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第十章

三 泡沫の再会


 艦を襲った鈍い衝撃にロイエンタールは動きを止めヘネラリーフェの顔を見やる。
 情事の最中、ヘネラリーフェの双眸が衝撃の瞬間キラリと光ったのを彼は見逃さなかった。同時にロイエンタールはヘネラリーフェの思惑をはっきりと悟ったのだ。
「なるほど……そういうことか……大したものだな、ブラウシュタット少将。いや、闇のニュクス」
 その時艦橋から連絡が入った。が、わざわざ聞かなくてもわかる。同盟の強襲揚陸艦が突入してきたのだ。そして、ヘネラリーフェこれは待っていたのだ。その為にロイエンタールを色仕掛けで誘い込んだ。
 ベルゲングリューンによれば援軍として同盟旗艦ヒューベリオンが出撃してきたことで帝国軍は戦意過剰の状態に陥り、艦隊をヒューベリオンに向かって突進させた所にこの詭計にかかったらしい。
 だが、これに関してロイエンタールは誰をも責めることはできないだろう。艦橋に司令官が不在だったこともあるが、それより何より、もし自分が艦橋で指揮をとっていたとしても恐らくヒューベリオンへ突進させ、結果的にヤンのトリックに引っかかっていただろうと思うからだ。
 ロイエンタールは艦橋に赴くべく服装を整え、そして改めてベッドにグッタリと躰を投げ出すヘネラリーフェに声を掛けた。
「見事に俺に隙を作ったわけだ、お前は……」
 だが、これはある意味チャンスだった。このままヘネラリーフェを傍に置き続ければ、お互いに傷付け合うだけ。これは彼女を同盟に、ヤン=ウェンリの手に返す絶好の機会なのかもしれない。
 敵の陸戦部隊は恐らくあのローゼンリッターだろう。ヘネラリーフェは彼らとは知己のようだから、巧くすればこちらが画策などしなくても向こうがヘネラリーフェを奪還しようと動いてくれる。そうすれば……
 部屋の外が俄に騒がしくなる。敵が迫ってきているのだろう。ロイエンタールは横たわるヘネラリーフェの傍らにそっと腰を降ろすと、彼女の髪を指に絡め取ってそっと口元に持っていき口唇を押し付けた。
 思惑通りにいけば今生の別れになる。できることなら手放したくはなかった。愛しくて切なくて……どんなに憎まれようと、それでも傍にいて欲しくて。傷付けるだけとわかっていながら離れていることがとてつもなく不安で、ついにこんな最前線にまで連れてきてしまった。
 自分が壊れるのは良い。だが、このままでは危惧した通り本当にヘネラリーフェの精神を壊してしまうかもしれない。今のままヘネラリーフェに激情をぶつけ続ければ遅かれ早かれそうなるだろう。いや、それは既にはじまっているのかもしれない。強襲揚陸艦の突入を予測し、そしてそうなったのにこの落ち着きはどうだろう? 少なくとも彼女は自分が脱出を測る為に動いたのではないのだ。
 そう……あくまでもヤン艦隊の為。自分のことなど何も考えていないに違いない。自分の身がどうなろうと、もう彼女にはどうでも良いことなのだろう。既に自らを捨て去っているからこそとれた策なのだ。そんな彼女に対して、このままロイエンタールが自分の思いをぶつけるだけでは、それは男のただの我が儘にすぎない。
 今の自分ではヘネラリーフェを追い詰めはしても支えることは、包み込むことはできないだろう。ならば……返そう。返すのだ……彼女の本来いるべき場所に。
 髪に絡めた指をそっとヘネラリーフェの頬に滑らせ、そして可憐な口唇をなぞる。柔らかな髪も白皙の肌も澄んだ青緑色の双眸も、何もかもを自分の中に刻み込むが如く、ロイエンタールはヘネラリーフェの躰に優美な手で、そして口唇で触れていく。
 気怠げな青緑色の瞳がゆるゆるとロイエンタールを見返したその時、突然ドアが荒々しく開かれた。咄嗟にそちらを見やると……
「ロイエンタール提督?」
 耳元に流れ込む流暢な帝国標準語に、弾かれたように起きあがったのはヘネラリーフェの方だった。
「!?」
 どちらも直ぐには声が出せなかった。ヘネラリーフェの方はあらかた確信していた事態とはいえ、事実になればやはり動揺する。何よりも、今自分が何をしていたかを思えばとても合わせる顔がないのだ。そして相手もまた、自分が夢を見ているのではないのだろうか? とさえ思えて目の前の真実が俄には信じられなかった。
「生きていたのか? リーフェ、お前……」
 シェーンコップの視線がヘネラリーフェのシーツ一枚を纏っただけの華奢な肢体に痛いほど浴びせられる。
「シェーンコップ少将……」
 名を呼びながら、だがグレーがかったブラウンのその眼差しに厳しさを感じ、ヘネラリーフェは思わず両手で自らの躰を抱き締めるようにして彼の視線から遮ろうとした。見られたくなかった。自分の汚れきってしまった姿など……だがそんなヘネラリーフェの耳に流れ込んだのは、
「よう、お嬢ちゃん。相変わらず美人だな」
 そんな、不敵で、それでいて暖かな、ヘネラリーフェのよく知った男そのままの言葉だった。咄嗟に顔を上げると、自分を見つめる眼差しが、最後に別れたあの時と変わらぬ優しさを湛えて不敵に微笑んでいた。恥ずかしさより、懐かしさが込み上げてくる。
 どんな時も忘れたことなどなかった友の顔だ。今自分が生きているのは、シェーンコップの言葉があればこそなのだ。そうでなければ、捕らわれたあの時とうに命を絶っていただろう。
「同盟の犬か?」
 再会の余韻は、だが冷ややかなこの誰何によって現実に引き戻された。
「残念だが感動の再会は後回しだ、お嬢ちゃん。私はワルター・フォン=シェーンコップだ。死ぬまでの短い間、覚えておいていただこう」
 言うが早いか、シェーンコップの戦斧が風を裂いてロイエンタールに襲いかかった。
 ヘネラリーフェを同盟に帰す……友との久方の再会に割って入ることはしてやりたくはなかったが、どうやらそうとばかりも言っていられないようだった。シェーンコップと名乗った男の最大の目的がロイエンタールである限り、これは避けられない戦闘なのだ。
 しかしこれではヘネラリーフェのことなど考える余裕などありそうになかった。無論、ヘネラリーフェを託すべき相手のこともだ。今はただ敵として見ることしかできそうにない緊迫した状況がそこにはあった。
 だが、それはシェーンコップも同じ想いだろう。一刻も早く任務を終わらせ、サッサとヘネラリーフェを連れてイゼルローンへ引き返したいと考えている筈なのだ。 
 強烈極まる斬撃を受け止めるような愚をロイエンタールは犯さなかった。均整のとれた長身が完璧な意思にコントロールされて、二メートルの距離を飛び下がる。戦斧は半瞬前までロイエンタールの頭部があった空間を床と水平に通過した。
 ヘネラリーフェはその瞬間思わず身を竦ませ目をギュッと閉じ、その後自分のその行動に愕然とし冗談ではないとばかりに頭を強く振った。まるでロイエンタールの身を心配しているようではないか!? シェーンコップが彼を殺してくれたら、それはヘネラリーフェにとっても幸運なことの筈なのに。
 ロイエンタールが銃の狙いを定める。が、空を切って流れたはずの戦斧は、慣性を無視したように以前に増した速度で反対方向から再び襲いかかった。ロイエンタールが身を沈める。炭素クリスタルの刃は彼のダークブラウンの頭髪を数本、宙に飛散させていた。
 ロイエンタールが沈めた身体をそのまま床に一転させ、跳ね起きると同時に銃の引金をしぼる。閃光のサーベルが相手のヘルメットに突き刺さったかに見えたが、相手は眼前に戦斧をたててビームを防いだ。
 戦斧の柄がエネルギーの負荷に耐えかねて折れ砕ける。柄だけになった戦斧がシェーンコップの手から飛んで、ロイエンタールの手から銃を弾き飛ばした。両者は素手のまま一瞬睨み合い、そして同時に動く。
 シェーンコップの手が腰のホルスターから長大な戦闘用ナイフを抜き取る。ロイエンタールは私室に備えてあった戦闘用ナイフを握った。軍靴が床を蹴りつけ、縦と横にナイフの閃光が走る。スーパー・セラミックの刀身が激突し、飛散する火花が両者の瞳を灼いた。
 突く、斬りつける、薙ぐ、受け止めて巻き込む、はじき返す。双方が白兵戦技術の粋をつくして、ナイフを相手の肉体に貫き入れるようとしたが、苛烈な攻撃と完璧な防御との均衡は容易に破れなかった。
 切迫し、緊張を孕んだ空気を一転させたのは複数の足音だった。
「シェーンコップ少将、脱出して下さいっ!」
 ヘネラリーフェが足音を聞き咎め咄嗟に声を上げた。司令官を救う為、ロイエンタールの部下達が駆けつけてくるのは時間の問題だ。近付く足音がそれを告げている。
 今ここで敵に包囲されればシェーンコップ達の脱出口が塞がれてしまう。ロイエンタールの命を奪うことも、あわよくば人質にという思惑は外れたが、だがそれでもここまで肉薄すれば充分だろう。同盟軍の戦況にプラスになってもマイナスになることはない。
「来い、リーフェ!!」
 帝国と同盟、各の兵士が各の上官の身を案じて部屋に雪崩れ込んできた。怒号と鮮血と閃光が無秩序に室内を満たす。その混乱の中で、シェーンコップがヘネラリーフェに手を差し出した。
 それを躊躇うことなくとりながら、だがヘネラリーフェはまるで後ろ髪を引かれるように後ろを、ロイエンタールを振り返った。
 彼は動こうとしなかった。ヘネラリーフェを引き留めようとするわけでもなく、ただその場に静かに佇んでいる。だが、その目は違った。まるで縋り付くような眼差し。口では何も言わなくてもその二色の双眸が叫んでいた。行かないでくれ、傍にいてくれと……
 シェーンコップの手を握り締めていた腕から急速に力が抜けていくのが自分でもハッキリとわかる。なぜだかわからない。だが、このまま行ってはいけないような気がした。
(どうして!?)
 自分で自分の行動がわからなかった。このまま行けばヤン艦隊の仲間の元に帰れる。また元の生活に戻れるのだ。
 ヘネラリーフェの足が止まった。シェーンコップが訝しげな表情で彼女を見やる。
「リーフェ、どうした?」
 遠くから数多の足音が響いてくる。この先ここに敵軍兵士がどれだけ雪崩れ込んでくるだろう? それを考えるとぐずぐずはしていられない。ロイエンタールの事だけがヘネラリーフェが足を止めた原因ではなかった。
 生活には支障はないとは言え、足はまだ完治していない。というより、完治はしないのだ。それ以前の自分ならシェーンコップ達の足を引っ張ることなく、それどころか頼もしい援軍として悠々と脱出できただろう。だが今のこの不自由な足では、かえって足手まといだ。
「行って下さい……少将……」
 ヘネラリーフェの手がシェーンコップから離れた。
「馬鹿野郎、何言って!?」
 ヘネラリーフェは簡潔に自分の躰の状態を説明した。
「私が食い止めます、その隙に脱出して下さい。私は足手まといになる、だから……」
 咄嗟に落ちていた戦闘用ナイフを拾い上げると、ヘネラリーフェは伸び上がるようにしてシェーンコップに軽く口付けると彼の背中を強く押し、そして自分はロイエンタールの元にとって返しナイフの刃を彼の首筋に水平に押しつけた。ロイエンタールは微動だにしない。
「動くな!!」
 凛とした声が部屋に響き渡った。その場にいた兵も、そして今駆け込んできたばかりの兵も、自分達の司令官を人質に取られたことで狼狽しながら迫力の一声に動きを止める。
「私は大丈夫だから……だから早く……ヤン提督に早くハイネセンに行ってと伝えて! それから義父を頼みますと……」
 そう言われたからといって、はいそうですかとその場を立ち去ることなどシェーンコップにできる筈がない。立ち止まったままヘネラリーフェを万感の想いを込めた眼差しで見つめた。そんなシェーンコップに柔らかな微笑を向けると、だが次の瞬間ヘネラリーフェは鋭く叫んだ。
「何してるの、早く行って! 行けったらっ!!」
 シェーンコップの噛み締めた口の端から血が滴り落ちる。彼は意を決したように背を向け、部下に退却を伝えると走り出した。最後に絶叫を残しながら……
「必ず迎えにきてやる。だから……だから生きろよ! 石にかじりついても生きろ、いいな!!」
 ロイエンタールの目に、ヘネラリーフェの海の如く深く澄んだ青緑色の双眸から真珠のような涙が零れ落ちるのが見えた。

 

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