるリハビリを決行しようとしていたのだ。
「誰が動いて良いと言った? 部屋に戻れ」
 再び冷徹な響きを持つ言葉がヘネラリーフェに投げつけられたが、その命令口調がヘネラリーフェの気に障った。
「命令しないでよ。何様のつもりなの!?」
「お前は自分の立場がまだわかっていないようだな」
「捕虜になったからって、あんたの玩具にされるいわれはないわ」
 ロイエンタールに負けず劣らずの冷ややかな声音でヘネラリーフェも応酬する。たまらなかったのは見守っていた家人であろう。殆ど全員がこの背筋も凍り付くようなやり取りに石化していた。
 そもそも、ロイエンタールと対等にやりあう(やりあえる)ような女性など存在するとも思えないし思ってもいなかったことだろうに……
「物わかりの悪い人間には身体に教え込むしかなさそうだな」
 そう冷たく言い放つと、ロイエンタールはヘネラリーフェの華奢な躰を有無を言わさず抱き上げ寝室に入った。
「ちょっと、離してよ!!」
 その言葉に従ったわけではないだろうがロイエンタールはヘネラリーフェの躰を乱暴にベッドの上に放り投げた。
「あうっ!」
 ベッドに落ちる衝撃でヘネラリーフェは苦痛に呻いた。自分の躰のことは自分が一番よくわかっている。まだ動ける状態でないことも、無論ヘネラリーフェは承知していた。だが、それでも目の前の二色の金銀妖瞳を持つ男の言いなりになるのが心底嫌だったのだ。
 全身を貫いた激痛をなんとかやり過ごしたヘネラリーフェの細い腕を掴むと、ロイエンタールは彼女をベッドに押さえつけた。キッと強い双眸が彼の金銀妖瞳を射抜く。
 常人なら思わず怯みそうになる強い眼差しをものともせず、ロイエンタールはヘネラリーフェの頸に手をかけると軽く力を込めた。
「お前は捕虜、つまりは俺の所有物だということだ」
「だったらなんなの?」
「お前の生殺与奪は俺にある。生きていたいのなら絶対服従を誓え」
 冗談ではない。服従した結果どうなるのか……一生玩具状態である。逆らえばそれが回避できるのかと問われれば言葉に詰まってしまうだろうが、だからといって好き放題にされるというのもどうかというものだ。
 答えのかわりとばかりにヘネラリーフェは渾身の力を込めて自分を捕らえる男の腕を振り解こうと藻掻いた。が、逆に頸を絞める指に徐々に力が込められていく。息苦しさに意識朦朧とし始めたヘネラリーフェの耳元に口付けると、ロイエンタールは冷笑を湛えながら囁いた。
「逃れたければ俺をベッドから叩き落として見ろ。でなければ……」
 言いながらヘネラリーフェの着衣の胸元を引き裂くと乱暴に口付けた。
「嫌、やめてっ!」
 布の裂ける乾いた音と共にヘネラリーフェの細い悲鳴が響き渡った。何をしようとしているのかは一目瞭然。挑発とも思える毒のあるロイエンタールの言葉と態度に、ヘネラリーフェはありったけの力を込めて抗ったが、仮にも軍人である男の鍛え抜かれた身体はびくともしない。
 そして数分後、ヘネラリーフェは諦めたように躰の力を抜くと青緑色の双眸を静かに閉じた。
 悔しくて悔しくて……あまりの屈辱に涙も出ない。男の腕を振り払うこともできずこのままロイエンタールにされるがままにならなければならない自分が心底情けなかった。
(いっそのこと)
 ヘネラリーフェの脳裏にふとそんな想いが浮かんだ。死のうと思えばどうやってでも死ねる。このまま再び陵辱されるくらいなら舌を噛んで……そう思い、事実そうしようと口唇を噛みしめたそのとき、不意に息苦しさがなくなった。ロイエンタールの指が頸から離れたのだ。ヘネラリーフェは薄く瞳を開けると自分を見下ろす男を見やった。
「そんな弱い力じゃ俺を振り払うことなどできんな。俺をやり込めたいのなら早く傷を治すことだ。今暫くは囚われのお姫様らしく大人しくしているんだな」
 先程までの冷ややかさはなく、落ち着いた声音でそれだけ言い残すと、露出した白皙の肌を包み隠すかのようにヘネラリーフェの躰に毛布をかけロイエンタールはさっさと寝室を出て行く。
 あっけなく解放されたヘネラリーフェはただ呆然とするしかなかった。てっきりあのまま……と、完全に諦めモードに入っていたのだ。
 目を開けたとき、自分を見つめる蒼と黒の双眸に冷ややかさだけでなく複雑な色合いが浮かんでいたのはヘネラリーフェの気の所為だったのだろうか。ともかく己の身が無事だったことに取り敢えず安堵の溜息を洩らした。
 とは言ってもこれまでに散々……無事だったとは言っても今日の所はという次元でしかない。しかしこんな状況下にありながらなぜか絶望がないのは不思議なことだった。
 絶望……思えば不思議な今の感覚である。トリスタンに救助され己が捕虜になったと悟ったあのとき確かに絶望を覚えた。艦内でロイエンタールに躰を奪われたことで既に絶望という状況を超越してしまったのか、それともただ単に腹が据わっただけなのか……今のヘネラリーフェは自分自身でも不思議なほど冷静で落ち着いていた。
 これまでのヘネラリーフェはといえば明るいもののどこかひねくれていて、他人を受け入れているかと思えば最期の一歩で拒絶し踏み込ませないというところがあった。それが生い立ちと最愛の人間を失ったことによるということは誰が考えてもわかることである。彼女は一見前向きに見えて実は後ろ向きのまま人生を歩んでいたのだ。だが、今はどうだろう? 
(考え方によっては、人は不幸を不幸とは思わないのかもしれない)
 いや、確かに歓迎しがたい状況ではある。だが考え方を変えれば此処オーディンはヘネラリーフェにとって間違いなく故郷であるのだ。
 勿論自分の躰に流れる血を思えば喜びの帰還とはほど遠い。それに彼女自身ハイネセンこそが帰るべき故郷だと心に決めている。しかしそれでも此処はヘネラリーフェのルーツでもあった。
 そしてもうひとつ。状況はどうあれ現時点の帝国にはヘネラリーフェを知る者がいない。あの戦闘でひょっとすれば死んでいた、いやあの時自分は死んだのだ。そして新たに生まれ変わった。
 ダグラスやレオンのことを忘れたいわけじゃない。だが、いつまでもその想いに捕らわれて生きていけないことも重々わかっている。
 誰も知る者のいない(と言っても、彼女の存在をミッターマイヤーは知っているし、ロイエンタールと彼の両軍も知ってしまっているということになるのだが)この星で新たに人生を始めるのも案外悪くないのかもしれない。
 もっとも、捕虜で監禁されている身ではやり直すもクソもないが……それに誰かが憲兵隊に報告しないとは限らない。そうなった時点でヘネラリーフェは即逮捕拘禁されるだろう。そうだとすると、ロイエンタールに捕らえられたことは幸運なのだろうか?
(冗談でしょ!)
 結果的に誰にも知られることなく傷を治すことに専念できるとはいえ、屈辱と恥辱にまみれた生活を否応なく押しつけた男が自分に幸運をもたらしただなんて絶対に認められない。そもそもあの余裕綽々なところが気に入らない。
(超ムカツク)
 あいつをギャフンと言わせること……これが、ヘネラリーフェの当面の目標だろう。結局ロイエンタールの術に填ったことになる。つまり、ヘネラリーフェは報復する為だけに傷の治療に専念することに、いや、しなければならない状況に落ち込んでしまったのだから。
「なんかムカツク。ロイエンタールの馬鹿野郎! 蹴ってやる! 踏んでやる! 殴ってやる~!!」
 その悪態は部屋の外にまで漏れ聞こえる。
 寝室から外に出たロイエンタールは扉に凭れ静かに目を閉じながらそれを聞いていた。どこかその表情に安堵感とそして苦笑とも冷笑ともとれるものが見てとれる。
 ロイエンタールは困惑していた。ヘネラリーフェに対して無心でいられない自分に。これまでどんな女性、いや、人間でも、ロイエンタールの感情を動かすことはできなかった。
 ただ一度彼の心を動かしたそれは恐らくカプチェランカのあの戦闘だろう。それ以外に彼が感情的に喜びや哀しみ、そして怒りを露わにしたことは全くなかったのである。
 どこか違う世界、例えばガラス細工のような危うさと脆さ……ミッターマイヤーなどはロイエンタールのそんな所を心底心配しているのだが、ともかくロイエンタールが他人に興味を持つということはこれまで一切なかった。
 それがヘネラリーフェに対してはやけに執着し、そして感情的になってしまう。彼女を見ていると無性に苛つく……それは恐らくヘネラリーフェに対しての苛つきでなく、冷静でいられない己自身に対してのものなのだろうが。
 そしてそれがヘネラリーフェへの一種残虐とも言える態度として出てしまうのだ。何故こんなにも感情的になってしまうのか……これまでに経験したことのない心の動きに、明らかにロイエンタールは動揺していた。
(いったいこの気持ちはなんだ)
 つい先刻もそうだった。なんとか理性で押し留めたがあのまま感情に流されていればまたも彼女を傷付けていたことだろう。これまでに何度もヘネラリーフェを力ずくで抱いた。しかも躰の自由のきかない怪我人をである。罪悪感を抱いたとしても今更……と言われればそれまでである。が、ダグラスとの約束は守らねばならなかった。
「顔向けはとてもできんがな」
 ポツリと呟きながら己自身に最高級の冷笑を浴びせるしかなかった。それでもひとまずこの挑発でヘネラリーフェが大人しく安静を守るであろうことは予測でき、一刻も早く傷を治させるというロイエンタールの思惑は叶えられたことになる。
 皮肉なものだ。

 

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