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第八章

七 風は戦ぐ


「ロイエンタール!!」
 聞き慣れた声にロイエンタールが背後を振り返った。蜂蜜色の髪と灰色の瞳の僚友が息を弾ませて駆け寄ってくる。
「遅いじゃないか、疾風ウォルフ」
 親しみを込めた皮肉にミッターマイヤーは苦笑した。そんな僚友の背後にロイエンタールは今ひとり自分達に歩み寄る人の姿を認める。
「ご無事で何よりです」
 丁寧な口調と物腰。ルビーを溶かしたような赤い髪が夜の闇に浮かび上がる。
「キルヒアイス」
 ミッターマイヤーから全ての事情を聞かされた時はさすがに驚いたが、こうして自分に全てを打ち明けてくれたからにはロイエンタールに叛意などないと信じなければならないと思い直した。
 ブラウシュタット侯爵レオン・ルーイヒの戦死の報が流れた時キルヒアイスはまだ一〇歳、幼年学校に入学した年だった。市井に住む平凡な少年でいたら恐らくその名を知ることはなかっただろう。だが、軍人を目指しはじめた彼とラインハルトはその名を胸に刻み込んだ。
 帝国随一の名将、数々の戦闘で帝国軍を勝利に導き、だが恐らく自軍の犠牲者は数ある名提督率いる戦闘よりも遙かに少なくて。部下に敬愛され上官からも人望が厚いレオンに二人は憧れを抱いていたのかもしれない その憧れの人の忘れ形見が同盟軍将校としてロイエンタールの捕虜となり、そして陰謀に巻き込まれた。
 とにかく逢ってみたいと思った。ラインハルトに報告するのはそれからでも遅くない筈だと。彼の性格を思えばやはり自分という緩衝剤を挟んで耳に入れた方が良いと判断したことも勿論ある。
 リートベルクに関しては、キルヒアイスはラインハルトと思想を同じくしていた。つまり今でこそ遇せねばならぬが、絶大の信頼を寄せるには危険すぎる人間だと見極めていたのだ。そんな男の悪しき陰謀に巻き込まれたというだけで、恐らくヘネラリーフェは敵ではないと思えた。確かにそれは帝国貴族としての彼女への見解なのだが……
 では軍人としては? キルヒアイスの脳裏に、イゼルローンでの捕虜交換式で見かけたヘネラリーフェの姿が浮かび上がる。勿論この時はまだ彼女が行方不明の侯爵令嬢だとは露ほども知らない。知ったのはそれこそつい先刻なのだ。
 これについてはヘネラリーフェ自身がかなり慎重な態度をとっていたことが伺い知れる。何せヤンの腹心の将官が姓を名乗らないなど不敬に値するくらい失礼な行為なのだ。ま、つまり早い話が上手く誤魔化したということである。
 要塞司令官ヤン=ウェンリーはこの捕虜交換式でキルヒアイスに対して好意を持った。味方の政治家より敵の司令官に好感を持つというのも妙なものであるが、現在の敵味方が永遠に固定しているわけでもなかろうと彼は後に笑って言ったものである。
 軍人らしからぬ風貌の名将の傍らに控えるヘネラリーフェの、真っ直ぐにキルヒアイスを射抜く海を思わせる青緑色の双眸は凛として強くて優しくて。敵味方で判断するべき女性ではないとこの時キルヒアイスは実感した。ヤンがキルヒアイスに感じたものと同種のものをキルヒアイスはヤンに、そしてヘネラリーフェにも抱いたのだ。
 もし生まれる時代が違っていたら、生まれる国が違っていたら……キルヒアイスにそう思わせるだけのものをヤンとヘネラリーフェは持っていた。その彼女が今ここに、この国にいる。
「事情はミッターマイヤー提督からお聞きしました。ひとまず私にお任せ下さいますか?」
 邪推の欠片も含まれていない言葉と表情でキルヒアイスはロイエンタールに告げる。
「手間をかけさせて済まんな」
 ロイエンタールが自嘲気味に言った。
 キルヒアイスの眼が彼女はどこですかと問い掛けてくる。ロイエンタールがヘネラリーフェの方を振り返ろうとしたとき一発の銃声が響いた。
 咄嗟に銃声のした方を見やると、手にしていた銃を弾き飛ばされた痛みで手首を押さえながら木の幹に寄りかかっているヘネラリーフェが眼に入った。その彼女の数メートル前に銃口を彼女に向けたまま微動だにしないひとりの男。リートベルクの傍らに絶えず寄り添っていた彼の腹心の部下であった。絶体絶命の状況にロイエンタールは勿論のことミッターマイヤーもキルヒアイスも凍り付いた。
「貴女だけは殺せと主から仰せつかっているのですよ」
 主人が主人なら部下も部下。精神崩壊甚だしい男の傍近くの仕えると似なくても良いところまで似てくるものらしく、男の口元には吐き気を催す程の凄惨な殺気が込められた下品た嘲笑が浮かんでいた。
 だがヘネラリーフェは冷静だった。足下の先程自分が撃ち殺した男の手の中に銃が握られている。そこまでの距離を内心で測りながらヘネラリーフェは考えた。
(三秒、三秒あればいい。三秒だけこの躰が思い通りに動いてくれれば)
 風は必ず向きを変える。チャンスは来る。どんな絶望的な状況でも諦めなければ必ず……精神を集中させろと自らに言い聞かせた。
 ヘネラリーフェが微動だにせずただじっと立ち竦んでいるかに見え、男はほくそ笑んだ。引き金にかかる指に力を込めていこうとする。
 渓谷を渡る風が激しさを増しはじめ、ヘネラリーフェの柔らかな琥珀色の髪を靡かせはじめた。風が雲を動かし、そして闇が訪れる。衛星の淡い光の降り注ぐ世界に慣れた男は闇の中でヘネラリーフェの姿を見失った。
 一瞬のチャンスをヘネラリーフェは逃さなかった。動かなかったのは闇の中でも銃の場所を見失わないよう、ずっとそれを見つめていたからだ。
 不自由な足で一歩を踏み出す。屈んで銃を拾い上げることは時間的にも体力的にも無理だと最初から判断していた彼女は、咄嗟にそれを爪先で蹴り上げ、宙に舞った銃はヘネラリーフェの手の中に落下した。
 落下した銃の引き金に手をかけたのと衛星が再び顔を出したのとはほぼ同時である。そしてその一部始終をロイエンタール達は目の当たりにした。傑出した軍人である彼等は闇に視力を奪われることはなかったのだ。
 我に返った男が眼にしたものは、地にしっかりと足をつけ両手で握った銃を自分に向ける女の姿だった。氷の割れ目に見られるような深く澄んだ青緑色の双眸が強く怜悧で冷徹な光を帯びて真っ直ぐに射抜いてくる。なんの感情も、そう殺意も侮蔑も含まれない表情が僅かに動いた。
 それが何かを悟った瞬間、男は恐怖を貼り付けたかの様な表情でその鼓動を強引に止められた。男が最期に見たもの……宝石のごとく美しい青緑色の双眸に蒼白い焔を揺らめかせながら尚且つ凄惨な嘲笑を可憐な口元に浮かべたあまりに美しくて恐ろしい正に闇の女神然としたその麗姿に、男のみならずロイエンタール達の背筋にも冷たいものが流れた。
 凍り付いた刻から最初に立ち直ったのはキルヒアイスだっただろうか。彼の存在に気付いたヘネラリーフェの顔に一瞬だけなんとも言えない、強いて言えば諦めとも覚悟ともとれる表情が浮かび上がったのをロイエンタールは見逃さなかった。
「ご無事で何よりです、フロイライン・ビュコック。いえ、ブラウシュタット少将とお呼びした方が宜しいですか? お久しぶりですね、と言うのはこの場合少々表現がおかしいですね」
 確かに彼とヘネラリーフェは互いが互いを敵と見なす国家に属する人種だ。できれば死ぬまで逢えない方が有り難かっただろう。特にヘネラリーフェの場合立場が立場なだけに、逆のシチュエーションならともかく今回のような再会はお世辞にも歓迎できるものではなかった。が、他人ならともかくいかにも人好きのする穏やかな風貌のキルヒアイスに言われると、なぜか戦闘意欲も沸き上がってこない。
 イゼルローンで初めて顔を合わせた時、やはり彼女も長身の赤毛の提督に味方以上の好意を抱いていたのだ。その時の気持ちは今でも変わりはない。こんな時代でなければ……と何度か考えたことも勿論あった。
「好きな方で呼んでいただいて結構よ。ひとまずわざわざ駆けつけてもらったことに対してお礼を言った方が良いのかしらね、キルヒアイス上級大将。こんな形で会いたくはなかったけど」
 ヘネラリーフェらしい、だが彼女を知る者からすればそれが最大限の敬意の現れであるとわかるちょっと皮肉の込められた言葉に、キルヒアイスは穏やかな微笑みで返した。
「それにしても大したものですね、フロイライン」
 いかに闇のニュクスと謳われる女性とは言え、ヘネラリーフェは陸戦部隊ではなくあくまでも艦隊司令官である。しかも女性の身で先程の身のこなしだ。さしものキルヒアイスも感嘆せずにはいられなかったに違いない。
 研ぎ澄まされた鋭敏な判断力と観察力、咄嗟の身のこなし、正確な銃撃。ヘネラリーフェの磨き抜かれた危険回避能力は歴戦の勇者をも驚嘆させるに値するものがある。
「誰に向かって言っているの? 私のこれはローゼンリッター仕込みよ」
 だが、感嘆したようなキルヒアイスの言葉にヘネラリーフェはクスリと忍び笑いを洩らしながらピシャリと言い放った。
 薔薇の騎士連隊……同盟最強の陸戦部隊には帝国軍も何度も煮え湯を飲まされている。そんな男達に仕込まれた自分に、己のことでさえまともにできない舐めた貴族の馬鹿息子共がどうこうできる筈などないという確信にも似た自信が彼女にはあったのだ。
 だがロイエンタールだけは硬質な光を湛えた眼で最強の男達の愛弟子であるヘネラリーフェをじっと見つめていた。彼女は言わなかったが、ロイエンタールだけは誤魔化されなかった。
 確かに彼女のあの強さはローゼンリッターが仕込んだこそのものだろう。だが、彼等が手を加える前に基礎を叩き込んだ者の影をロイエンタールはヘネラリーフェの無駄のない動きを目の当たりにして敏感に感じ取ったのだ。
 ダグラス=ビュコック……かつてシェーンコップでさえも惜しい男を亡くしたと勝算した同盟軍屈指の勇者。そしてロイエンタールが自らの手で葬り去った男はヘネラリーフェの中に今でも生き続けている。それをロイエンタールは思い知らされずにはいられなかった。
 突如闇を切り裂くようなヘリコプターの轟音が響き渡る。ヘネラリーフェの眼がヘリの中のリートベルクの姿を認めた。卑怯にも自分ひとりで逃げるつもりなのだ。
 ヘネラリーフェが銃を上に向けて構える。射程距離を越えていることはわかっていた。だが、彼女は全ての怒りを吐き出すように引き金を引き続ける。闇の中にエネルギー弾の閃光が何度もはしった。
「逃げられちゃった」
 態度の割に口調は少しも悔しそうでない。悔しがる必要などないのだ。あの男はこのまま引き下がる筈などないとヘネラリーフェは確信していたのだから。今日か明日か、そう遠くない未来にあの男と直接相見える日がくるだろう。その時こそ決着をつけるのだ。
「咄嗟のことで余裕がなかったものだからさっきの男は殺しちゃったけど、何人かは一応生かしてあるので、適当に連れ帰って下さいな」
 つい今し方までの冷ややかさとはうってかわった様相で言いながらヘネラリーフェがキルヒアイスに自分の使用していた銃をポンと投げて寄越した。
「ほら、サクサク帰るわよ」
 突っ慳貪な声でロイエンタールに言うその言葉を聞いても、キルヒアイスは何も言わず、そして引き留めようともしなかった。自分に任せろと言ったからには最後まで責任を持つつもりなのだろう。どのみちヘネラリーフェに決定権はない。それにリートベルクをこのまま野放しにもできない。 
 キルヒアイスにも、そしてロイエンタール、ミッターマイヤーにもわかっていた。今ヘネラリーフェをラインハルトの元に連れて行くまでもないと。
 見えなければ動かなければ良い……ヘネラリーフェが教え込まれたシェーンコップの言葉をこの三人の提督達も実践しようとしていたのだ。いや、それよりも何よりも、これは軍人として当たり前の戦略だろう。
 敵が動くまで相手の気配を伺うのだ。あの男は数日のうちに焦れて動き出すだろう。いや、もう既に手を打っているかもしれない。
「一度は窮地に追い込まれてしまうかもしれませんが」
 キルヒアイスの言葉にロイエンタールは構わんと言い残し、ヘネラリーフェを伴って立ち去った。
 そして、決着の日は意外と早く訪れたのだった。

 

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